「視覚の優越」と「耳の快楽」


 とある体育系の某教員談。授業で身体動かすBGMに嵐のオルゴール曲を流してたら、学生が「センセ、嵐の声聞きた~い」と言ってきた由。

 歌詞を、ではなく、だから「ことば」ではない。あくまでも「声」、音響としての音声を聴かせて欲しい、という意味らしかった。

 ということは、歌詞としての「ことば」に必然的に伴っているはずの意味と、それらによって編制されてゆく何らかのイメージに対しての欲求ではない。音声としての「声」の響きこそが音楽という創作物、少なくとも商品として市場に流通するようになっているそれらにとっていまや最も切実な要素であり、そこに合焦させて聴くべきものになっているようなのです。

 そう言えば、「声」さえあれば絵(画面、つまり映像)などいりません、と言い放ったアニメ好きの学生若い衆もいました。アニメの作品が好きというよりも、その登場キャラクターの声を発する声優こそが命、といったタイプで、自ら半ば自嘲的に「声豚」と自称し、あるいは時にまわりからも揶揄的にそう言われているような、おのが身体性のあらゆる水準を声優の「声」にだけ収斂させてゆく生身を抱え込んでしまっている、まあ、昨今そう珍しくもない性癖の持ち主ではありました。ただ、それは決して生物的な意味でのオトコの生身だけでもなく、もはやオンナについても同じような「声」への収斂、意識の合焦が等しく設定されているらしいことは、先の「嵐の声聞きた~い」などからも察知できます。

 そんないまどきの彼ら彼女ら若い衆の眼前のたたずまいをささやかながら目の当たりにしてきた経験からすると、たとえばあの「視覚の優越」というのも、これまで自分たちなどがあたりまえのように理解していたつもりのフーコー的な、あるいはメルロ=ポンティ的な意味あいからは、その文脈や中身自体、もしかしたら本邦の〈いま・ここ〉においては知らぬ間にまるで異なるものになり始めている可能性を思います。あるいは、これももう何度か折りに触れて言及している、かつてある時期から浪曲浪花節の聴き方というのが、たとえナマの上演の場においてさえも「眼をつぶって聴く」になっていったらしいことなどに連なる、とりとめない問いの系列としても。

「眼前で上演される表現を受け止める態度として、寄席の桟敷にねそべって「眼を閉じる」ことが、本来、そのように寛いだ生身の状態で、音声をまるごととして受容するためのものだったとしたら、カラオケでマイクを握って「眼を閉じる」身ぶりは、機器を介して聞こえてくるカラオケの伴奏やそこに乗る自分の声などをうまくモニターし、自分の「うた」と「うたう」を調整する規準にするためがひとつ、そして同時に、「うたう」自分の意識を内攻的に集中させて、何らかの心象風景的なイメージの中に自意識ごと溶かし込んでしまう目的があったでしょう。そこに臨場しているカラオケの聴衆は切断され、「うたう」意識は自己陶酔的に、言わば近代文学的な「個」の自意識として制御されることで、「うた」本来の、その場の共同性へ向けて開かれた表現としての機能は、減衰されざるを得ない。」
king-biscuit.hatenablog.com

 たとえば、耳もとで音を常に鋭角的に聴かされてゆくような環境が、イヤフォンやヘッドフォンというデバイスの普及によってある種普遍的なものになっていった過程が、音を聴くという体験自体の意味も内実も、それまでと違うものにしていったかも知れません。イヤフォン自体はかつてトランジスタラジオが新たなモバイルデバイスとして普及してゆく過程で、そのラジオの音を自分だけのものにしてゆくために選ばれていった道具でしょうが、当初は片耳に向けたモノラルの、しかも文字通りの音声として伝達することだけが目的で、その音質やクリアさなどについては、技術的な制限ともあいまって、必要以上に考慮されることはなかったでしょう。

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 こういう暮らしの中のささいなモノやコトについての歴史や来歴について自前で掘ってゆくような営みは、さまざまな広がりを伴いつつ、すでにweb環境に宿っています。イヤフォンやヘッドフォンなどの耳もとデバイスについても誠実な考察が、たとえばこのように。

「ヘッドホンという存在が歴史上、初めて登場したのは音楽鑑賞用ではなく、電話交換手用のものだといわれています。1880年代に普及が始まった電話(日本でも1890年にサービスがスタート)は、電線ケーブルの効率化のために交換機が必要でした。交換機がないと各電話機同士を直接接続しなければならず大量のケーブルが必要になります。そして、交換機のケーブルを繋ぎ変えて通話者同士の電話機を接続するのは、人の手によって行われていました。その電話交換手が使っていたものが、世界最初のヘッドホンです。片耳のみで、卓上型のマイクもセットで活用されていたため、ヘッドホンそのものというより、インターカム用ヘッドセットの原型といえる存在でした。」

「「ウォークマン」には持ち運びしやすいヘッドホンの組み合わせが不可欠でした。初代「ウォークマン」には、約45グラムの新開発のポータブルヘッドホン「MDR-3L2」が付属。それまで、300~400グラムが標準的だったヘッドホンが一気に軽量小型化したのです。それは、「ウォークマン」の発売と同じくらい画期的なできごとでした。 (…) ソニーの開発陣はさらなる小型軽量のヘッドホンが必要と考え、新たなる製品の開発を進めます。そして1982年に誕生したのが、世界初のインナーイヤー型ヘッドホン「MDR-E252」です。ヘッドバンドもイヤーパッドもなく、ドライバーユニット(音の出るパーツ部分)を裸のまま耳のくぼみに引っ掛けるという装着スタイルは、とても斬新でした。また、イヤホンという言葉自体に馴染みがなく、インナーイヤー型ヘッドホンと呼ばれていたことからも、当時どれだけ画期的な存在だったかを窺い知れます。その後、「ウォークマン」とイヤホンはどちらも大人気となり、多くのメーカーが同じような製品を発売。現在のポータブルオーディオへと繋がっていくことになるのです。こうして、音楽鑑賞用のイヤホンの歴史がスタートしました。このあと現在までの35年あまりで、イヤホンという製品ジャンルは急速に発展していくことになります。」(野村ケンジ「イヤホンの歴史」2019年)
www.j-cast.com
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 ここで「イヤホン」と表記されているものは、ウォークマン介して一般化していったイヤフォン系のヘッドフォン(妙な言い方ですが)のことになっていて、それまでのトランジスタラジオなどに突っ込まれることを想定していたはずのモノラルの、安価でたよりなげなあの一本コードのイヤフォンのことではない。「音楽鑑賞用イヤホン」と明記されているあたり、意識されているのは「音楽」を聴くためのデバイスとしてのイヤフォンのようです。

 耳もとで音を響かせる、という意味あいならば、むしろ補聴器などの方がより、この場での趣旨に近いかもしれない。補聴器についても、由緒正しい「好事家」的味わいもうれしいこんなサイトがひっかかってくるのが昨今の情報環境。

「ここでご紹介する補聴器の数々は海外の資料(著作権者より使用許諾済み)に基づくもので、単に年代別の記録を列挙するのみならず、カタログや広告等も含めその当時の雰囲気や補聴器使用者の様子を伝える写真も取り込んでいます。補聴器の歴史を通し、先人の労苦と困苦の一端を知る事により、今日の補聴器の価値、有用性、携帯性、便利さ、有り難さを認識し、良き時代に聞こえが悪くなった事に感謝する一助になる事を願っています。 『補聴器愛用会』会長 松谷明人」 
home.a01.itscom.net

 これによれば、今言っている片耳一本コードのイヤフォンは、どうやら1940年代半ばあたり、第二次大戦の終わりあたりから補聴器に附随するデバイスとして存在するようになったらしい。もちろん、「音楽」を「鑑賞」するための道具ではない。戦後、本邦で発明されることになるトランジスタラジオにも、補聴器と同じくそのようなイヤフォンが附随するようになっていったのには、当時のトランジスタラジオの小さくて華奢な筐体に収まるスピーカーからの音量がそもそも小さかったことから付録的につけられていた、という理由からのようです。

 音楽を聴くことと、ラジオを聴くことの違い。ラジオから流れてくるのが人の声であれ音楽であれ、それはラジオというデバイスを介して流れてくる音声という意味では同じこと。しかし、聴き手が「音楽」というカテゴリーを前景化して考えるようになるなら、それはラジオよりも「良い音」で「より大きな音量」でスピーカーを介して、つまりナマの演奏と地続きの、上演の「場」を共有しながら空気振動を介しての音声として「聴く」ということになっていったでしょう。具体的にはレコードという複製メディアを介して、でも、願わくばナマ音源に近い「ハイファイ」なクオリティで「再生」されることのできる環境を望むようになる。蓄音器からステレオ再生、あるいはジュークボックスのような形をとるようになってゆくことまで含めて、「音楽」を「聴く」ことはその演奏の現場にできるだけ近づいた、ナマの〈いま・ここ〉における〈リアル〉を雛型とした「再生」のありかたを理想としてゆくようになってゆきました。

 「東大大学院の片桐早紀氏によると、ジューク・ボックスはもともとアメリカ産だが、これが日本にやってきたのは50年代の米軍キャンプあたりで、その後ユダヤ商人たち(そのひとつは現在のタイトー。ちなみに、これはユダヤ人ではないがセガもジューク・ボックスを手がけた大手だった)がこれを国内のバーやクラブに売り込み、次第に普及していったと言うことらしい。」www.jstage.jst.go.jp 

 それらに対して、補聴器~トランジスタラジオ+一本コードのイヤフォンの流れは、決してそれら「場」を共有することを前提とした音声の「再生」を理想としていませんでした。むしろそれと対極的に、生身の耳もとにおいてだけ、耳介の内側に向けて「個」にだけ鋭角的に突き刺さる音声の伝達を旨としていたようです。トランジスタラジオが短波での株式市況や競馬中継など――それらはラジオ「放送」の当初に想定された「報道」イメージの中核にあった、「情報」の最も初発のありかたでした――をイヤフォン介して耳傾けるような音声の聴き方を準備していったことは、ステレオ再生装置~ジュークボックス系の「音楽」の「再生」の環境における音声との接し方とはまた別の「個」のありようを結果したでしょう。そしてそれは、おそらくはSPレコードや初期のラジオなどを介して語りものとしての浪曲浪花節をナマの上演の場以外で聴く経験の不特定多数の蓄積が、「眼をつぶって」それらに耳傾ける作法をかたちづくっていった経緯も背景にあるらしい。それらと有線放送の普及、初期8トラックも含めたクルマという移動空間の中での音声の再生、そしてカラオケの本格的な普及などと複合させたところでの、横断的で重層的な「もうひとつの情報環境論」の可能性については、さらに少しずつ、さまざまなメモや断片を吹き寄せるように編んでゆく試みをこのように続けてゆくしかないようです。

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 音声が刺激して何らかの情景、イメージを生身の脳裏に立ち上がらせ、その輪郭をよりくっきりと解像度鮮やかにしてゆくための作法として、敢えて「眼をつぶって」視覚を殺すようになっていった時期があったらしい。なるほど、だとすれば、そのように視覚を殺すことが必要になっていった理由とその経緯来歴、そこに確かにまつわっていたはずの当時の〈いま・ここ〉における生身の感覚や意識とはどのようなものだったか、という問いもまた、新たに引きずり出されてきます。

 視覚が奪われることでその他の感覚、特に聴覚の鋭敏さが増幅されるらしいことは、たとえば盲人の認知のありかたなどに関して、それまでも経験的に知られていたことではありました。また、音声としての「うた」を肉声を介して上演する演者が、その肉声を自分自身でよりよく聴きとり、モニタリングするために、敢えて瞑目することも普通に行われていました。

 ただ、それらはあくまで耳の感覚を研ぎ澄ませることを目的としていたはずで、のちの浪曲の聴衆が「眼をつぶって」自身の内側に立ち上がるイメージ、映像的な心象風景に主に合焦しようとしていたこととは、また別ものだったのではないか。19世紀から20世紀にかけて近代が深まってゆく過程で、生身の主体が日々生きる情報環境にそれら映像的な情報が広く流れ込むようになって以降の意識、それまでとは少し異なる感覚を日々実装させられてゆく中での、未だうまく可視化されていない歴史・民俗レベルでの不連続が実はあったのではないか――このような問いは、われわれがどのようにその時代、その情報環境において〈リアル〉を編制し、その裡を生きてきたのか、という大きな流れを土台に置いた、われわれの意識と感覚、認知と解釈にまつわる領域の歴史に改めて合焦することを促してくれます。

 「二つの世界大戦の間に、写真は、社会や文化の構造のなかで急速に意味づけられ始めた。この期間は大まかにいえば写真のグラフィズムが成熟して新しいレベルに達し、それを人間が意識的なものとしてとらえてゆくプロセスとして理解されうるだろう。」(伊藤俊治『20世紀写真史』筑摩書房、1988年)

 ここにさらに、その続きを書き加えてみましょう。

 情報環境の変貌と、その中に生きる生身の主体が、その変貌の〈いま・ここ〉を「意識的なもの」としてとらえて現前化させてゆく表現や創作物だけでなく、その手前で否応なく巻き込まれ、共に遷移してゆく主体としての意識や感覚についてもまた、無意識かつ無自覚な水準をも含めて、同じ〈いま・ここ〉の過程の裡に織り込まれているはず。そして、「眼をつぶって」音声に耳傾ける所作を敢えて自ら行うようになっていった当時の人々の脳裏に投映されるようになっていたであろう映像的な風景にも、同じく「成熟して新しいレベルに達し」た「写真のグラフィズム」――いわゆる映像的な情報が複製技術の進展および浸透によってそれまでと異なる位相で日常生活世界に広範に放流されるようになり、その結果「人間を文字文化的な感覚、言語、思考過程からなる個人主義から引きずり出し、集合的なイコンの世界へ連れ出す」ようになる遷移の過程が、陰に陽に何らかの影を落としていないはずもない。「連続性は分断され、見る者は複合的・多感覚的な結合のあいまに位置することになる。我々はこの時代に活字的人間から画像的人間への移行の階調を見ることもできるだろう。」

 「うた」とは、だからその初発の地点、宿る位相においては、生身の裡のある不定形な衝動であり、身体的な躍動感や興奮なども伴っている状態であると同時に、主体としての意識や感覚の複合した脳裏の銀幕の上に何らかの映像的な投映、心象風景的なイメージもまた必然的に引き連れて現前化している、ある種の社会的・文化的な「場」ということにもなります。そのような意味で、「うた」は生身の個体にだけ帰属するものでもなく、同時に必ず「場」に開かれた状態で〈いま・ここ〉に立ち現れる。言葉とイメージ、文字とグラフィズム、音声とビジュアル、そしてそれらが再び混然一体となる「場」のありようを、たとえ強引にせよ言語化してゆく試みにおいて、われわれが日々生きる情報環境のなりたちの、その〈いま・ここ〉に至る経緯や来歴についてもまた、あるべき現前を伴ってきてくれるものと信じます。

 視覚と聴覚とは、この生身の主体、身体という「場」において手と手をとりあいながら、われわれの脳裏にも何らかのイメージ、想像力に裏打ちされた心象風景をも描き出すもののようです。「視覚の優越」というもの言いもまた、そこに伴っていたはずの「耳の快楽」の気配を静かに察知しようとすることでまた、本来あるべき時間と空間の位相、重力の伴ったことばの生態系に穏やかに復員させてやることもできるはずです。

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*1:もとは備忘録的にメモしていたノート的な断片や、以前まとめていた草稿を足場にしながら、あらためてふくらませてみる方向性を模索してみている。ある種の「自己言及」を織り込んだ過程だが、過去に書きとめていたノートや草稿などに対して〈いま・ここ〉から「読み」を仕掛けてゆくことで、「自分」が何を考えようとしていたか、何に合焦していたのか、などについても、また別の視点からの輪郭があらわれてくることもあるらしい。それもまた加齢の余禄として、日々の作業に加えてゆければ、と。