続・阿久悠と都倉俊一――あたらしい〈おんな・こども〉の感覚


 阿久悠と都倉俊一の「出逢い」が、どれだけ互いに異質なもの同士の遭遇だったか。それは後世の後知恵でごくあっさり言ってしまうならば、「育ちの違い」というひとくくりな言い方に還元してしまっても、ひとまずいいようなものではありました。

 だがしかし、と、ここは踏ん張っておかねばならない。

 それは単に生まれた土地や風土、親兄弟親類なども含めた育った環境や、大人になり世間に出てゆく過程でたどり、経巡った遍歴の違いといった、いずれ個別具体、まさに人それぞれひとりひとりの生身に異なる道行きとして刻まれているもの、というだけのことでもない。そのような、履歴書や経歴といった公認されたたてつけで列記され得るような時系列に従って整序された事実の上にだけ、人はまるごとの生身としてあるわけでもなく、必ずそれら列記された時系列の裡で見聞きし、体験し、見聞したこと、経験したできごとなどが、常に生きてある個人、個体の裡に織り込まれ、いわば連続する構造体として常に転変しながら〈いま・ここ〉に生き続け、現前している、そういうもののはずです。そして、その「そういうもの」の部分に否応なくからんでこざるを得ないのが、「うた」に代表されるような不定形な官能の領域、常に予測不可能で、瞬発力を伴い突発的に現前化する、ある生の現われ方についての〈リアル〉なのだと思います。あの朝倉喬司が好んで使ってみせたもの言いとしての「芸能」などにもまっすぐに通じるはずの、この世に縛られ生きざるを得ない生きものとしてのわれら人間の、生身であるがゆえのあやしくも豊穣な、生きてある限り逃れられない領域。それは一方では、「宗教」や「信仰」などとくくられるような領域とも、地下茎のように連なっているものであり、また、きれいごとでラッピングされるなら「芸術」「表現」「創作」、あるいは今様に「アート」「クリエイティヴ」などと羽根飾りをつけてももらえるようなものでもあるようですが、まあ、そんなことはひとまずどうでもいい。話は、その「育ちの違い」と、その「違い」ゆえにうっかりともたらされてしまったらしい、未だ十全には姿を現わしていないある大きなもの、のことです。

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 なるほど、都倉俊一は阿久悠が逝去した2007年とその前後の時期に、阿久悠との関係について語ったり、あるいは文章としてあらわしたりしている。それまであまりそのような形で表に出てくることのなかった彼が、阿久悠とのからみでは割と積極的に個人的に発言したり、姿を見せるようになっていた印象があります。まあ、それだけ彼にとっても、阿久悠とのコンビで達成したものは大きいものだった、ということではあるのでしょう。

 阿久悠との初対面では、前回少し触れたように「一目惚れ」とまで表現するような、鮮烈な印象を彼、都倉俊一は与えていた。そのあたり、もう少し立ち止まって追いかけてみます。

「彼の姿を初めて見たのは、音楽制作会社のボン・ミュージックで、「学生なんだけど、なかなかいい曲を書くのよ」と説明された。説明したのは、元ビクター・レコードの武田京子ディレクターで、彼女とぼくの縁は、ぼくの作詞のデビュー曲とでもいうべき「朝まで待てない」を、ビクター時代に担当した人であった。」

 武田京子は、吉永小百合の担当なども努めたというディレクター。なぜかモップスのデビューにも関わっていたようで、「朝まで待てない」はそのモップスの最初のヒット曲。「小日向台町のおぼっちゃん」だった鈴木ヒロミツを擁したバンドで、タイガースやテンプターズなど、既成の芸能プロダクション仕込みのグループサウンズが全盛になっていた当時、それらと一線を画した小汚くもパワフルな、当時のアメリカ西海岸由来の「サイケデリックロック」的な方向性を示し、その頃のライブハウス活動から見出されてきた経緯はタイガースなどと同じでも、見てくれや音楽性、めざす方向性などは明らかに変り種。近年、若い世代の聴き手たちから、また改めて評価されてもいますが、当時としてはまさに「若者」の「反抗」の象徴としてとらえられていたような意味での「ロック」のテイストを既存の商業音楽の世界に持ち込もうとしていた、それこそ「アングラ」的な流れの一角に位置していた。広告会社の社員だった阿久悠が、ひょんなことから作詞に手を染めるようになったきっかけがこのモップスとのつきあいだったことは、彼自身述懐しているように、自分たち新しい世代の表現を模索してゆく熱っぽさで共通する感覚があったがゆえ、だったようです。


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「彼はその時何をしたのか。いや、何もしなかったに違いない。彼は、ごく自然にあるがままに、たとえば、ぼくの視線などはまるで意に介さない形で、音楽制作会社の中を歩きまわり、短い打合わせをし、それから、全く自分のペースで何の遠慮もなく、サッサと帰って行ったにすぎない。」

 この後に、前回引用した「路上駐車の真赤なフェアレディZ」のくだりが続くのですが、それを、初めて商品として作曲した「あなたの心に」(中山千夏)の印税で買ったこと、高校までドイツにいたから英語とドイツ語がペラペラでといったようなことを、その同席した武田が話してくれたことまで含めて、「ぼくの世代が渇望し、努力しても、到底手に入れることのできない種類の能力を、全く普通のこととして身に備えている世代で、本来ならば嫉妬の対象になるはずが、彼の場合、何故か嬉しく思えた」と表現していたことも、先に触れた通り。そしてさらに、その感懐を「真赤なフェアレディZが象徴していた」と受けた上で、そのフェアレディをあっさり買ってみせたことについての「いいわね、そんな風な金の遣い方ができて」という武田のもらした感想を間にはさんで、「1970年代に入ったばかりの頃の、一つ上の世代の実感だった」と引き取っています。


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 これは、単に「育ちの違い」とそれに由来する「能力」についての強烈な認識というだけでなく、当時、自分も含めた「一つ上の世代」が遭遇してしまったそのような「新しい才能」のありようと、その背後にそれらの才能を宿した生身を介して広がっていた領域についての認識を、自分自身の出自来歴と引き比べて一瞬にして「わかる」水準にまで結晶させてしまったことのあらわれに他ならない。それは「音楽」を「聴く」側でなく「つくる」側、それも借り物ではない、他ならぬ自分自身の私的な表現としても創り出すことのできる技術を、それを縦横に駆使してくせる才能と共に、ごく自然に自分のものにしてしまっている、そのような生身が同じ時代、同じ日本人として現前に存在していることについての、新鮮な認識でもありました。

 「ぼくは、彼が作曲家であることに希望を感じていた。(…)作詞・作曲の世界で初めて出会ったタイプであった。そして、彼のような雰囲気の若者が音楽というものを語れば、日本の歌も変わるだろうし、体質も変化を起こすだろうし、それは同時に、ぼく自身が思い描いている歌の表現につながるかな、と感じていた。」

 一方、都倉俊一の方は、阿久悠との「最初の遭遇」をどう語っているか。阿久の追悼関連の企画のいくつかにも再掲されている、『文藝春秋』誌上での小林亜星との対談を見てみましょう。小林が阿久悠との初対面を1971年、「世界初のカップラーメン」(カップヌードルのことか)のCMソングの仕事で指名して手がけてもらった時と言ったのを受けて、その前年と言っているから、時は1970年。


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 「僕は大学生でしたが、すでに駆け出しの作曲家で、阿久さんもまだ超一流とまではいってなかった。東芝レコードの敏腕プロデューサー、渋谷森久さんに引き合わされました。(…)湯河原に変な一軒家を用意してくれて、僕と阿久さんに合宿しろというんです。いい作品を書き溜めてほしいと。そこで20曲ぐらい作って、いろんなアーティストに割り振られたけど、一曲もヒットが出なかった(笑)。一週間。阿久さんは寝なくても平気で、早朝から仕事するんでまいりました(笑)。(…)僕が用意してきた曲に阿久さんが詞をあてはめたり、新たにピアノで作ったり、あとは「飯食いに行こうか」というアトランダムな合宿でした。ひと回り近く年が違うんですが、朝から晩まで一緒にしても話題が尽きなかった。」

 この渋谷森久も、「禿げシブ」の仇名で知られ、クレイジーキャッツ越路吹雪などを担当し、後には劇団四季東京ディズニーランドでの音楽・音響関係の仕事にも関わったという敏腕ディレクター。阿久悠も、この渋谷森久を介した関係については言及しています。

 その渋谷から都倉の話を振られて会わないか、と言われた。それなら会おう、興味があるんだとすぐ答え、どうせ会うならたっぷりと話したいな、と応じた。「希望が実現して、ぼくらは、湯河原にある渋谷森久の家の別荘へ行き、たっぷりもたっぷり、24時間しゃべりまくり、終りには、数曲の曲も作った。」先に触れた、一瞬すれ違ったような阿久悠側からの「最初の遭遇」での鮮烈な第一印象を裏切るものでなく、「それどころか、決定的な気持ちのつながり、才能の評価を確認し得たものであった。」

 「面白かったのは、都倉俊一という23歳の青年を構築している精神の要素で、それは、たとえて言えば、ビートルズと乃木大将の同居といったものであった。反権力の形で誕生したビートルズのあり方や音楽を、まるで自分自身の生理のように受け入れるところがあるかと思うと、同時に、乃木大将の殉死についてとうとうと語るところもあって、ぼくらを混乱させた。」

 ドイツ育ちの外交官の息子で、いわば「銀の匙」組であった都倉が、警察官の子弟で「敗戦の子ども」だった阿久悠らより「ずっと愛国者で、日の丸に対しての愛着と感傷は想像もできないものがある。それなりにメロディを書くと、日本的な情緒や泣き節は皆無でヨーロッパの青年になってしまうのである。」モダニズムと身体性、生活文化レベルでの新しさと、しかしそれに同調しきれない生身の底、感覚の深いところにある何ものか、の相克。しかし、それは阿久悠ら「一つ年上の世代」のある種の人々にとってもすでに他人事ではなくなっていた、ある同時代感覚としての地続きの気配でもあったようです。だから、このようなまぶしそうな、あこがれも込められた言い方にもなる。

 「妙な話、一時期、都倉俊一の言動のすべてを、うっとりと見ているという時があった。それは、ぼく自身が思い描いている生き方、あり方の中で、世代のせいもあるし、生まれ育った環境のせいもあるし、どうしても果せない部分を、彼は平気で行うからであった。」

 出先で、オーデコロンが欲しいという彼をデパートに連れて行く。何本も見本を並べさせ、一つずつ手の甲に塗りつけては匂いを嗅ぐ。しかも、全部についてそれをやり、あげく気に入ったものがないから、と買わずに立ち去る。ビュッフェ式のパーティでは、実に要領よく美味しいものからさっさと食べる。気に入らないものは買わないし、食べない。そしてそのことを主張し表現することにためらうことがない。「やっぱり、彼は外国人かと思ったことが何度もあったが、それを引き戻したのは、乃木大将と日の丸と鰯味醂干しで、ヨーロッパ的なるものはすべて、日本人的屈託と躊躇を消す役に立っているのだと思ったのである。」

 そんな都倉俊一を、伝説の番組『スター誕生』の審査員として強く推します。まだ大学卒業間もない若僧であることがネックで難色を示す向きもあったようですが、たまたま阿久悠が歌謡大賞の収録とぶつかって審査員として出席できない回が生まれ、彼の代役として都倉が審査員の一員に加わったのをきっかけに、何度か番組に参加できるようになった。そうしたら、そのうち収録の会場に異変が起こるようになった。

「全く自然発生的に、都倉俊一親衛隊とでもいうべき少女たちが集まり、絶叫の声援やら「頑張れ!都倉俊一」の横断幕やら、アイドル以上の騒ぎになり、ついには、会場からの脱出に、ぼくらが人垣を作って彼を逃がすということにまでなった。」

 70年代前半、〈おんな・こども〉はそれまでと異なる「消費者」としての相貌を備えながら、時代の舞台の前景にその新たな姿を現わすようになっていました。60年代前半のロカビリーブームから、半ばから後半にかけてのGS(グループ・サウンズ)の流行、そしてこの70年代に入ると、それまでは言葉本来の意味での見世物でしかなかった女子プロレスに、それまでと全く文脈の違う少女ファンが殺到するようになり始めていましたし、その頃全盛を極めていた暴走族の間にも、のちに「レディース」と呼ばれるようになる女の子たちの姿が立ち交じるようになり始めていた。


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 また、これまた60年代前半から週刊誌ベースでの新たな市場を開拓、テレビアニメなどと複合しながら拡大の一途をたどっていたマンガ市場においても、いわゆる少女マンガと呼ばれてきた領域において、それまでと異なる表現技法や作風があらわれ、描き手と共にそれに応じた新たな読み手の存在が、その世代性と共に広く認められるようになり、あるいはまた、山梨県の絹製品などを扱う小さな販売会社だった山梨シルクセンターが、紆余曲折の後、たまたま、いちご模様を使った子ども向けの小物類が予想外に売れたことを契機に、いわゆるキャラクター商品の新たな市場の広がりを察知、サンリオと社名変更して本格的な全国展開を始めたのも同じ頃。その他、この70年代はじめの時期に、一見無関係のように見えながら、しかしのちになってみれば確かに何か共通の糸でかがりあわされていたような、これら世相風俗的なできごとの類は、ゆるやかな同時多発的な発現の仕方で、高度経済成長の「豊かさ」がこの列島の隅々にまでにわかに浸透し始めた時代の表層に、姿を現わすようになっていました。


 『スター誕生』が人気番組になっていた過程で、スポット的に審査員として登場していたにすぎなかったはずの都倉俊一に眼をつけた〈おんな・こども〉の視線と感覚もまた、それら当時の新たな「消費者」のありように支えられた広がりを持つものでした。そしてそれは、阿久悠がある種のあこがれと共に仰角で察知した、当時の都倉俊一の生身が発散していた何ものかの気配のはらむ、それら新たな「消費者」の感覚との同時代的シンクロニシティでもあったらしい。

 昭和12年に淡路島に、警察官の息子として生まれた阿久悠は、SPレコードを蓄音器で聴き、ラジオから流れる流行歌を耳にする生活習慣を持ってはいても、自ら楽器を持って演奏してみるという「音楽」に対するつきあい方を備えてはいなかった。一方、それよりひとまわり近く年下で、昭和23年に外交官の息子として東京に生まれた都倉俊一は、4歳からバイオリンを習い、7歳でドイツに渡ってそこで音楽の手ほどきを受け、自然にバンドにも加わり、作曲もやれるようになっていた。戦前と戦後、地方の警察官と東京の、それも外交官というエスタブリッシュメント阿久悠と都倉俊一の間に横たわっていた「違い」とは、それら社会的、生活文化的な変数として並列化できるものとしてだけでなく、しかし同時に、そのような「違い」があったからこそ、何かあたらしい共通のもの、共に〈その先〉をこの国、この世間で生きてゆく上での支えとなりそうな何ものか、についての共感もまた、あり得たのだろうと思います。そのような「公共」への糸口もまた、たまさかの遭遇からうっかりと拾えるような、そんな時代でもあったということも含めて、1970年代の社会と文化をめぐる本邦の状況は、まだかろうじて「豊かさ」の裡に抱かれていたということでしょう。