週刊誌書評の愛情

 う~ん、えらいこっちゃ。なんか知らないけどちょっとゆっくりあたりを見回してみたらあなた、今やそこら中で書評なんてのはどんどん消えてってるじゃないですか。

 新聞じゃ確かにまだ書評欄がしっかりある。でも、週刊誌なんか気がついたら書評の居場所なんてなくなってるところの方が多くて、あっても担当の愛情もこだわりも感じられない代物になっちまってたり、明らかに窓際の扱い。いまどきの情報環境における本ってメディアの位置づけ自体、活字の現場からしお手玉している風がありありで、これじゃ確かに眼ききの本読み、手練れの書評書きなんて新たに出てくるわけがない。

 『週刊文春』と『週刊ポスト』あたりが、そんな中ではまだ何とかしようとしているクチか。ブンガク業界の元締め格で嘘でも活字を盛り立てる義務のある文春はともかく、後者のポストが意外にも(失礼)逆風で頑張っている。著者インタビュー三ページをメインにもってきたのはともかく、それをあからさまな自社系書き手のプロモーションに使うのはいかにもポストで意地汚いが、その代わり、ということなのか、一ページ二段割りで二冊、「味わい本、発見」と題して、とりあえずまっとうな書評を最後にそっとまぎれ込ませているのは、おそらくまだ編集部に正しい本好き、活字読みが棲息しているからだろう。

 取り上げる本と書き手のコラボレーションを担当者自身が楽しむ気配も、たまに現われて微笑ましい。たとえば、ブツは大西剛『イヤイヤ訪ねた世界遺産だったけど』。新評論から出た高めな世界遺産歴訪ものだが、これをみうらじゅんに振るなんてこともしてくれる。で、みうらもそれに応えて、いいノリでさらさらと読ませる評になっている。

 「日本よりさらにクソ暑い時期をわざわざ狙ってのアジア旅行。(…)炎天下のゲリ状態でフラフラ。世界遺産ってやつは、ただ広大な土地にポカンとあるだけ。仏像は何百年、何千年とこれからも瞑想し続けるだろう。(…)遠い過去の遺産を見てる自分が不安になってくる。せめて東大寺のように土産物屋でも建ち並んでさえいれば、記念という名の下におれはオバチャン化し、買い漁ることで存在理由を見つけられたのに。ただそこには風が吹いているだけ。それもヌルーイ風。」

 この時のページの片割れが、長山靖生の『懐かしい未来』に巽孝之というとりあわせで、そちらが硬めのガクシャ系インテリ文体書評のスタンダードといった出来だったのだが、それとの対比でもまたひと味。「西麻布のオシャレなダイニング・バーで女の子を前に得意気に海外旅行話をしてるバカ者は読みなさい!」という末尾のお約束も、「イラストレーターなど」という肩書きでワンクッション、すんなり落ち着くという寸法。誌面に愛があれば、まだ週刊誌でもこういう味わいは出せるってことに、なんかとても勇気づけられたぞ。