「団塊の世代」と「全共闘」⑱ ――団塊的「恋愛」について

●時代の急激な変化の中で――団塊恋愛論

◎愛子出現のトキメキ

――そもそも、「恋愛」ってやつもまた、これまでとまた違う位相で抑圧になってきている経緯がありますよね。最近だと「モテ」「非モテ」みたいな言い方も一部では出始めてて、それは主としてオトコの側なんですが、でもオンナの側も性的な対象として見てもらえないことについてのストレスというのは、それまでよりも内向して複雑になってる部分があるように思います。「恋愛」ってのも考えたら複合してるわけで、「恋」と「愛」とがくっついちゃってる。「こい」は以前から日本語の語彙にあると思うんですが、でも「愛」は全然違いますからね。それをひとつにくっつけて「恋愛」なんて、いかにも明治の文明開化風な漢字の熟語にしてった経緯ってのも、考えたら重要なんですが。

 愛という言葉について、日本人がアンケートなんかでいちばん好きな言葉が「愛」となったのは一九七○年くらいからだった。それまでは「幸福」、ヤクザだったら「仁義」、「男」とかね(笑)。

 愛という言葉を私が初めて意識したのは、小学校の頃だったな。愛子という名前の三十歳くらいの先生がいたんだよ。その当時だから「愛国」から付けたのかもしれないが、その名前が子供心に新鮮で、みんなで「田村先生は愛子っていうんだよ」なんて話題にしてたくらいだった。

――それまで「愛子」という名前には、遭遇したことがなかったんですか?

 なかったな。でも、洒落た、モダンな名前だ、という印象が子供心にもあった。

――同い年くらいの子供たちの間には、「愛子」はまだ少なかったんですかね。

 同学年に一人くらいはいたかなあ。とくに可愛いわけではないけれど、でも、名前から逆照射されて、なにか気になる女の子だったりした(笑)。

 ほかには下に「子」がつく名前が多かった。それ以外ではカオル、ミサオ。これは男女ともに使えるしね。そしてメグム、メグミ系だね。名前にむやみに愛の字が使われるようになったのはこの三十年くらい。七二年にフィギュアスケートのジャネット・リンが出場し、札幌の選手村の壁に「Peace & Love」と書き残したのが大きく取り上げられた。あれはアメリカのヒッピー文化の単純な直輸入なんだろうけれど、どうもあの頃から愛という言葉が流行り始めた印象があるな。恋愛結婚と見合い結婚の比率が逆転するのも六○年代後半くらいだから、まあ、おそらくその頃から変わり出したんだろう。


――思えば、学校の教室の中に半分異性がいる、という状態は、戦後もたらされた大きな衝撃だったと思うんですよ。で、同年代の異性同士が意思疎通するための雛型ができていない。だから、「討論会」とかいう形式で何とかしようとする、そういう「戦後」改革体験ってのも確実にあったわけですが。ムラの若者組だって、そういう意味じゃ性別で棲み分けられていて、その異性同士で個人レベルでやりとりするなんてことは、フォーマルにはなかなか雛型はなかったんですけど、それが「学校」という近代の装置に横すべりした時には、さらにその「フォーマル」にバイアスがかかって、結果「討論会」みたいなタテマエの水準でしかやりとりできない。これが高等学校から大学の段階まで一気に移行してゆく時期が、六十年代だったと思うんです。

 今でもそうだろうけれど、当時、大学で女の子が多いのは文学部、教育学部だったしね。だから「女子大生亡国論」が出たわけだけど、本来は、特に私たちの頃は文学部ほど男らしい学部はなかったんだよ。大学を出ても就職先はない、将来はないけどハラ括って自分はやる。「シラーが好きだから大学へ行く」、「ゴーリキーをやりたいから露文へ行く」……考えたら、こんな男らしいコースはなかったわけだよ。

 

――今じゃ、獣医学部でも半分以上女学生なんだそうですよ。隔世の感がある、と競馬場の獣医がしみじみ言ってました。あたしと同じくらいの世代なんですが。

 ところが、文学部が女の巣になったことで教員たちがパニックになった。政経や法学部には学年に五、六人しかいないのに文学部に行くと女子に占領されてる。当時早稲田で教えていた暉峻康隆(国文学者/一九○八│二○○一)は、自分のクラスを見渡して愕然としたわけだ。「婦人公論」に掲載された「女子大生世にはばかる」で「女子大生亡国論」に火がついた。
  
教育学部の場合は女でも堅実な子が「文学部ではいい仕事につけないが、教員になれば就職口があるだろう」と考えて入ってきた。同様の目的で来る男もいたので、女の比率は他学部よりは高かったが、しかし文学部ほどではなかった。そういう意味じゃ、同じ大学の学内で、文学部はやはり特殊な感じがしたもんだよ。 


◎古典的理想と現実的憧憬の狭間

――類として異性を見る、ひとくくりに「オトコ」「オンナ」として見るフィルターが良くも悪くも前提にあって、その向こう側にかろうじて「個人」の輪郭が見えてくる、という遠近感だったと思うんですよ、ある時期までは。極端に言えば、嫁にするのは「オンナ」であって「個人」としてはとりあえず不問である、というようなタテマエがそのままある程度まで現実になっていたわけで。で、それは向こうさんにしても同じなわけで、旦那に求められる属性はまず家柄とか財産とか肩書きとか、その意味じゃ少し前の「三高」願望なんかもある意味、伝統かも知れない(苦笑)

 当時は、思えば人間の不思議な心理なんだけれど、はっきりと自意識を持った女と共に人生を歩もう、という気持ちになる、そんな時代でもあったんだよ。早稲田はほかの大学と多少違ってたのかもしれないけど、でも一般的に言っても、その頃からだんだん、そういう感覚というか志向を持つ人間がまわりに増えてきたと思う。女の側も、学生運動があったり、同棲があったりで、それまでみたいに大学まで来ていながら何もそういうことを考えていない女が少なくなった感じがあったね。

 

 でも、そこは旧ソ連でもよく言われたように、女が自立して党役員かなにかになり、役員同士で結婚して家庭に入ると、男はウォッカばかり飲んで嫁さんが家事全般をやらなければならなくなる、といった愚痴がよく言われてもいたんだよ。つまり、男は女に対して両方求めている。一方で今までにない種類の新しい女を求めつつ、また従来の女らしさも求める、と。当時よくあった合ハイ(合同ハイキング)でもさ、サンドイッチなんか作ってきてくれる女は家庭的だと評判がいいけど、でも、それだけの女には男は食いつかないんだよな。そのへん、微妙なんだ。


――今や「合コン」っていうのは、単に出会いどころか、どうかすると「お持ち帰り」前提、ってのもあるみたいですが。しかも、男女平等に。

 まあ、そういうのは私が早稲田だったからかもしれない。日大では違ったかも知れないけど、でも、ときには男と論争して、たじたじにさせるくらいの方が「ああ、こういう女と生涯ものを考えながら過ごしたい」とか思ってしまう、そんな欲望がこちら側に宿り始めたんだな。

   

――ああ、今で言う「ツンデレ(普段はツンツンしていながら、ふたりっきりになるとデレッとなるようなキャラクター)」につながりますね、それは。今や「ツンデレ」はある種のオタクの理想像だと言われてますが、理屈こねるとそれって、女の社会的な側面と私的な側面との分裂を反映してるんでしょう。でも、それでうっかり結婚して失敗する、と。その辺が、ある時代を象徴してますね。

 純真な女の子というのは、必ずしも人気があるわけじゃなかったな。むしろ、家事など出来なくてもいい、それここそフォークソングの「♪君に出来ることは、ボタン付けと掃除」(歌・布施明「積み木の部屋」作詞・有馬三恵子)みたいなのは、その十年ほど前ならば女として全く通用しなかっただろうけれど、でも、しょせん歌の世界だから可愛ければいい、ということもあったしね。


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――そもそも、呉智英さんのお母さんというのは、どういう方だったんですか?

 私の母親は今、八十歳くらいだけど、女学校を出てる。当時、女学校で教育を受ける基準は和裁、洋裁、料理、掃除、そして最低限の保健衛生の知識、つまり、子供が怪我をしたり骨折したらどうするかという、これが第一だったんだよね。要するに「類としての女」で、この基準を身に付けている日本中の何十万人の中のひとり、というわけだ。で、その差異はたとえば家柄の違いで、地主の娘、商家の娘と、実家の距離はどうかとか、とにかく個人ではなくその属性にあったわけだ。でも、そういう基準によってもたらされる女性に対する認識を私たちの世代の一部が拒否し始めた。自分の人生のなかで、この女(個人)と付き合って楽しいかどうか、ということだな。ただ従順なだけの、家事一般を支えてくれる相手を求めているわけではない、と。でもその一方では、家庭で自分がごろんと横になってるときに肩も揉んで家事も片付けて欲しい、ということも考えていたりするんだから、そりゃうまくいかないよね。