「団塊の世代」と「全共闘」③――「世界」と団塊

団塊の世代と「世界」

――最近の「団塊」批判の通俗性、という意味で、その団塊の世代がトップバッターとして経験してきたパラダイムの内側から行っているに過ぎない、という、呉智英さんの批判の論点のひとつをもう少し掘り下げてもらえませんか。

 そのへんは、さっきの「不幸」の話から広げてみようか。

 実は、団塊の世代っていうのは、あまり「不幸」な目には遭っていないんだよね。さっきも言ったみたいに、国内では、貧乏や不幸というものがそれまでに比べてどんどん見えにくくなっていた時期に少年期を過ごしているわけだし。ミもフタもない「不幸」の記憶は確かにあるけれども、でもそこから抜け出してゆく過程が成長期だったわけで、そういう意味じゃ他人ごとになってゆく過程でもあったんだと思う。

 だからっていうわけでもないんだろうけど、後には貧乏探しの旅というのもやったわけでさ。国内には貧乏はなくなってきたけど、でもアジア、インドへ行くと悲惨な状況がまだまだある、と。海外旅行の自由化も後押ししたしね。わかりやすく言えば藤原新也沢木耕太郎になるわけだけど、その沢木耕太郎の『深夜特急』が今も若い世代に熱烈に読まれているというから、今の若い人たちの間にも団塊の世代に通じるなにか普遍性があるってことなんじゃないかな(苦笑)

――『深夜特急』の呪い、ってのは相当、根深いみたいですよ、今の若い衆にも。一時期、タイやインドあたりのバックパッカー御用達の安宿に、ボロボロになった文庫版の『深夜特急』は定番だったそうですし。自分語りにうっかりハマる自意識肥大症のアート系若い衆などはまさにイチコロ。客層が微妙にズレるんでしょうけど、五木寛之なんかも基本的にはその流れの部分があるんじゃないですか。『さらば、モスクワ愚連隊』とか。でも、そういう具合に海外に出てゆく前に、まず国内でも何かっていうと「旅」に出る、というオチのつけ方は、それこそ団塊の世代サブカルチュアから一気に目立つようになったんじゃないですか。北海道とか京都とか、やたら旅立つってモティーフはテレビドラマから通俗小説、マンガや映画、芝居に至るまでお約束だったような。

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 ほんとに、「旅に出る」でオチをつけるのは流行ってたよね。

 ちょうど大学の終わり頃、七〇年代に入るあたりには、普通の学生がもう海外旅行に行き始めてたと思う。まだ外貨持ち出し五百ドルの制限はあったけど、まさにその五木寛之(小説家・評論家/一九三二│)の『風に吹かれて』や『さらば、モスクワ愚連隊』、『蒼ざめた馬を見よ』なんて小説が読まれて、みんな旅をしたがるようになってた。

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 もっと大きいことを言えば、「旅」という言葉自体がポジティブなものになったのも、その六○年代後半の頃からだと思うよ。だって、それまで旅にはネガティブなイメージがあって、「都落ち」とか「出家」という言葉でもわかるように、できればしないほうがいい行為だったわけだ。「かわいい子には旅をさせよ」っていうのは、人の飯を食わせて他人のところで苦労させる、という意味だったし。もちろん昔も、日常の規範を離れるという意味で、たとえば伊勢参りとか無礼講で楽しいこともあったんだけど、でも、基本的には旅っていうのは、知らない土地で他人に揉まれて苦労するネガティブな行為、だったんだよね。それがあの頃から変わり出して、今じゃもう楽しい意味でしか使われなくなってる。

 思えばこれも五木寛之の影響なのかな、学生だと飛行機に乗るカネがなくて、まず新潟や北海道から船でハバロフスクに渡って、そこからシベリア鉄道でヨーロッパへ向かう、ってのも多かったなあ。目指したのは、当時一番物価が安かったスペインあたり。次に、これも最初から船だったと思うけど、なぜかイスラエルに行くのが流行った。

――イスラエル……キブツですか?

 そうそう。キブツに行ってみたい、働いてみたい、という一種のコミューン幻想なんだけどね。

 でも、それも数年でイスラエルに対する立場というか、評価が逆転しちゃう。テルアビブ事件で一気に変わったんだけど、今度は逆にパレスチナの方が正義になっちゃった。
まあ、これもこれで単純に正義にしちゃっていいかどうかは疑問なんだけど(苦笑)、でも、果たして当時、そのへんの違いを正確に理解していた者がどれほどいたか、っていうとあやしいよね。それまでは「パレスチナ」といったって、なにしろ学生だから、ほとんど言葉として認識してなかったし、意識もない、と。「イスラエル」という国さえ、あまりよくわかってなかったんだから。とにかくなんか知らないけど、差別されてるユダヤ人が頑張って砂漠に自分たちで国をつくったんだ、しかもそこはコミューンがあって、みんなが仲良く額に汗して働いているんだ、みたいな感じだよ。ほんとにその程度。で、ちょっと日本にいるのが嫌になったり、学生運動に挫折したり、女にふられたりすると、イスラエルに行ってキブツで働けば、無一文でも飯が食え、幸せになれる、と。

――「ここではないどこか」に一気に依存しちゃう、というビョーキですねえ。なんか、その後のピースボートに至る路線がもうすでに見え始めてるような。

 その頃流行ってたヤマギシ会の、まさに国際版、といった感じの理解だったんだと思うよ。結構そういうキブツ関係の本なんかが出てたし。

 ただ、当時どうしてそういうコミューン幻想が出てきたのか、っていうのは重要な問題だと思うんだよ。あの頃、そういう動きが一種、時代のキーワード的に出てきているんだけど、つまり学生たちの間に気分として何かそういうコミューン志向みたいなものがあって、ちょうど私なんかの学生時代の最後の頃、六八年くらいから急に流行り出した。大学四年生くらいの時には、「あいつ、どうした?」と言えば「キブツへ行ったぞ」、「スペインらしい」、ってのが結構あって、当時学生が外国に行くというと、まずこの二つのどちらかだったよね。

 スペインの場合には、当時、戦前の反フランコ闘争への憧れがあったんだと思う。でも、当時すでにもう三十年以上たっていて、そんな革命闘争の輝かしさなんかあるわけない。ただ、ヘミングウェイが泊まった部屋とか、記念碑的なそういったものが観光化されて残っている程度。だから、要は自分勝手でヘンな観光なんだけど、それでも向こうへ行くと、まあ、これもいい悪いは簡単に言えないんだけど、なにしろフランコ政権下で物価が安定しているし、社会党政権になってないから、禁圧の中の平等とか、貧しさの中の豊かさみたいなものもある、と。だから、理屈はどうであれとにかくスペインまでたどり着いちゃうと、正規の就労ビザや留学生ビザがなくても、日本から来た大学生だと言えば二、三カ月、皿洗いのバイトでもしながら楽しく食い繋いで、中にはそのままスペイン女と結婚するようなのも出てくる……ざっくり言えば、まあ、そんな感じだよ。

 そんな居心地のいいスペインと、コミューン幻想のキブツがあったもんだから、そっちへ旅立っちゃう奴の送別会なんかもよくあったよ。あいつ、いよいよイスラエルへ行くようだ……、って、みんな知っていて、じゃあ、おれ、千円カンパする……とかね。思えば学生たちにしても、六○年代前半に比べりゃカネまわりがよくなってたんだろうな。アルバイトに励んで、とにかく最低限の旅費だけ作る。当時、外貨持ち出しの上限は五百ドルで、レートは一ドル三百六十円だったけど、物価換算だと結構高いからその程度は何とかバイトで捻出できたんだね。

――学生が卒業旅行で海外に、なんてのが一般化してくるのはそこからまだ十年くらいあと、ちょうどあたしらが大学出るか出ないくらいの頃にならないと、でしたからねえ。具体的にはやっぱり八十年代でしょう。もちろんその場合の「海外」ってのは、アメリカ西海岸(笑)とか、ちょっとカネあるのは定番コースのヨーロッパ、とか、普通の観光旅行と行く先は変わらなくなってた。まあ、逆に言えばだからこそ、ピースボートみたいな「ワタシはちょっとものを考えてます」的な装いを施した海外、ってのも一部で裏返しに商品になれた、ってのもあるんでしょうけど。それでも、海外に旅行に行く、なんてのはまだ十分ぜいたくなハナシ、って感覚はありましたねえ。学生でクルマ乗ってスキーに、なんてのが、メディアで煽られるようになっても、実態としてはまだ一部のものだったようなもので。もちろん、先の貧乏探し的なモティーフでアジアやアフリカに出かけてゆくのも、ぜいたくなハナシ、って意味じゃ同じようなものだったですね。

 私たちの頃からしたら、そんなのはまだはるか先の話でさ。

 こっちが思春期で色気づきだした頃、というのは、何も私たちに限らず、大人までもが当時は、まず外人オンナに対する強い憧れを抱いていたからねえ。まさに白人&金髪幻想(笑)。当時、ウブぶな高校生たちがストリップに行って、外人が出てるぞ、と胸躍らせて小屋に入ると、出てくるのは「レディー何とか」とか「アンナ何とか」みたいな名前の、金髪のカツラをかぶった正しい日本人のオバさんだったんだけどさ。雑誌でも、金髪ヌードは海外に版権があるから、それを怪しげに焼き直した写真もさかんに出回っていたしね。

 ところが不思議なことに、七○年代初めのオイルショックを越えた頃から、『平凡パンチ』とか『プレイボーイ』は別として、そこらの週刊誌のグラビアに載るヌード写真がそれまでの外人オンナ系から明らかに隣のお姉さん系になってくる。日本人の、それも行きつけの定食屋のちょっときれいなお姉さん、といった感じの身近な印象のオンナが主流になってきたんだな。

――そういう「隣のお姉さん」系のエロスが蔓延するのは、さかのぼれば大正末から昭和初期、いわゆるカフェーが流行して「遊び」がそれまでと違うものになっていった時期に、まずあったみたいですけどね。明らかに普通にそこらにいない「クロウト」を相手にするんじゃなくて、ほんとにシロウトがたまたまアルバイトでやってるような女給さんが五十銭銀貨一枚で酒の相手をしてくれる、ってところに、オトコたちが何かグッとくるようになった。身近なところにエロスを発見してゆく過程なんでしょうけど。思えばその七〇年代も、いわゆる芸能人の水着写真なんかがドッと増えた時期ではありますよね。もっとも、水着ったって単なるセパレートがせいぜいで、露骨にカラダを強調したホンモノのビキニ、なんかはまだ、アグネスラム、みたいに外人ないしは混血系の専管事項、だったりしたんですけど。少なくとも「金髪」幻想、みたいなものはもう薄くなっちゃってましたね。

 そりゃそうだろ。それまでの大人みたいな「金髪もの」に対する憧れ、ってのは、こっちが二十歳をすぎる頃にはほとんどなくなっちゃってたんだよ。結局、あまり大したことじゃない、ってのがわかっちゃったのかも知れない。「コミュニケーションも、英語では面倒だしな」、「日本人だったらどれだけラクか、わからないよな」というふうになっていったんだろう。今、金髪のヌードだけをウリにやってる雑誌なんて存在しないだろ? そりゃあ趣味に特化して、白人女でなければ興奮しない、って人はいつの時代も一定量いるだろうけど、若い世代の不特定多数、平均値として金髪をありがたがる、なんてのはやっぱり非常に少数派だろうと思うよ。

 なんかくだらないことを話してるみたいだけど、でも、大げさに言えば、それが六○年代後半から七○年代初頭くらいの七、八年を経由した者としない者との違い、だったんだよ。実際に生身の白人を見る機会がまだまだ少なかったから、憧れだけが自己増殖し、異常に肥大して現実を越えていた、という面もあったんだろうね。

 東京オリンピックとその後の大阪万国博覧会で、徐々に身近に外人を見かける機会が増えて、それによって、別に外人だって人種が違うだけで、同じ人間だ、という意識に変わってくる。まあ、それも結局、高度成長がなければできないのだから、あの時代、日本人の視点や自意識が非常に大きく変わっていったのは間違いないと思うよ。

――今やネットでエロ画像なんかいくらでも拾える時代ですからねえ。そんな中でも、やっぱり外人ものがいい、って奴はいますけど、そういう人種による趣味のあれこれよりも、それこそ巨乳がいい、とか、いや、オレはやっぱりスリムなのが、とか、下半身にまつわる嗜好や趣味の領域もどんどん細分化されていて、単に白人金髪だからグッとくる、っていうような単純なものじゃなくなってますから。そのへん、改めて言わずもがななんでしょうけど、まずグラビア以下ヌード写真の偏在のあとに、AVという動画によるエロの核爆弾が投下されて以降、ほんとにニッポンのオトコのエロスってのは信じられないくらい変貌しましたね。そのへん、当の国内はもとより、外国人の文化人類学者や社会学者はどこまで認識してくれてるのか、はなはだ疑問なんですが(苦笑)
((関連(´・ω・)つ

 昔だったら、パツキン女をガールフレンドに一人持つ、ってことは、日本の女を五人持っているのに匹敵するくらいの価値があって、男としてはそれだけで特権階級だったんだよ。いや、ほんとに(笑)。オンナとして天秤にかけたら、それこそ一対五くらいの比率だった。戦争に負けた、っていう意識が、欧米人に負けた、金髪女に負けた、だから押し倒してしまえ、と屈折していった部分もあるかもしれないけどさ。でも今は、何もそこまでして白人金髪女と付き合わなくても、日本人の恋人が三人いる方がいいし、むしろ女の子が恋人に対して複数の女性の存在など許さない、という、まあ、ある意味ごく健全な比率になってきたわけでさ。

――60年代から70年代にかけての時期に人気を誇った小説や映画、いわゆるサブカルチュアの領域でも、そういう白人金髪幻想は根強く反映されてるような気がしますね。大藪春彦とか、梶原一騎とか、かなりピンポイントで世代性が浮き彫りにできるような感じが以前からしてます。大きく言えばそれも、ある種の「敗戦」体験、屈折したナショナリズムアメリカニズムの相克の系譜として位置づけられるのかも知れませんけど。

 「皇太子御成婚」から「オリンピック」までの十年足らずの間に、おおよその家庭にもテレビが普及するようになったから、「兼高かおる世界の旅」などの番組をはじめ、まだ見ぬ海外という広い世界を意識させるようなコンテンツもどんどん増えてったしね。

 あの当時はまだ海外旅行が自由化されていないから、学者や研究者などは海外留学をとにかくステータスにした。今でもまだそういう雰囲気は少しは残ってるけど、当時は今とは段違いのステータスがあったもんだよ。それはさっきから少し触れてもいる円レートの問題とも関係してくる。七一年に円が自由相場になるんだけど、それ以前、たとえば小田実(作家・平和運動家/一九三二年生まれ)がフルブライトへ留学した頃は、五百ドルまでしか国外持ち出しができなかったんだよね。これじゃ貧乏旅行しかできない。私が高校時代、鉄工所で儲けた友人の父親が外国に行った時は、それはものすごい自慢のタネになってたよ。うちの親父も出張では行ってたんだけど、こっちはなにしろ観光で行くのだから、それ自体が豊かさの証し、輝かしいものだったわけだ。

 持ち出し限度額はたったの五百ドル。そこで日本で闇ドルを買っていくわけだけど、正規レートで三百六十円のドルが、闇ドルだと四百円超になって一割か二割高い。いかがわしいルートで入手した闇ドルを、全部エルモの八ミリカメラの中に隠す。当時、そういう成金は必ずエルモの八ミリを持っていたんだよね。税関員は、高価なフィルムが感光するといけないので、中を開けろとは言わなかった。そうやって隠し持っていったドルで土産品を買い漁り、近所に配って自慢する、というのが流行ってた。そういう場合、渡航先はたいていハワイだったな。昭和二十三年「あこがれのハワイ航路」で掻き立てられた洋行熱も、アメリカ本土まではまだ届かない。中には、ちょっと変わった連中が香港にいったりもしてたけど、これはどっちかっていうとかなり怪しい連中だったね。

――「ホンコンシャツ」とか「ホンコンフラワー」とか、「ホンコン」って頭につくとそれだけで何かまた特別な印象がありましたからね(笑)。そのへん「ハワイ」の語感とは明らかに違ってた。


 そういう高度経済成長によってみるみるうちに獲得されていった「豊かさ」っていうのは、当時のアメリカの状況との関係で言うと、どういうことになるんでしょうかね。

 アメリカではおおざぱに言って一九五○年代に、まあ、こっちで言うところの高度経済成長をしているわけだけど、でも、社会に対する個人の葛藤が日本に比べるとまだあったんだよ。なぜなら、アメリカは徴兵制があったから。これは決定的だよ。だって、どんなに能書き並べてたって、徴兵されて戦場に引っ張られて、仲間がバンバン死んでゆくのを見て、自分でも人を殺して生き延びるしかない状況になっちゃうわけだろ。その上、たまたま貧乏だったり黒人だったりすると最前線に送り込まれることだって普通にあったわけでさ。そりゃ本気になって考えるし、自分の体験や見聞を必死に言葉にして社会に投げ返そうとするよ。

 日本は、そういう意味では本当のぬるま湯だったんだよ。大東亜戦争が終わったときは水風呂の中で震えていて、その冷水だったのが段々あたたまって適温になっていったようなもんだよ。言わば、その冷水に浸かっていた寒さをまだ覚えているのがギリギリ団塊の世代だったんだけど、高度経済成長が始まって一九六○年代後半になると、水温も四十二度くらいになって、ああ、いい湯だな、気持ちいいな、と鼻歌交じりになってきた、と。

 ところが、その四十二度がずっと続くもんで、なぜ四十二度が続くのか、そもそも誰が火を焚いているのか、水を足してくれているのか、そのへんがもうふやけてわからなくなっちゃったんだよね(笑)。つまり、自分の入っている風呂が適温に保たれている仕掛けを、見なくてすんでいた、と。ところがいずれ風呂桶も腐ってくるし、ガスバーナーも変えなければならなくなるんだけど、でも、誰もそのことに思いを致していないままになっていたようなもんでさ。でも、本当の衝撃は内側からだけじゃなくて、風呂の外から、たとえば北朝鮮のミサイル、といった形で飛んでくるんだよ。

(……おそらく不定期&細切れに、つづく)

*1:関連(´・ω・)つ king-biscuit.hatenablog.com

*2:関連(´・ω・)つ king-biscuit.hatenablog.com