「明日」は良くなるのか?

 家族の絆、ということが言われます。人と人との温かいつながり、というようなことも、また。それら人間本来の暮らしのあり方だったのものが、いまのわれわれの生きている現代社会からは失われてしまっている。だからいろんな問題さまざまな病理が露わになってきているのだ――ざっとこのような筋道で自分たちの生きる「現在」、〈いま・ここ〉を説明しようとする型通りのもの言いがあります。それらは、その中身がどれだけ確かなものか、それらを口にする他でもない自分自身がどれだけそのことに心服しているか、などとは全く別に、とりあえずそのように思い、語っておけばすむ程度の常備薬的な役割を担わされているようです。

 テレビのキャスターやコメンテーター、評論家や文化人の類は言わずもがな、いや、彼らはそれが稼業の口上みたいなものですから割り引いくにせよ、何でもない普通の人たちでさえも、何か「社会」についてものを言わねばならない状況に置かれた時につい口をついて出るのは、「むかし」はあった「良いもの」(人間関係でも何でも)が「いま」は失われてしまった、「だから」今の世の中は良くない――概ねこういう型通り。「現在」というのは、その他おおぜいの世間にとってはある種「民話」のように、このような定型を介して漠然と理解されているもののようであります。

 このへんの事情は、たとえ宗教関係の人がたでも同じこと。それこそ法事の後のちょっとした法話、あるいは何かの集まりでのテーブルスピーチの類などで、仕事に見合った程度のちょっと気の利いたことを言おうとした時にこの定型がつい便利に使い回される。むしろ、「宗教」というのはそれが何であれ「心の問題」を正面から扱うものだ、という理解の仕方もまた世間の側に何となく共有されているらしい分、宗派や教義の違いなどきれいにすっ飛ばしたところでこれまた漠然とおさまりのいいもの言いとして、それらの定型は平和に効率良く消費されています。

 そしてそれらは「現在」を認識する定型としてだけならまだしも、一?踏み出してその良くない状態の「現在」を良い方向にしてゆかねば、といった使命感などが昂じてくると、そのかつてあって今失われてしまった何ものかは「伝統」といった大きなくくり方で新たに意味づけられ、より良い明日のために「復活」させるべき目標として装い新たになってゆくものでもあるらしい。スローガンとしては誰もがことさら反対したり違和感表明したりする必要もないくらいになめらかで眼ざわり耳ざわりの良いものになっていますから、それらはそれこそ燎原の火のようにみるみるうちにある「常識」として世間に広まり、漠然と共有されるようにもなってゆきます。近年いろいろな形で取り沙汰される「歴史」がらみの問題や、「日本らしさ」の案件などの底流には、そのような大きな世間の気分、その他おおぜいの「現在」に対する感じ方みたいなものが大きなうねりとして伏在していると感じています。

 なぜ、こんなに生き辛いのか、苦しいのか。それは自分自身に問題があるのかも知れないという方向と共に、いまのこの世の中がどこかよろしくないからだ、という方向にも人は説明を求めてゆくもののようです。その分だけ「むかし」は良いものとして映るようになり、その裏返しで「現在」が、そしてその先の「明日」もまた同じように、どんどん良くないものになってゆくように感じられる蟻地獄。

 でも、思えば不思議です。だって、少し前までわれら日本人は、「明日」は今日より少しはましになるはず、と概ね信じながら生きてきたはず。あの敗戦後の混乱の中でさえも、そういうより良い「明日」を何とか考えようとする、民族としての向日性は手放してなかったはずです。それがいつ頃からどうしてこれほどまでに「現在」は良くない、「明日」はさらに良くない方向に転がってゆく、としか感じられなくなってしまったのか。これらの問いにも何とか応えようとする、それがどのようなものであれ「宗教」や「信仰」の大切な役割だったはず、とひそかに思っていたりするのですが、さて。