「財界人」と信仰、信心の関係


 京セラの稲盛和夫氏が、亡くなりました。享年90とか。いわゆる「財界人」の中でもいまどきの世間一般にまで、その名前をよく知られていた御仁でしょう。

 思えば、この 「財界」というもの言いも考えたら妙なものです。検索すると、ざっとこんな定義が出てくる。

「政治・社会に影響が大きい実業家・金融業者の世界。」
「日本国内において、大企業の経営者や実業家などが構成している社会。」
「大資本を中心とした実業家・金融業者の社会。総資本の立場で社会・経済をリードするパワーエリート集団。」

 そんな世間の中の人が、「財界人」ということになるらしい。要するに、会社勤めの月給とりの立場ではなく、その「会社」の「経営」に責任ある立場の「経営者」で、しかもそれがそこらの中小企業ではない、ある程度以上の規模と業績と社会的信頼をそれなりの知名度と共に身につけている会社、ないしは経営体であること、が求められる様子。最近あまり使われなくなった、あの「重役」などの語感にもどこか通じる、背広を着たホワイトカラー層のひと握りの成功者、いずれ選ばれた資本主義社会の勝ち組のさらに漉された上澄み、といったニュアンスが伴うのは確かでしょう。

 そういう「財界人」の、世間一般におけるイメージ形成の経緯を考えた場合、たとえば、あの松下幸之助などが寄与したところは大きかった。戦前の「財界人」は、「会社」自体が未だ世間と縁遠い存在だったのに伴い、それほど庶民から親しまれるものでもなかったのに対し、戦後の高度成長期以降は一気にそれがある種の有名人、社会の成功者として世間一般の脳裏にも結像するようになった。そういう「財界人」が功成り名を遂げ、それこそ日本経済新聞の「私の履歴書」欄に来し方を弁じたりするようになると、人により濃淡はあれど、どこかである種の宗教、いや、そこまで具体的でなくとも何らかの信心めいた心境を吐露する場面が混じってくる。それは政治家や、戦前ならば軍人などにも見られたような、人の上に立ち、群を抜く能力で衆を導く立場にある者の中に、どこかで宿ってくるものでもあったようです。

 思えば、この稲盛氏などもそういう信仰、信心の気配が色濃いひとりでした。臨済宗で在家得度をし、実際修行も重ねた挿話は有名ですし、実際、広く仏教界を財界、実業界と結びつける働きも行なってきたという。そこには単に商売っ気だけでなく、何らかの個人的な、生身のひとりに宿る何ほどかの想いが伴ってもいたはずです。

 とは言え、内実は何であれ、いまどき世間の皮膚感覚の一方では、そのような信仰や信心、宗教につながるようなもの言いや立ち居振る舞いを伴うリーダーに対していかがわしさや胡散臭さを感じてしまうのも確かです。事実、俗に言うブラック企業の経営者が押しつける新人研修や服務規程、各種ハラスメントが野放しな社内風土などの背後に、どこかそのような信仰や信心めいた頑なで偏狭な信念が背後に感じられる場合は少なくない。ならば、それらネガティヴな信仰や信心と、「財界人」と呼ばれるような人がたのそれとは、さて、どう違うのか。
 
 このへん、二次産業ベースの「財界」イメージが未だ下地としてはしっかり継承されているのかも知れません。その意味で、この稲盛氏や、オリックス宮内義彦日本電産永守重信あたりの諸氏は、いずれも松下幸之助以来、関西、京阪神経済圏を足場に台頭してきた人がたゆえの、「商人」と「財界人」の二重性、のようなものも感じます。それは、ドメスティックなものと、近代的で官僚的でもあるようなものとの、相克でありつつ融和もまたしてゆけるような雅量を伴ったものだったらしい。そしておそらく、その双方を共にわが身に引き寄せておくためにこそ信心や信仰、時に宗教と見まがわれるような頑なさや偏狭さ、確かな信念と見られる「社会的な個」の輪郭が必要だったのではないか。さらに、それこそが「財界人」と呼ばれる存在の、最も本質的な実存の拠り所になっていたのでは、と。

 

 けれども、そのような幸福な統合が時に可能であった生身の生きた世代は、そこにまつわっていた何ものかと共に、すでに過ぎ去りつつあるらしい。稲盛氏の生年が昭和7年、宮内氏昭和10年、永森氏は昭和19年。かの松下幸之助が明治27年生まれの19世紀人だったのに比べて、彼らは30年以上離れた親子の距離だったわけですが、その一方で、IT時代の寵児として出てきた孫正義が昭和32年、村上世彰昭和34年、三木谷浩史が昭和40年、あのホリエモンは昭和47年と、いずれも高度成長期以降の世代になります。ならばさて、彼らが果して「財界人」の範疇に入るかどうか。「財界人」として世に処してゆく上での、何らかの信心や信仰のようなものが、彼らに宿り得ているのかどうか。このあたり、とりとめなくも、しかし案外根の深い本邦の風土、それこそ文化論的な脈絡での大きなお題のような気がしています。