そして「遺骨」は粉になる

 骨を「処理」するサービスが、また一段とさまざまな形になってきているようです。骨、つまり「遺骨」のことなのですが。

 人が死んで、火葬に付された遺体は遺骨になる。これまでは通常、骨壺に収めてそれを墓地に埋葬するという形が一般的だったわけですが、ミもフタもなく言えばそれはつまり「骨」、犬や猫、あるいは魚などにもある同じ物質、単なるモノであることには変わりないわけで、昨今の墓地不足などともあいまって、これまで墓石の下に埋められるものであったそれら遺骨を取り扱うやり方にも、静かな変化が起こってきているようです。

 「散骨」というのは、以前から話題になってきてはいました。それに伴う法律も含めた制度的な環境整備も行われてきて、これはこれである程度の認知をされた方法にはなっている。この散骨の形式が整えられたこと、つまり散骨するためにはそれが人の骨だとわからないような形にしなければならない、という制度的な枠組みができたことがひとつの引き金だったのでしょう。これまでのような「遺骨」という意味づけから離れた、単なるモノと化した骨の「処理」の仕方について、多様な選択肢がビジネスとして提示されるようになっているようです。

 たとえば、遺骨をまず粒の細かな粉末にする。そうしたモノを固めて処理してペンダントや指輪など、何かそういう身につけたり身近に置いておくアクセサリーや記念品的なモノにする。あるいは、そこまでしなくても、粉末のまま骨壺的でない何か別の容器――ガラスや金属を使った、いずれオシャレな形のものが多いようですが、そういう収納の仕方で家の中に置いておく。当然、これまでの墓地や墓はもとより、仏壇などの祀る場所も変わってこざるを得ないわけで、すでにそれらを総称して「手元供養」という呼び方も専門の業者によって使われ始めています。このへんは宗教関係含めて「死」を仕事として扱われている方々などからすれば何をいまさら、なのでしょう。

 

 

 気になるのは、「ペットと一緒に」モノにしてゆくことも、なにげに選択肢に入り始めていること。いや、すでにペットと入れる墓地や、供養を受け入れる寺などが出てきていますし、それもまた時代の変化なのでしょうが、ただそれら「遺骨」が単なるモノとしての骨、粉砕され粉末状の骨粉でしかなくなってしまうことが、肝心の「死」の意味、生身のいのちがひとつのサイクルを終えるということそれ自体のわれわれの中での位置づけなどにどういう影響をこの先与えてゆくものなのか、そのへんの目算や覚悟もまた、併せて整えてゆかねばならない時代になってきているようです。

 「遺骨」がそのようにただの骨粉になってゆくのなら、それを肥料として自然に戻す、そういう供養すら地続きの未来にはあり得るのかも知れません。