どこの雑誌か忘れたけれども、ついこの間までそれこそバリバリ援助交際をやっていたようないまどきの女子高校生たちが卒業後、会社に入ってどうしているか、といった特集をやっていた。
まあ、いずれめまぐるしい速度で日々の仕事がうなりをあげて回っている雑誌のこと、ラクしてカネ稼ぐことだけを覚えた彼女たちはやっぱり地道に働くことはできません、てなところでお手軽に“おはなし”にしていたのだが、そんな中でひとりの女の子が、OLになってから会社の中でのオヤジたちの行状を眼のあたりにするようになり、「ああ、あたしこういうオヤジたちと寝たおカネで遊んでたんだなあ、と思うとイヤになった」というような意味のことを言っていて、それが妙に心にひっかかっちまった。
これって、何も会社だけのことじゃありませんよね。たとえば、若者の理解者ぶった身振りの学者が得意げに「いまどきの若者」を語る大学の教室の片隅で、あるいは深夜、もはや見世物ですらなくなった討論番組映し出すテレビの前で「ああ、こういうオヤジたちが新聞や雑誌にばらまいてきたこういう言葉で、あたしたち勝手にわかられて勝手に解釈されて、だから“そういうもの”として扱われてきたんだなあ」と思い、今の世の中での自分たちのありようの来歴に思い当たる彼女たちも、もはや当たり前に存在しているはずだと僕は思う。
もちろん、それがしちめんどくさい学問の言葉や、あるいは言論や思想といった性悪な言葉、はたまたジャーナリズムのけたたましい言葉などの「大きくて強い言葉」でなく、もっと違う水準のささやかな言葉、つぶやき程度にしかならないいびつなもの言いなどでしかないのだとしても、でも、そういう表現を求めてしまう違和感は確かにもう〈いま・ここ〉に存在している。そのことを素朴に察知し、そしてきちんとビビって謙虚になって、その上でなおそういう違和感と向かい合ってその自分たちの押しつける言葉、勝手な「解釈」の内実を具体的に説明しようとできないのなら、それが学者であれ評論家であれジャーナリストであれ、そういう「いまどきの若者」解説屋たちなど単なる口先野郎。肝心なことは何も説明しない、できない政治家や官僚と同じだっての。
なるほど、「大人」に向かって「若者」をひけらかし、「若者」に対しては「ものわかりのいい大人」を演じてみせる、その落差で稼ぐ商売というのは、「大人」がやたらと「若者」のことが気になり出してこのかたいつもある。けれども情けないことに、そういう「大人」と「若者」の図式自体を批判して、まさに〈女・子ども〉の側から〈オヤジ〉を茶化すだけ茶化してきたはずのわが三十代に、未だその手口を使い回して世渡りする手合いが実は少なくない。その程度の商売でまかなえてしまうメディアの側の需要の情けなさというのももちろんあるのだけど、でも、それってやっぱり無責任ってもんだよ、あんたら。