「団塊の世代」と「全共闘」㉚ ――吉本信者への違和感、草の根の共産党員のこと

――思想なり発言なりに何らかの抵抗値が設定されてないと、その輪郭も自覚できないままってところはありますね。あたしが年来便利に使っている「あと出しジャンケン保守」というもの言いと同じことで。福田恒存江藤淳がかつて、ああいう論陣を張っていたのは、左翼/リベラル系言説がデフォルトだった当時の状況を考えれば、まずそれだけで評価はできるしするべきだと思うんですよ。呉智英さんだって「封建主義」と言い始めた頃は、そのもの言いの響きだけで耳に立つところがあったからこそやっていたはずですよね。でも、近年の「右傾化」とひとくくりされている流れの中での発言は、完璧にもう安全地帯からものを言っているわけで、そういう自覚があまりにないままというのは、あたし的にはどうにも居心地が悪いですね。何かものを言う、自分の責任で発言する、ってことが良くも悪くも敷居が低くなっちまってて、事前に構える、緊張するってモメントがどんどんなくなってるって感じはします。

 これはどういうことなんだろうね。いまや、自分は若者だから、大人は汚いから、という言い訳が、学生だけでなくいい大人にまで生きているしね。

 たとえば、ひとつ言えるのは、さっき少し触れた金子みすゞなんかの「美しい小さなものへのまなざし」のような、「本音で語ることへの許し」「傷つきやすい心に対する癒し」とかが(彼女は彼女で命がけで表現したものなのだが、そこは見ずに)、学校教育を通して、成長期にすり込まれているんじゃないかと思うね。

 だから、吉本隆明の場合も、弟子たちのゆがんだ部分が徐々にそれを増幅していく場合があるんだよ。たとえば、私はこのところずっと芹沢俊介を批判しているけど、あれはもう本当にペテロみたいなやつでどうしようもない。吉本先生の説を拳々服膺して、さらに吉本の三を五にし、六を八にして言う。要するに、吉本のおかしい部分が余計にゆがめられ、デフォルメされ強調されるわけだ。

 彼がそういうミッションをやり、頑張れば頑張るほど、それは教祖である吉本の肯定であるがゆえに、吉本の悪いところが一層際立つんだよ。彼は四、五年前、子供について考えるときのキーワードは「イノセンス」だと言いだしたんだけど、耳を疑ったね。この二十一世紀の今になって、いまさら子供にイノセンスって言うか、と。しかし、それも結局、吉本の言葉を増幅しているだけだから始末が悪い。あの「大衆の原像」と同じことで「おれは子供の原像を知っている」、「大衆の原像を繰り込まなければ政治は成り立たない」というわけだ。「何も汚されていない、タブラ・ラーサ(白紙還元)としての子供がいる」とは、吉本の「原点としての大衆がいる」と同じことだからね。

 同時に芹沢は、市民運動は嫌いだとか、社民的な運動は嫌いだ、とか言うんだよ。でも、実は吉本も同じ枠でものを見ている。私は吉本を民主主義・原理主義だと言うけど、民主主義という意味ではまったく相似形なのだ。子供はすばらしい、大衆はすばらしいと言っているだけなんだよ。それは、端なくも芹沢俊介の言動を見ていると、本当によくわかる。

――「無垢」としての子ども、ですか。大正時代の童心主義あたりからそういう縛りは結構キツいですからねえ。「戦後」の言語空間がそれをさらに歪めて増幅してきたところもありますし。芹沢さんは典型的ですけど、やっぱり吉本シンパから出てきた人って、どこか辛気くさい(笑)。生真面目というか、荒っぽい言い方するとノリがよくないんですよね。小浜逸郎さんなんかも思想的には吉本のふところからとっくに脱してるはずなのに、文体その他はどこか吉本的なところが未だにある。抜けないんだなあ、と思います。

 吉本はそういう風に六○年頃から、思想的な意味でのヒーロー、若者にとってのヒーロー、代弁者だったから、多くの者が追随していった。でも、たいていはあるところで離れていくんだよ。

 たとえば、平岡正明も、最初吉本に対して「吉本さんって、いい人なんだ」といって信奉して、大衆の原像論をさらに別の形で深く推し進めたわけだろ。平岡は、大衆の原像の典型とは何か、それは犯罪者だと言ったわけだ。その構図は全部吉本のものだが、「大衆というものを繰り込まなければ政治も思想も成り立たない」と言ったとき、しかし「大衆というもの」といっても、何が大衆か具体的にはわからない。だったら「大衆とは、(吉本が言うには)知識人が思っているように美しいものではないんだ、何でもやる」人たちのことだから、それに煽られた形で、平岡などは「じゃ犯罪者はもっと悪いことをする。そうか、これこそ大衆だ」という理解をするわけだ。「あらゆる犯罪は革命的だ」となる。

――そのあたりについては、平岡正明シンパのあたしも否定しません(苦笑)『地獄系24』の頃は、吉本に解説書いてもらって喜んでましたし。犯罪と革命を結びつける発想そのものが当時は新鮮だったんでしょうね。そこから竹中労さんなんかと共闘した「窮民革命論」までもうすぐそこ、なわけで。あれもそれまでの代々木的な「前衛」論とか、ルンプロ批判みたいな文脈を知ってないと、当時のノリがよくわからないと思います。

 吉本の場合は、さらにさかのぼると親鸞で、悪人正機につながっていく。だから、『最後の親鸞』なんて書いているし、若い頃から親鸞についてあれこれ言っていたからね。

――五木寛之も、親鸞から真宗のことにえらくこだわってますよね。あれはその吉本なんかとの同時代的シンクロニシティがどこかにあるのかな。

 あるかも知れない。ただまあ、そういう吉本を受け取った、吉本より少し下のまさに団塊の世代、私たちの世代の学生層というのは、それまでの大学生の情報環境と微妙に違ってきてたところがあるんだよ。

 六○年当時、それまでだったら、たとえば、松本健一が吉本を知らなかったように、知識人同士の議論の中に吉本の名前なんか出てこないよ。東京でさえ松本健一は戸惑っていたわけだから、多くの学生には初耳だった。議論するとなると、たとえば、丸山眞男的な意味での日本の後進性、ということを言ったりとか、あるいはもっとマスコミなどに出てくる知識人の受け売りで言うとか、進歩的文化人は、それこそ憲法学者の清宮四郎(一八九八│一九八九)、宮沢俊義(一八九九│一九七六)などがその頃言っていたような、ものすごい建前的なことを言っていた、そのレベルだった。学生と言っても、まだそういう水準でしか議論が出なかったんだよ。

――それが呉智英さんたちの少し上、先輩たちの情報環境だったんですか。わずか数年でそれくらいの落差があったってことですか。

 そういうことだろうね。ある意味天下国家であり、やんごとない話、大文字の議論しかしなかった、できなかったのが知識人で、その予備軍としての学生ってのもそういうものだったんだけど、吉本がその著作を介してそれをもっと身の丈のところに戻してくれたというのはひとつ、確かに功績としてあったと思う。

 しかも、それを本音で言っていいんだ、ってことだよね。五○年代の終わりから六○年頃は、吉本に準拠して議論してもそんなものはまだ知られていなかったけど、だんだん浸透してくるから、私たちの学生時代は「でも、吉本はこう言っているぜ」と言えば、それなりの押さえになった。神通力がついてきたわけだ。

 同時にそこで、吉本に限らず、あの頃に本を読んだ人は、その読んだ本の中に仮に否定的、批判的に捉えたとしても、たとえば引用で柳田國男っていう人が出ていたな、とかでそちらを読んだ。二十歳の頃読めば、どんなカスでも学問なんだよ(笑)。極端に言えば、竹村健一を読んだって、中にキーワードや具体的な事例が出てくる。「ガルブレイスって偉い人がいるらしい、それって本当に偉いんだろうか、と思えば、中には実際にガルブレイスを読んでみるやつも出てくるだろ? 落合信彦を読むと、ドイツが二つに分裂して、国家がどうのこうの、ってあるから、あ、そうか、ドイツは分裂してたんだ、知らなかった、そうなのか、というのを、何も知らない高校生だったら学ぶわけだよ。

――どんなトンデモ本にも効用があり得る、ってことですね。

 そう。何でも勉強に無駄がない、というとこれは年寄りの繰り言になるけど、でも、ほんとにそうなんだよ。当時、思想界で考えたら、吉本なんかはそういう意味では学問だったんだよね。私は柳田國男を読み出したのはその後で、やはり一九か二十歳のときに、そのころ角川文庫で柳田國男が一五、六冊出ていたので、それで全部読んだ。その後、これだけでは足りないだろうというので、筑摩の全集を買った。

――あの箱入りのバージョンですね。でもあれ、ご存じのように索引が使えないし、中身についても結構遺漏があるんですよ。ただ、あれが普及したことで柳田の仕事は一般に広く知られるようになったのは間違いないですね。今や古本屋でひと揃い一万円台まで値落ちしてますが。


 吉本によって知識人の名前とか、言葉の由来を覚えたという意味においては学恩があるけど、でも、私は全然吉本にはひかれなかったな。客観評価はしたんだけれども、最初から最後まで、今に至るまで全く信奉していない。それははっきり言えるよ。それでも敬意は、以前はまだあった。今は、全くなくなった。批判点もなければ、侮蔑の対象でもない。

――明快だなあ。

 吉本をどう評価するかは、これは十五、六年前から言っていることだが、思想がどうのという複雑な議論ではなく、肝心な点は、実はあれは民主主義、原理主義じゃないかということなんだよ。

――そのへん、もう少しくわしくお願いします。

 私は子供の頃から民主主義に対して漠たる違和感、批判を持っていた。中学、高校の自己形成の初めの段階で、読書が好きで、少しはものを考えるようになると「なぜ民主主義なのか?」という疑問が頭をもたげてきたんだよね。
 私の学校には、論文くらい書くようなわりと優秀な教師がいたんだけど、その人たちと議論をすると、基本的な疑問は必ずそこに行ってしまう。しかし彼らは、それに対して答えられなかったんだよ。

 むしろ保守系の、確信を持った先生がいたとしたら、仮に私が学年で五番くらいの成績だったなら、「それは当たり前のことだ。建て前は民主主義でも、実は、社会はエリートが動かしている、おまえのような生徒こそ東大に入って、官僚になり、みんなを引っ張って変革をするべきだ」と言ってくれたかもしれないけど、でも、幸か不幸かそういう教師もいなかったし、私もまたそんなに優秀な子供じゃなかったから、そういう議論にはならなかったな。

 あの時、「世の中なんて、いくら言っても変わらない。そんなに言うんなら、おまえがエリートになれ」という選択肢は、ひとつ確かにあった。でも、教師にも私にも、その資質がなかったんだよ。論文を書く優秀な教師はいたが、その資質のある教師はいなかった。なぜならば、当時、悩める生徒と真剣に話す情熱を持っていたのは、基本的に共産党系の教師だったからね。

――ああ、わかります。当時の左翼って、基本的に「いい人」でしたからね。別の言い方をすれば、愛嬌もあったし。思想信条はともかくとして、最低限その部分では尊重できる人格ってのは、まだある程度の共通項としてあったような気がします。

 だから、私は彼らに対していまだに嫌悪感もないし、ましてや侮蔑なんてしていない。今も愛着があるよ。

 ある教師は、共産党の中でも異端分子で、最近三十年ぶりに会ったんだけど、何か口ごもってるんだよ。なんだろうと思ってると、「えっと。おれ、もう除名されたんだよ」。ああ、じゃあ、あの事件のときかなと、こちらも気を使う。

 実名を挙げてしまうけど、国語の宮崎先生ってのがいて、その先生が最初に赴任してきたのがうちの高校だった。私たちが高校一年だか二年の頃、当時はまだ若い情熱家で、やる気満々でね。

 彼は下町の出身で、家は牛乳屋さんという、いかにも庶民の出身なんだ。親父の店を助け、牛乳配達をしながら名門の両国高校に通い、何としても早稲田の露文に行きたいと考えたらしい。でも当時、早稲田の露文に行ったって就職なんかない。しかも彼は、英語で受ければ簡単に入れたのに、露文に行くからというんでわざわざロシア語で受けた。だから放課後、ニコライ堂へ通ってロシア語を勉強する。二度手間になるわけだ。そんなことしたって二浪ぐらいしないと、突然始めたロシア語で受験したって受かりっこないんだよ。でも、そういうことをやる。そんな愛すべき教師がたくさんいたな。

 大学に入って知った水野忠夫さんって人がいて、ロシアのフォルマリズムをやってたんだけど、これもいい人だった。学生時代、好きだったんだけど、でも、さっきの宮崎先生の前でその水野さんの名前を出したりしたら、さあ、大変だ。「あの軟弱者が!」と怒鳴られる。大っ嫌いなんだよね。

 水野さんは卒業後、院に残って教授になった。結局、高校の先生になった人との違いが出てしまうんだけど、宮崎さんはというと、そこまでして早稲田の露文に行き、大学院まで行ったのに、水野さんのような秀才タイプじゃないから大学に残るコースからははじき飛ばされて、地方の高校で熱血教師になった、と。ところが下町の庶民気質が残っているから、悲しいかなゴリゴリの共産党員にもなりきれないんだよ、これが。どこかで歯止めがかかっちゃう。

――わかるなあ。インテリ培養基の純粋培養みたいな共産党員と、もともとそういう庶民系の人との距離って、それはもうニッポンの共産主義社会主義運動に骨がらみの構造じゃないですか。いま、呉智英さんは「熱血教師」って言いましたけど、その「熱血」のありようってのも、ほぐしてゆけばもうそれなりに歴史も来歴もあるんですよね。何も70年代のテレビドラマだけで「熱血」という幻想が成り立ってたわけじゃない。それはきっと、さっき言ったかつての左翼の「いい人」感覚みたいなものにも通底してるように思ってます。

 まあ、ある意味、彼も不幸だったんだよね。もしも、ゴリゴリの共産党員なら、今頃は愛知地区委員長ぐらいにはなっていただろうと思うよ。それくらいの人物だった。

 宮崎さんは地元で、映画の上映運動などもやっていて私たち生徒にもその話をしてくれたんだよ。いかにも共産党的なストーリーかな、と思うと、ソ連の新しい映画や、イギリスのリンゼイ・アンダーソンのアングリーヤングメンなどという感じのものも勧めてくれるわけだ。で、実際に観に行くと、先生が授業で言っている歴史、社会の内容と全然違う、でも、ナマの人間の生活が映っている。後で感想などいろいろ話していると、ひょこっと党に対する本音の部分が出てきたり、魯迅の話になったり、まあ、そんなつきあい方をしてくれたし、またできたよね、当時は。だから、大学へ入ると、やはり共産党はちょっとな、となって、党に批判的になっていったわけだ。