【改稿分】TOKYO2020の見せた「希望」

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老害おじさん炙り出し競技でもあるのかと思ったオリンピックでございますわよ」

 閉会式の8月8日夜、Twitterに流れていたとりとめないつぶやきの中の、ほんのひとつ。何気ないひとことで何かをうっかり射抜いてしまう――ああ、世間一般その他おおぜい名無しの集合的無意識な眼力とは、実にこういうことであります。

 コロナ禍が国内的にどうにもうまく制御しきれないまま、かつ、開催をめぐる問題やトラブルが事前からあれこれ立て続きに起こって紛糾続きの中、半ば見切り発車のむりやりのような形で開催強行に踏み切ったTOKYO2020オリンピック、もれなくついてくる近年イチ推し抱き合わせ販売のパラリンピックがまだ控えているとは言え、ひとまず何とか閉会式を迎えることはできた。

 そんな中ただひとつ、確実にわれら国民同胞その他おおぜいの眼とココロとに映り、焼きついたことがあったとしたら、それは個々の種目それぞれの競技において、与えられた機会に応じて全力で自らの可能性を限界まで確かめようとする競技者ひとりひとりの生身のカラダの躍動が引き出すある種の〈リアル〉、眼前の〈いま・ここ〉に現前している同時代のまごうかたない生の確かさ、であったでしょう。

 いずれ分厚くこってりと取り巻くメディアの重囲を介してしか、われらの手もと足もとにはやってはこない、そういういまどきのマス・イベント「コンテンツ」としてのオリンピックではあれど、しかし、そのように「現場」に「臨場」することから引き離され、ナマで体感するはずのまるごとの感動から遠ざけられているかのように思える情報環境においてだからこそ、むしろかえってうっかり濾過され精製されて伝わってしまう何ものか、というのもどうやらあるらしい。

 無観客開催という条件が、むしろ奏功したという面もあるのかも知れません。観客席やスタンドにいるのは関係者と限られた報道陣だけ。世界各国から観戦に訪れる観光客はもとより、通常ならば地元開催、物見高さにおいては人後に落ちないわれらが同胞のこと、なんだかんだ言いながら競技場に押し寄せていたはずのいつもの光景、プロ野球から大相撲、サッカーや競馬などの競技を介した本邦「ショウ」「エンターテインメント」的な見世物興行の場の醸し出す日常と地続きの雑踏っぽさや盛り場的なごった煮感が、こと今回のオリンピックに関してはきれいに取り除かれていたことは、さて、どれくらい国民間に自覚的に意識されていたでしょうか。

 たとえば、あれはどういう素姓の人だったのか、どこか地方の実業家だったと記憶しますが、オリンピックとなればどの国の開催であれ必ず出没、日の丸入りの派手な陣羽織や扇を手に満艦飾、種目不問で代表選手を応援していた「オリンピックおじさん」。ああいう巷の篤志家めいた「お祭り好き」も含めたわれら本邦国民同胞その他おおぜいのある一面、良くも悪くも「大衆」であり「通俗」であるようなあり方実存含めたマス・イベントの姿を「オリンピック」として見せられ、意識させられる局面がほとんどなかったわけで、これぞまさに無観客開催ゆえの現象。そしてそれが、今回のオリンピックの「コンテンツ」としての流通、消費において、期せずしてある本質を露呈させることになったらしい。

 「分断」が言われ、同じ国民同胞としての意識をどこかで集約してゆくための足場を探しあぐねているわれわれの現在に、果して何がそうさせているのか共に腑に落ちるためのヒントを「ほら、要はこういうことだったんでね?」とわかりやすく眼前に差し出してくれることになった。今回のTOKYO2020が期せずして示してくれた教訓とは、どうやらそのあたりのようです。


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 冒頭あげた「老害おじさん炙り出し」というもの言いには、なんでもないように見えて、実は結構いろんな意味が含まれています。

 まず総論として、それはIOC主導の巨大規模なマス・イベントと化して久しい現代のオリンピックを21世紀の本邦に引き込んで舞台裏含めて開催を万事取り仕切り、粗相のないよう実際にまわしてゆくはずの、言わば「興行」の担当者としてのさまざまな組織や携わる関係各方面の、今回のオリンピックに至る過程も含めて露わになった、そのありかたについての評言であることは間違いない。まあ、世の「エラいさん」(これも死語ですか)一般に対して世間が常に抱く「ああ、結局はそういうことなんだよなぁ、ああいう連中のやり口は」という昔ながらの気分を裏打ちしてくれるもの、ではあります。

 確かに、今回のTOKYO2020は2013年に正式に開催が決定し、そのためのプランがあれこれ具体的になり始めた当初からトラブル連続、何かに呪われているかのような経緯をたどりました。

 まず、旧国立競技場をとりこわして新たに作る新国立競技場の設計案が二転三転、招致段階から織り込まれていた国際的な建築家ザハ・ハディドの手がけたプランが、建設費が増大したことを理由に着工直前の2015年に白紙撤回、内外建築家や国内建設業界界隈から公費を注ぎ込む政府以下関係団体の思惑もからんで事態は紛糾、再度コンペの結果、結局は隈研吾案が採用されたものの、予算圧縮に加え工期短縮など新たな縛りもかかり、果してわざわざザハ案を白紙撤回する必要があったのか否か、あれこれいらぬ憶測を引き出すダシになりました。

 そこから7月には公式エンブレムに模倣・盗作疑惑が勃発、デザイナーの佐野研二郎は否定したものの、海外ベルギーのデザイン事務所からフェイスブックを介して発された疑義が端緒だったこともあり、いまどきの情報環境のこと、webも含めた世論ぐるみの炎上が止まらず、結局「取り下げ」という形でキャンセルになり再度公募に。

 2019年には、JOC竹田恒和会長が誘致活動の際、シンガポールコンサルタント会社に200万ドル払っていたことが贈賄疑惑としてフランス司法当局の捜査対象となっていたことを受けて辞任。さらに、開催予定だった去年2020年にコロナ禍が出来し、開会式4ヶ月前の3月末になって開催の1年延期を決定。追加予算2900億あまりの目算も立たぬままの措置で、これまた絶好の叩きどころに。暮れには「コロナ禍による社会状況の変化や簡素化などの観点から再構築を進める」という理由で、前年選出されていた開会式・閉会式の演出チームの解散が発表され、前回リオ五輪の閉会式の「アベ・マリオ」演出含めて好評で世間的にも期待されていたチームのこの降板は、思えば本格的なケチのつき始めだったような。

 明けて今年2月には、JOCの臨時評議員会での組織委員会会長の森喜朗の「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかる」という発言が拾われ、海外メディアのニューヨークタイムズなどを介して報じられたことから例によって国内報道も連鎖的に炎上、「女性への差別発言」という昨今ポリコレ的正義に依拠した魔女狩り的総攻撃の前には、「誰かが老害老害と言いましたけども年寄りは下がれというのは、どうもいい言葉ではないので、子どもたちに対する、何と言うんですか、いろんな言葉がございますけども、老人もやっぱりちゃんと日本の国のために、世界のために頑張ってきているんですが、老人が悪いかのような表現をされることも極めて不愉快な話であります。」と、さすがにそこは元首相、懸命の抵抗をしたものの、「しかし、そんな愚痴を言ってもしょうがないことでございます。」「私がいる限り、ご迷惑をかけるということになったので、これまでの努力が全く無になってしまいます」(以上、2月12日会見)と潔く辞任を表明せねばならぬ事態に。

 追い討ちをかけるように3月には、開会式・閉会式の演出の統括責任者の佐々木宏(電通)が1年前に内輪のLINEに投稿した思いつきが、なぜかこのタイミングでweb媒体の文春オンラインを介して流出、お笑い芸人渡辺直美の容姿を揶揄する内容だったことからこれまた問題化、当人は謝罪したものの世論に抗しきれず辞任。ここからはもう怒濤のがぶり寄りで、7月の開幕に向けて開会式・閉会式のコンセプトや演出その他に関わるメンバーが発表されると、まるで仕込んだかのような「キャンセルカルチャー」沙汰が立て続けに勃発。まずは元コーネリアスのミュージシャン小山田圭吾が過去の雑誌に表明していた高校時代のいじめ沙汰が論われ炎上して辞任、引き続き絵本作家ののぶみも同様の事案がほじくり出されて早々に遁走し、さらに開会式直前、まさに前日の22日にもショーディレクターが予定されていたお笑い芸人「ラーメンズ」の小林賢太郎が、ホロコーストをネタにしたコントをやっていた過去を論われて速攻で降板のダメ押し、とまあ、ざっと経緯をおさらいしただけでも、よくもこれだけワヤが立て続けにバレる運びになったものと、改めてしみじみします。

●●●
 世間の風向き、その他おおぜいの気分や空気の方向性みたいなものを察知するのは、古今東西政治家の必須の能力のはずです。

 いまどき本邦政治家は小選挙区制ともあいまって「地元」≒選挙区を喪失したような環境に棲息させられている分、その能力に深刻なバグが仕込まれるのが党派不問で共通の症状のようですが、それは「広告」「広報宣伝」を稼業としている界隈とて同じこと。大衆社会化の位相がひとつそれまでと異なる次元に移行していった結果、それらの裡に棲息する意識や気分の動態を最前線で測候する稼業ゆえ罹患するバグが広汎に共有されるようになっているらしい。それはいわゆる「電通」(とひとくくりにされているがとりあえず)的なワヤ、近年誰の眼にもあらわになってきている彼ら広告代理店とそれに否応なく随伴せざるを得ない生態系でエサを拾うメディア関連情報産業界隈の全面的煮崩れ症状とも必然的に関連しているはずです。

 TOKYO2020開幕直前まで、いや、それどころじゃない、開会式が終わって翌日、実際に競技が始まるその朝まで、われら本邦同胞国民の世間一般その他おおぜいは、すでに存分にシラけていました。そのことは間違いない。むろんコロナ禍で1年延期された上、肝心のコロナ禍への対応もまた紆余曲折、悪戦苦闘の連続で疲弊していたのもあるにせよ、なんの、そうは言っても本来お祭り好きの軽佻浮薄で付和雷同が骨がらみな国民気質だから、なんだかんだ言ってもいざ始まっちまえば「ニッポン頑張れ!」で盛り上がってくれるはず、てな感じで半分多寡をくくり、残り半分おそらくは片手拝みな気分でやり過してきていたそれら大会関係「老害おじさん」界隈の、ああ栄光のあの1964年は東京五輪以来の習い性まかせの「パンとサーカス原理主義な思惑がいっそ根こそぎ無惨に裏切られるくらいには、今回のオリンピックへのいわゆる「国民的期待」はほぼ底をついていたと思います、少なくとも7月24日の朝までは。

 それは冒頭の「老害おじさん炙り出し」という評言に含まれていた、オリンピックという国民的規模での、かつ世界的な市場価値の裡で催行されるような「興行」を責任もって取り仕切るべき立場にある人がたの、その実務能力についての本質的な疑念や不信感でした。そしてそれは、彼ら彼女らが実際に年寄りであるかどうかではなく、それらの実務をまわしてゆくからくりの中に安住したまま〈それ以外〉が見えなくなってしまった人がた一般に対する「ああ、やっぱりそうなんだ」という、少なくとも平成このかた「失われた30年」をこの国で生きてきたその他おおぜいの、それぞれ半径身の丈での既視感に下支えされた理解でもあったはずですし、さらに敢えて言えば、いまどき本邦同胞国民の間に広く、根深く共有されている政治や公共団体や企業その他、いわゆる「公共」への疑念や不信感ともしっかり地続きだったはずです

 けれども、であります。その「老害おじさん炙り出し」はその後、希望も見せてくれた。いや、何も日本選手団の空前のメダルラッシュや好成績といったことではなく、開会式・閉会式に代表されるオリンピックの「興行」としての仕切りの側のワヤてんこもりとは全く別に、その中身を支える競技とそこに躍動する選手たち、そしてそれらを現場で支えるさまざまなスタッフやボランティアや、いずれそういう「縁の下の力持ち」の役回りにあった名もない同胞らのありかたが、「ああ、いろいろあったけど、やっぱ開催してよかったじゃん」とひとまず思えるような何ものかを示してくれていた、そのことです。

 野球やソフトボール、卓球や体操や柔道といったこれまで日本のお家芸的に知られていた種目だけでなく、自転車やボクシングにフェンシングなど、本邦「スポーツ」の従来からすれば正直日陰にあった種目から、さらにスケートボードやサーフィンやスポーツクライミングといった、とても「スポーツ」として意識されてこなかったような種目まで、いずれいまどきの同胞アスリートたち、殊にこの「失われた30年」に生まれた新たな若い衆世代ど真ん中なコたちの無心な躍動が、「観客」という夾雑物のない無観客開催の環境で、テレビや新聞・雑誌など旧来のマスメディアだけではないwebを介した実況や動画サイトなどをも縦横に介することで余計にくっきりと、身近に切実に「見えた」。競技におけるパフォーマンスだけでなく、その後のインタヴューへの対応などまで含めて、これまでの本邦「スポーツ」の習い性になっていた定型の縛りから解き放たれたかのような良い意味での自然体で、それこそ「自分の身についたことば」で語ろうとしていた。競技や種目で濃淡はあれ、これもまた開会式・閉会式だけが別世界、異なる論理で行われていたかのような「分断」がうっかり露わになったこととおそらく関連する、広告資本にドライヴされた組織・団体やメディアの濃厚な閉鎖的環境による仕切りで展開される「興行」汚染から自然体で身をよじって逃れ得る世代感覚の予兆なのだとしたら、それは確かにひとつの「希望」と言って構わないものでした。

「スケボーでメダルを取れたというのは、よく街中で滑って遊んでて、怒られてばかり居たようなコが、なんか知らない間にオリンピックに出ちゃってメダルを取っちゃった、ってことだよね」(あるtweetより)

「お国柄が出ている。日本は凄いなと思ったのは選手が伸び伸びしてる。日本がいかに自由でやりたいことができる国だということ。楽しそうに伸び伸びと明るい若者は日本という雰囲気の中でないと、そういう選手は育たない。他アジア選手と違う」(YouTube「李相哲TV」での同氏の発言)

 思えば、「甲子園」の高校野球もかつてはそんなものだったはず。本邦の「運動」――「スポーツ」というカタカナ表記だけがあたりまえになってゆく過程のある時期までのそれらもまた、そういう身近にある若い衆の力、社会に世の中に活力をうっかり与える役回りでもあるようなそういう存在のまぶしいまでの生命力を、凝縮した形で見せてくれるものだったはずです。

 開会式以上にほとんど何の印象も残すことのなかった閉会式の後、海外メディアの中に「今回、コロナ禍の中、日本はよくやった」的な挿話を伝えるものが散見されました。その多くは無名のボランティアや、「バブル」方式と称した選手村と選手たちを隔絶する環境の中でそれでもわずかに垣間見えた本邦同胞その他おおぜいの断片を、印象的に伝えるものでした。それもまた、もしかしたら無観客開催という、いまどきの情報環境からすれば全く相反する方向での縛りのかかった中での、予期せぬ果実として世界に向けて示すことになった「日本の〈いま・ここ〉」だったはず。

 なんだかんだあるけど、どうやらこの日本と日本人ってのはそう悪いものでもないらしい。少なくとも海外の大方からはそういう風に思ってもらえているらしい――それもまた、今回五輪で本邦同胞世間一般その他おおぜいに「見えた」ことのひとつでしょう。

 「老害おじさん」とひとくくりにされてしまうような生きものたちが良くも悪くも作り、まわしてきた戦後76年、そのうち4割近くをすでに「失われた30年」と自嘲的に言わざるを得ないような停滞としてくぐり抜けてきて、さて、この先どのような「日本」にしてゆかねばならないのか。習い性まかせのやみくもな「統合」「一致団結」でもなく、考えなしの赤毛氈毛布で「分断」「格差」を助長する緊縮ネオリベグローバリズムでもなく、すでに眼前に否応なくはらまれてあるズレや違いをまず素直に認識しながら、その上でこれまでと違う文法、異なるありようの「公共」の「まとまり」をどう編み上げてゆけるのか。そのためのささやかな教訓、開かれた教材としてのオリンピックという意味では、もしかしたら今回のTOKYO2020、予期せぬところでうっかりと意外な徳を積んだのかも知れません。

*1:約1200W強ほど削るオーダーに従って改稿して入稿したもの

*2:草稿はこちら(´・ω・)つ  king-biscuit.hatenablog.com

*3:ゲラ段階での微修正の痕跡もせっかくなのでご参考までに。消し線赤字が削除個所、太ゴチが追加個所であります、為念……210817

TOKYO2020の見せた「希望」

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老害おじさん炙り出し競技でもあるのかと思ったオリンピックでございますわよ」

 閉会式の8月8日夜、Twitterに流れていたとりとめないつぶやきの中の、ほんのひとつ。何気ないひとことで何かをうっかり射抜いてしまう――ああ、世間一般その他おおぜい名無しの集合的無意識な眼力とは、実にこういうことであります。

 開催の1年延期を余儀なくされた元凶のコロナ禍が国内的にどうにもうまく制御しきれないまま、かつ、開催をめぐる問題やトラブルが事前からあれこれ立て続きに起こって紛糾続きの中、半ば見切り発車のむりやりのような形で開催強行に踏み切ったTOKYO2020オリンピック、もれなくついてくる近年イチ推し抱き合わせ販売のパラリンピックがまだ控えているとは言え、ひとまず何とか閉会式を迎えることはできました。

 莫大な金額に膨れあがったと言われる予算規模からスポーツとカネの問題、国威発揚のマス・イベントの是非、IOCという勧進元のさらに元締めの無理無体な横ぶりから、本邦ならではの「学校」と結びついて定着してきたスポーツのあり方とそこに根ざした指導体質の文化的背景……などなど、オリンピックにからんで必ずあげつらわれるお題群で例によっての百家争鳴、まして今回はコロナ禍下での興行という異例の条件で無観客開催に踏み切ったこともあり、いつもの開催以上にあれこれ物議を醸したのも、これはまあ、致し方ないところではあったでしょう。

 成功か失敗か、相も変わらぬ単純な二分法で採点しようとする手合いが跋扈するのも本邦メディアのいつもの風景。そもそも「成功」はともかく、「失敗」というのは具体的にどのような状態をイメージしてのことなのか、前々から謎ではあります。かつてのミュンヘンの如くテロリスト集団が襲撃して死傷者が山ほど出るような異常事態が起こることを想定しているのか、今回ならばコロナ禍が猖獗を極めて選手間にも蔓延、観客はバタバタ倒れて競技続行できないような光景を創造していたのか、何にせよ雑な図式まかせの後出しジャンケン合戦の風景ですが、それでもそんな中ただひとつ、確実にわれら国民同胞その他おおぜいの眼とココロとに映り、焼きついたであろうことがあったとしたら、それは個々の種目それぞれの競技において、与えられた機会に応じて全身全霊全力で自らの可能性を限界まで確かめようとする、競技者ひとりひとりの生身のカラダの躍動が引き出すある種の〈リアル〉、眼前の〈いま・ここ〉に現前している同時代のまごうかたない生の確かさ、であったでしょう。

 いずれ分厚くこってりと取り巻くメディアの重囲を介してしか、われらの手もと足もとにはやってはこない、そういういまどきのマス・イベント「コンテンツ」としてのオリンピックではあれど、しかし、そのように「現場」に「臨場」することから引き離され、ナマで体感するはずのまるごとの感動から遠ざけられているかのように思える情報環境においてだからこそ、むしろかえってうっかり濾過され精製されて伝わってしまう何ものか、というのもどうやらあるらしい。

 無観客開催という条件が、期せずしてむしろ奏功したという面もあるのかも知れません。観客席やスタンドにいるのは基本的に関係者と限られた報道陣だけ。世界各国から観戦に訪れる観光客はもとより、通常ならば地元開催、それこそ物見高さにおいては人後に落ちないわれらが同胞のこと、なんだかんだ言いながら競技場に押し寄せていたはずのいつもの光景、プロ野球から大相撲、サッカーや競馬などの競技を介した本邦「ショウ」「エンターテインメント」的な見世物興行の場の否応なしに醸し出す日常と地続きの雑踏っぽさ、良くも悪くも盛り場的なごった煮感みたいなものが、こと今回のオリンピックに関してはきれいに取り除かれていたことは、さて、どれくらい国民間に自覚的に意識されていたでしょうか。

 たとえば、あれはどういう素姓の人だったのか、確かどこか地方の実業家だったと記憶しますが、オリンピックとなればどの国の開催であれ必ず出没、日の丸入りの派手な陣羽織や扇を手にシルクハットなどで満艦飾、種目不問で代表選手を応援していた「オリンピックおじさん」。ああいう巷の篤志家めいた「お祭り好き」も含めたわれら本邦国民同胞その他おおぜいのある一面、良くも悪くも「大衆」であり「通俗」であるようなあり方も含めたマス・イベントの姿を「オリンピック」として見せられ、意識させられる局面がほとんどなかったわけで、これぞまさに無観客開催ゆえの現象。そしてそれが、今回のオリンピックの「コンテンツ」としての流通、消費において、期せずしてある本質を露呈させることになったように感じています。

 それはもちろんある程度普遍的なものであるだろうと共に、しかしまた確実に本邦特有の文脈における普段意識されず、うまく自覚もできないままな、われわれの裡にある〈いま・ここ〉を生きる意識のあるわだかまった部分を漉し出してくれたようです。「分断」が言われ、同じ国民同胞としての意識をどこかで集約してゆくための足場を探しあぐねているわれわれの現在に、果して何がそうさせているのか共に腑に落ちるためのヒントを「ほら、要はこういうことだったんでね?」とひとつ、わかりやすく眼前に差し出してくれることになった。今回のTOKYO2020が期せずして示してくれた教訓とは、どうやらそのあたりのようです。


●●
 冒頭あげた「老害おじさん炙り出し」というもの言い。ある名無しのweb上の集合的無意識がうっかり表現したその「老害おじさん」には、なんでもないように見えて、実は結構いろんな意味が含まれています。

 まず総論として、それはIOC主導の巨大規模なマス・イベントと化して久しい現代のオリンピックを21世紀の本邦に引き込んで舞台裏含めて開催を万事取り仕切り、粗相のないよう実際にまわしてゆくはずの、言わば「興行」の担当者としてのさまざまな組織や携わる関係各方面の、今回のオリンピックに至る過程も含めて露わになった、そのありかたについての評言であることは間違いない。まあ、世の「エラいさん」(これも死語ですか)一般に対して世間が常に抱く「ああ、結局はそういうことなんだよなぁ、ああいう連中のやり口は」という昔ながらの気分を裏打ちしてくれるもの、ではあります。

 確かに、すでに報道などでも知られているように、今回のTOKYO2020は2013年に正式に開催が決定し、そのためのプランがあれこれ具体的になり始めた当初からトラブル連続、何かに呪われているかのような経緯をたどりました。

 まず、旧国立競技場をとりこわして新たに作るメイン・スタジアム新国立競技場の設計案が二転三転、招致の段階から織り込まれていた国際的にも著名で実績のある建築家ザハ・ハディドの手がけたプランが、建設費が増大したことを主な理由に着工直前の2015年に白紙撤回、内外の建築家や国内建設業界とそれにからむ界隈から、公費を注ぎ込む政府以下パブリック・セクターの思惑もからんで事態は紛糾、再度コンペの結果、結局は隈研吾設計案が採用されたものの、予算の圧縮に加えて工期の短縮など新たな縛りもかかり、果してわざわざザハ案を白紙撤回する必要があったのか否か、例によってあれこれいらぬ憶測を引き出すダシにもなりました。

 そこから7月には公式エンブレムに模倣・盗作疑惑が勃発、デザイナーの佐野研二郎は否定したものの、海外ベルギーのデザイン事務所からフェイスブックを介して発された疑義が端緒だったこともあり、いまどきの情報環境のこと、webも含めた世論ぐるみの炎上が止まらず、結局「取り下げ」という形でキャンセルになり再度公募に。

 2019年には、JOC竹田恒和会長が、東京への誘致活動の際、シンガポールコンサルタント会社に200万ドル払っていたことが贈賄疑惑としてフランス司法当局の捜査対象となっていたことを受けて辞任。さらに、開催予定だった去年2020年、コロナ禍が出来。7月の開催予定の3ヶ月前の3月になって開催の1年延期を決定。追加予算2900億あまりが必要となりましたが、その目算もはっきりしないままの措置で、これまたただでさえ金権主義だカネまみれだとの批判が手ぐすね引いている中、絶好の叩きどころに。さらに暮れには「コロナ禍による社会状況の変化や簡素化などの観点から再構築を進め、迅速かつ効率的に準備を進めるため」という理由で、前年に選出されていた開会式・閉会式の演出企画チームの解散が発表され、前回リオ五輪の閉会式の「アベ・マリオ」演出含めて好評で、世間的にも期待されていたチームのこの降板は、思えば本格的なケチのつき始めだったような。


www.youtube.com

 明けて今年2月には、JOCの臨時評議員会での組織委員会会長の森喜朗の「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかる」という発言が拾われ、海外メディアのニューヨークタイムズやAFP通信などを介して報じられたことから例によって国内報道も連鎖的に炎上、Twitterでは「森喜朗は辞任してください」というハッシュタグまでつけられての「女性への差別発言」という昨今ポリコレ的正義に依拠した総攻撃の前には、「誰かが老害老害と言いましたけども年寄りは下がれというのは、どうもいい言葉ではないので、子どもたちに対する、何と言うんですか、いろんな言葉がございますけども、老人もやっぱりちゃんと日本の国のために、世界のために頑張ってきているんですが、老人が悪いかのような表現をされることも極めて不愉快な話であります。」と懸命の抵抗をしたものの、「しかし、そんな愚痴を言ってもしょうがないことでございます。」「このあと、ぜひ忌憚のないように、この(オリンピックの)運営をしていかなければならんと思いました。私がいる限り、ご迷惑をかけるということになったので、これまでの努力が全く無になってしまいます。」(以上、2月12日会見)と潔く辞任を表明せねばならぬ事態に。

 追い討ちをかけるように3月には、開会式・閉会式の演出を統括するクリエーティブディレクターの佐々木宏が、1年前の3月に内輪のLINEに投稿したアイデアが、web媒体の文春オンラインを介して流出、出演構想に入っていたらしいお笑い芸人渡辺直美の容姿を揶揄する内容だったことからこれまた問題化、当人は謝罪したもののこれまた世論に抗しきれず辞任。ここからはもう怒濤のがぶり寄りで、7月の開幕に向けて開会式・閉会式のコンセプトや演出その他に関わるメンバーが発表されると、その中のメンバーにまるで仕込んだかのような「キャンセルカルチャー」沙汰が立て続けに発覚。まずは元コーネリアスのミュージシャン小山田圭吾が過去の雑誌に表明していたいじめが論われ炎上して辞任、引き続き絵本作家ののぶみも過去の同様の事案がほじくり出されて早々に降板し、さらに開会式直前、まさに前日の22日にもショーディレクターが予定されていたお笑い芸人「ラーメンズ」の小林賢太郎が、ホロコーストをネタにしたコントをやっていたことを論われて速攻で降板のダメ押し、とまあ、ざっと経緯をおさらいしてみただけでも、よくもこれだけワヤな綻び具合が立て続けにバレる運びになったものだと、改めてしみじみします。

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 世間の風向き、その他おおぜいの気分や空気の方向性みたいなものを察知するのは、古今東西政治家/屋の必須の能力のはずです。

 いまどき本邦政治家は小選挙区制ともあいまって「地元」≒選挙区を喪失したような環境に棲息させられている分、その能力に深刻なバグが仕込まれるのが党派不問で共通の症状になっているようですが、それは「広告」「広報宣伝」を稼業としとる界隈にも同じように罹患して久しいようで、大衆社会化の位相がひとつある時期までと異なる次元に移行していった結果、それらの裡に棲息する意識や気分の動態を最前線で測候するのが稼業の界隈において、共通するバグがそれなりに広汎に共有されるようになっていったらしい。それはいわゆる「電通」(とひとくくりにされているけれどもとりあえず)的なワヤ、近年誰の眼にもあらわになってきている彼ら広告代理店稼業とそれに否応なく随伴せざるを得ない生態系でエサを拾わざるを得ないメディア関連情報産業界隈の全面的煮崩れ症状とも、それらは必然的に関連しているはずです。

 TOKYO2020開幕直前まで、いや、それどころじゃない、開会式が終わって翌日、実際に競技が始まる日のその朝までは、本邦同胞国民の世間一般その他おおぜいの気分としては、すでにかなりの程度シラけていました。そのことは間違いない。むろんコロナ禍で1年延期された上、肝心のコロナ禍への対応もまた悪戦苦闘の連続で疲弊していたのもあるにせよ、なんの、そうは言っても本来お祭り好きの軽佻浮薄で付和雷同が骨がらみな国民気質だから、なんだかんだ言ってもいざ始まっちまえば「ニッポン頑張れ!」で盛り上がってくれるはず、といった感じで半分多寡をくくり、残り半分おそらくは片手拝みな気分でやり過してきていたそれら大会関係者「老害おじさん」界隈の、前回1964年は東京五輪以来の習い性まかせの「パンとサーカス原理主義な思惑が根こそぎ無惨に裏切られるくらい、今回のオリンピックへのいわゆる「国民的期待」はほぼ底をついていたと思います、少なくとも7月24日の朝までは。

 それは冒頭の「老害おじさん炙り出し」という評言に含まれていた、まさにオリンピックという国民的規模での、かつ世界的な市場価値の裡で催行されるような「興行」を責任もって取り仕切るべき立場にある人がたの、その実務能力についての本質的な疑念や不信感でした。そしてそれは、彼ら彼女らが実際に生物的な年寄りであるかどうかでもなく、それ以上にそれらのたてつけ、実務をまわしてゆくからくりの中に安住したまま〈それ以外〉が見えなくなってしまった人がた一般に対する「ああ、やっぱりそうなんだ」という、少なくと平成このかた、「失われた30年」をこの国で生きてきたその他おおぜいのそれぞれ半径身の丈での既視感に下支えされた理解でもあったはずですし、さらに敢えて言えば、いまどきの本邦同胞国民の間に広く根深く共有されている政治や公共団体や企業その他、いわゆる「公共」への疑念や不信感ともしっかり地続きなはずです。

 けれども、であります。その「老害おじさん炙り出し」はその後、希望も見せてくれた。何も日本選手団の空前のメダルラッシュや好成績といったことではなく、開会式・閉会式に代表されるオリンピックの「興行」としての仕切りの側の現われとは全く別に、その中身内実を支える競技とそこに躍動する選手たち、そしてそれらを現場で支えるさまざまなスタッフやボランティアや、いずれそういう「縁の下の力持ち」の役回りにあった同胞らのありかたが、「ああ、いろいろあったけど、やっぱり開催してよかったじゃん」とひとまず思えるような何ものか、を示してくれていた、そのことです。

 野球やソフトボール、卓球や体操や柔道といったこれまで日本のお家芸的に知られていた種目だけでなく、自転車やボクシングにフェンシングなど、これまでの本邦「スポーツ」のたてつけからすればどちらかと言えば日陰にあった種目から、さらにスケートボードやサーフィンやスポーツクライミングといった、これまでとても「スポーツ」として意識されてはこなかったような種目まで、いまどきの同胞アスリートたち、殊にこの「失われた30年」に生まれた新たな若い衆世代ど真ん中なコたちの躍動が、「観客」という夾雑物のない無観客開催の環境で、テレビや新聞・雑誌など旧来のマスメディアだけではないwebを介した実況や動画サイトなどをも縦横に介することで余計にくっきりと、身近に切実に「見えた」。競技におけるパフォーマンスだけでなく、その後の取材やインタヴューへの対応などまで含めて、これまでの本邦「スポーツ」の習い性になっていた定型の縛りから解き放たれたかのような良い意味での自然体で、それこそ「自分の身についたことば」で語ろうとしていた。競技や種目で濃淡はあれ、これもまた開会式・閉会式だけが別の世界で行われていたかのような「格差」がうっかり露わになったこととおそらく関連する、広告資本にドライヴされた組織・団体やメディアの濃厚な閉鎖的環境による仕切りで展開される「興行」汚染から自然体で身をよじって逃れ得る世代感覚の予兆なのだとしたら、それは確かにひとつの「希望」だったと思います。


「スケボーでメダルを取れたというのは、よく街中で滑って遊んでて、怒られてばかり居たようなコが、なんか知らない間にオリンピックに出ちゃってメダルを取っちゃった、ってことだよね」(あるtweetより)

「お国柄が出ている。日本は凄いなと思ったのは選手が伸び伸びしてる。日本がいかに自由でやりたいことができる国だということ。楽しそうに伸び伸びと明るい若者は日本という雰囲気の中でないと、そういう選手は育たない。他アジア選手と違う」(YouTube「李相哲TV」での同氏の発言)

 思えば、「甲子園」の高校野球もかつてはそんなものだったはず。本邦の「運動」――「スポーツ」というカタカナ表記だけがあたりまえになってゆく過程のある時期までのそれらもまた、そういう身近にある若い衆の力、社会に世の中に活力をうっかり与える役回りでもあるようなそういう存在のまぶしいまでの生命力を、凝縮した形で見せてくれるものだったはずです。

 開会式以上にほとんど何の印象も残すことのなかった閉会式の後、海外メディアの中に「今回、コロナ禍の中、日本はよくやった」的な挿話を伝えるものが散見されました。その多くは無名のボランティアや、「バブル」方式と称した選手村と選手たちを隔絶する環境の中でそれでもわずかに垣間見えた本邦同胞その他おおぜいの断片を、印象的に伝えるものでした。それもまた、もしかしたら無観客開催という、いまどきの情報環境からすれば全く相反する方向での縛りのかかった中での、予期せぬ果実として世界に向けて示すことになった「日本の〈いま・ここ〉」だったはず。

 なんだかんだあるけど、どうやらこの日本と日本人ってのはそう悪いものでもないらしい。少なくとも海外の大方からはそういう風に思ってもらえているらしい――それもまた、今回五輪で本邦同胞世間一般その他おおぜいに「見えた」ことのひとつでしょう。


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 「老害おじさん」とひとくくりにされてしまうような存在が良くも悪くも作り、支えてきた戦後76年、そのうち4割近くをすでに「失われた30年」と自嘲的に言わざるを得ないような停滞としてくぐり抜けてきて、さて、この先どのような「日本」にしてゆかねばならないのか。習い性まかせのやみくもな「統合」「一致団結」でもなく、考えなしの赤毛氈で「分断」「格差」を助長する緊縮ネオリベグローバリズムでもなく、すでに眼前に否応なくはらまれてあるズレや違いをまず素直に認識しながら、その上でこれまでと違う文法、異なるありようの「公共」の「まとまり」をどう編み上げてゆけるのか。そのためのささやかな教訓、開かれた教材としてのオリンピックという意味では、もしかしたら今回のTOKYO2020、予期せぬところで意外な徳を積んだのかも知れません。

*1:例によっての草稿段階。ゆえに掲載稿は手入るかもだがとりあえず……210816

*2:さっそく削れとご指示が飛来……( ノД`)

*3:改稿手直し後の掲載版はこちら(´・ω・)つ  king-biscuit.hatenablog.com

「わたしにもできる」ということ


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 「わたしにも写せます」というフレーズを、おぼろげながらも自分ごとの見聞として覚えている向きは、ゆるく見積ったとしてもいまやもう50代も後半以上、まずは還暦超えた年寄り世代ということになるのでしょう。いまどきの若い衆世代の語彙で言うなら、まさに「昭和」の人がた、すでに「老害」呼ばわりされて陰口叩かれる存在になっている世代の記憶ということに。

 1965年、昭和40年のテレビCMのキャッチフレーズ。ブツは「フジカシングル8」。これもまたもはや説明が必要な過去の遺物、忘れられた「動画」記録デバイスになってしまった「8ミリカメラ」の宣伝広告で、のちに堂々参議院議員にまでなった元ヅカガール(これも死語に近いかも)で、当時NHKは朝の連ドラなどでお茶の間(ああ、これもまた「昭和」の死語っぽい)人気沸騰中の扇千景が自ら手にしてにっこり微笑みカメラ目線で訴えるひとこと。記録によればわずか15秒の「尺」で、「見るからにキカイに弱そうな扇千景にそれを言わせ、操作しやすい8ミリカメラというセリングポイントを端的に表現して水際立っていた」などと評される、まずは戦後本邦広告史でもひとこと言及される程度には有名な代物。当時、テレビのスポットCMの単位が30秒から15秒に短縮され、さらに5秒のCMカード――今でも地方のテレビ広告でたまにある「絵の動かない」フリップのことだが、これ一発の広告も解禁されて、「5秒スポット」と呼ばれる一瞬のCM形式が一気に主流になった時期だそうで、「比較的小予算で手軽に周知効果が狙えるとあって新製品や季節商品の発売キャンペーンなどに繁く利用され、1965年に中止されるまでの前後3年間、お茶の間を掃射した」由。この流れを受けて、とにかく視聴者の耳目を集める「見出しことば」、つまりキャッチフレーズの良し悪しがテレビCMの眼目になっていた中、生み出されていた秀作のひとつということになります。


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 まあ、今ならポリコレ基準、フェミニズムだのジェンダーなんちゃらの方面から、女性差別だ蔑視だと速攻で非難中傷雨あられ、たちまち放送中止になるような内容のCMではあるでしょう。実際、これより10年ばかり後、1975年には「わたし作る人、ぼく食べる人」というキヤッチフレーズを擁したハウス食品のインスタントラーメンのテレビCMが「男女の役割分担を固定化するもの」として物議を醸し、すったもんだの末に結局、放送中止に追い込まれていますから、そのデンでゆけば、この「わたしにも写せます」も、少し時期がずれていたら同じような俎板に乗せられ、糾弾されていて不思議はなかったかも知れません。

 ここでのこの「わたし」という主語、直接的には先に触れたような「キカイに弱そうな」「女性・ご婦人方」を表わしているのは明らかです。つまり、そんな「わたし」にでもラクに簡単に操作して、8ミリ映画(当時は「動画」というもの言いはまだ一般的には使われておらず、家庭向け民生用フォーマットの8ミリもまた正しく「映画」の範疇でした)を撮影することができる、というのがそのココロだった。何より、その「わたしにも写せます」の直前には「マガジン、ポン!」という、これも黄色い声(これも要解説な慣用表現になっているかも)によるかけ声が入り、後のカセットテープのようにパッケージ化されたフィルムの「マガジン」を本体に装着するだけで準備完了と、当時すでに爆発的に普及していた家庭向け銀塩カメラの操作でひとつの敷居の高さになっていたフィルムの装填という作業を簡略化するポイントもしっかり強調されていたわけで、何にせよそういう「わたし」という主体であってもなお、それら面倒で厄介な手続きを経ないとちゃんと動いてくれない「機械」を「簡単に」動かせるんだ、という強いメッセージを実にわかりやすく、単純明快に表現していた一編ではありました。


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 「わたし」にも「簡単に」、特別な知識や訓練、稽古を必要とせずに、今すぐこの場で「できる」――思えばこのメッセージは、「戦後」のわれら同胞、いずれ世間一般その他おおぜいの最大公約数的な気分、怠惰で横着で受け身でできる限り上げ膳据え膳、自分自身が汗をかき、手を動かし、手間も暇もかけて何かをするということからできれば身を遠ざけておきたい、というある意味人間本来の隠された欲望にダイレクトに突き刺さるものでした。

 それはさらに「便利」というひとことにも凝縮され、単に仕事や家事の断片的な場面だけでなく、およそ日常のあらゆる局面で時間も労力もできる限り省略する/できるようになってゆくことがとにかく無条件で素晴らしいことであり、それこそが「進歩」であり「新しい生活」のかたちなのだ、といった方向でのコンセンサスを、それこそ家電製品から何から、いずれ市場に大量に出回り売られてゆくようになる商品群のもたらす具体的で否応ない説得力とあいまって、誰もが特にそうと疑うことのなくなる「そういうもの」になるまで作り上げ、あまねく浸透させてゆくことになりました。

 そのような「わたし」とは、単に女性であるだけではなかった。時に子どもでもあり若者でもあり、つまりそれまで〈おんな・こども〉と称されひとくくりにされてきたような、社会的には一人前の主体として正面からとらえられてこなかった存在を、折りから伸長してゆく経済市場がはっきり自覚的にその射程に主体として捕捉し始めたことの表現でありました。同時にそれはまた、ようやく「消費者」という新たなもの言いと共にわれわれの意識に合焦し始めた新たな「われわれ」像、大衆社会化の過程の裡に宿っていったそれまでとは違う「われわれ」の自意識の現われでもありました。

 そのような新たな「われわれ」という自意識は、ひとりの個人である自分という意識の拡張もそれまでとまた違う規模でもたらしたようです。

 有名になりたい、他人に注目されたい、その結果がどのようなものであり、自分自身をどのように変えてゆくことになるのかなど、先行き一般に思い馳せることもなく、ただそうなりたいという欲望だけが一方的に、野放図にふくらんでゆく。そんな「わたし」が「簡単に」できる/なれること、という方向での「夢」や「あこがれ」がひとりひとりの身の裡にうっかりと宿り始めるようになる。流行歌の「歌詞」を作りたい、ということも、それならばこの「わたし」にも「簡単に」できるかも知れない、とその他おおぜいのわれわれがかなりの割合でそう思えるようになったからこそ、戦後の作詞家ブームは支えられていたはずですし、それと同じ時期、 やはりブームになったと言われる社交ダンスや英会話といった新たな「習い事」の類も同じこと。それらは、それまでのような生活上の実利と直線的・単線的に結びついたものではない、まさに「わたし」の「楽しみ」のために選択された営みであり、仮にその結果何らかの実利があるとしても単なる賃金稼ぎ目的の労働ではないという新たな意味が付与されるものになっていました。

 「趣味」というもの言いが、新たに自在な意味をまとうようになっていったのも、おそらく同じ過程です。それは、履歴書の書式に「趣味」という欄が平然と並ぶようになってゆき、そこに書き込むべき事項として「読書」や「音楽鑑賞」「映画鑑賞」などといった語句を「そういうもの」として書き込むことに誰もが立ち止まらなくなっていった過程でもあるはずです。それまではある限られた条件で成り立った「個人」の、まさに「余暇」「余技」のたてつけとしてあり得る営みが「趣味」であり、それは誰もがおいそれと獲得できるようなものでもなかったはずなのですが、ただ、戦後に解き放たれていった新たな「われわれ」は、そのような「趣味」もまた、朗らかにその手の裡に入れていってしまったようです。

 それまでなら「道楽」であり、生きてゆく上での実利に関わらず、何の得にもならないやくたいもない営みとして忌避されるようなものが、それら新たな「われわれ」にとっては当然、開放されるべき「余暇」の充足の仕方として認識されるようになりました。時に応じて好きに唄われるものであった「うた」も、「趣味」のたてつけの中に溶け込まされるようになり、日常のそこここに平然と姿を現わすようになってゆきます。「うた」に必ず伴っていたはずの「芸能」本来の時間と空間の縛りの中に初めて宿り得たような何ものかもまた、そのような道行きの裡に希釈され、その味わいを変えてゆくことになりますが、それもまた少し別の話。話題は具体的なのが一番、なのでまた手にあったところへ戻してゆきましょう。

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 「わたし」にもできるかもしれない――そう思ってうっかりとどこかへ一歩踏み出してしまう契機は、何も流行歌の作詞に限らず、戦後のこの時期、それまでよりずっと身近に手もと足もとに準備されるようになっていたようです。そしてそれは、「広告」という表現がわれわれの日常に、それまでと違う規模と量とで、しかも音や声を介してずかずかと入り込むようになっていった経緯が、どうやら関わっていたらしい。放送媒体としてのラジオ、それも民間放送の開始が大きなきっかけになって、そのような「広告」が日々の日常空間、いわゆる「家庭」の中に流れ込むようになった衝撃は、それまで本邦同胞が育んできた「うた」と「ことば」の作法にも想像する以上に少なからぬ影響を与えた痕跡は、前回触れたラジオCMとある意味隣り合わせ、共に同時代の新たな情報環境を謳歌する立場にあったラジオドラマという表現においても確認できるものです。

 ラジオ放送自体は戦前、大正14年7月から行われていて、後のラジオドラマにあたるような劇形式の表現は放送初期から試みられていました。とは言え、それは歌舞伎の舞台にマイクロフォンを持ち込んだ「劇場中継」のようなもので、後のラジオドラマのようにあらかじめそのために書き下ろされた台本・脚本によって、ラジオ独自の特性を生かした新しい形式の劇(ドラマ)というわけではなかったのですが、ただ、当時からラジオはそれに合った「新しき国民音楽」と「新しき劇」の必要を意識していたようです。音と劇、生身を介した上演の「場」を音声を中心に再編制してゆくという初志。この「新しき劇」が放送劇であり、後のラジオドラマにつながってゆくというのが一応の概史とされています。

「聴覚の世界を以て一つの劇を創造するということは、大きく言えば、全く今までになかった一つの新しい芸術を創造することに他ならない。映画がようやく新しい芸術としての地歩を占めてきたのに同じ区、何等かの形を以て「ラヂオ劇」なるものは、必ず生まれなくてはならない。それには、真にラヂオを理解し、ラヂオを愛し、同時に芸術に愛着と憧憬を持つ人の手によって研究されるべきである。」(大正14年8月11日『日刊ラヂオ新聞』)

 ただ、当時「放送劇」という理解は概ねあっても、呼び方は未統一だったようで、ここに使われている「ラヂオ劇」という表記以外にも、「放送舞台劇」「映画せりふ劇」「ラヂオ風景」「ラヂオ叙情曲」「舞台劇」「ラヂオプレイ」「ラヂオコメディー」「ラヂオドラマ」など実に多様というかバラバラで、このあたり新しい媒体に何をどう盛りつけるべきか、草創期ならではの手探りな感じがなかなか微笑ましくもあります。

 もちろん、この時代はNHK一択、民間放送はまだありませんし、だからラジオの「広告」も存在していない。戦後、昭和20年代に全盛を迎えたと言われるラジオドラマという表現形式が、敗戦をはさんだ環境の推移の中、徐々に整えられてゆく過程で、「うた」がどのような立ち位置を占めるようになっていったのか、そして生身の音と声がラジオという放送媒体を介してどのように新たな表現の形式を獲得していったのか、というあたりの問いなども、この先また少しずつほぐしてゆければと思います。

五輪の「教訓」

*1
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sports.nhk.or.jp
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 おい、マリオやドラえもんどころか、ポケモンもニンジャもアキラのバイクも出てこんかったじゃないか!――終わったばかりのオリンピックのまずは私的な印象です。

 個々の競技や選手の手柄は全部措いておきます。開催する側の仕切りの悪さ、つまり「祭り」なり「興行」なりを取り仕切る勧進元としての器量のなさだけが強烈に印象づけられ、世間一般その他おおぜいの眼にもあらわになったあの開会式と閉会式。つまり、それら勧進元の意図が直接反映される部分と、興行の本体である各種種目や競技、それらに参加する個々の選手たちの見せてくれた上演・パフォーマンスの質との間の、いやはや、もうまるで別のシロモノ、異空間で行われたとしか思えないほどの絶望的な距離感こそが、今回の五輪のある本質だったとしか思えなかったのであります。

 さすがに棚落ち著しい本邦報道界隈も見過ごせなかったらしく酷評含めて取り沙汰花盛りで、「サブカル」偏重といったもの言いが批判的な意味で擁されていましたが、これは正直、的外れ。というのも、そもそも前回リオ五輪の閉会式の東京への橋渡しの段で、当時の安倍首相がマリオに扮してドラえもんの用意したどこでもドアならぬ土管の仕掛けを使って地球の裏側、リオのスタジアムまでまでやってくる、というたてつけで、世界はもとより口うるさい本邦メディア桟敷のわれらその他おおぜいをいたく興奮させ、かつ、ああ、これなら東京でもこの延長線上に相当いいものこさえてくれるんだろうなぁ、という期待を素直に抱かせてくれていた。それこそそれらマンガやアニメ、ゲームなどこれまで「サブカル」と称され、日陰者扱いされてきたものたちこそが本邦21世紀の世界に向けて発信すべき価値あるコンテンツであることを全力で示してくれるに足る仕上がりだったわけですから、問題なのは「サブカル」ではない。批判されるべきはその「サブカル」をリオの延長線上、きちんと〈いま・ここ〉のわれらニッポンのありかたとして本腰入れて自分ごととして扱う器量を、本邦国家規模での興行を取り仕切る現場がこの4年プラス1年で見事に失っていたらしい、そのことです。*2

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 それら「サブカル」と称されてきたものは、戦後の「豊かさ」まかせにうっかりはびこらせてしまったものでした。それらの価値を、われわれ自身がちゃんと認識しようとしてこなかったことのツケは、そのはびこらせたことの功罪含めて何でもかんでも「サブカル」というレッテルを貼ってわかったつもりになる悪弊としていま、露わになった。それは、その「豊かさ」自体についても同じだったでしょう。なぜわれわれは「豊か」になれたのか、それを自前の身についた言葉にすることを怠ってきたのと同じように、「サブカル」もちゃんと語られてこなかった。そもそも「サブ」に対する「メイン」カルチュアは昨今どうなっているのか、そもそもそんなものあり得るのか、殊に西欧の文明から遠い極東の島国においては……などなど、国民国家として世界に存在証明をし続けるのならばあり得べき問いを全部なかったことにしたまま、それこそノリと勢いだけで突っ走ってきただけだったことを、この令和の世になって改めていまさらながらに思い知らされたというお粗末。

 あのリオの閉会式のアベ&マリオの演出が、戦後の高度成長から平成の「失われた30年」を経てなおかろうじて輪郭を保っていた「戦後の生まれ変わった日本」という自意識による最後の、かろうじてまとめてみせたなけなしの自己表現だったとしたら、今回の開会式・閉会式に見られたようなバラバラの、国として国民として統合する気配を何ひとつ感じさせることもできなくなった索漠とした空しさは、「戦後」そのものがもう本当に過去のものになったことの明確この上ない表現であり、だからこれから先はどのように「日本」の輪郭を世界に向けてもう一度、自分たちの手で描き直してゆかねばならなくなっているのかを期せずして国民同胞の眼前に突きつけてくれました。マスの規模でのイベント、興行ごとというのは昔も今も、その程度には教訓的で、残酷なできごとをうっかりと引き出してくれるもののようです。

*1:紙幅の都合で思いっきり舌足らずで概略だけだけれども、とりあえず。詳細は別の機会にもう少していねいに、と……210810

*2:例の演出だのプロデュースの側の現場のgdgdなどもこのへんと関連して改めて考察しておかにゃならんお題だとは思う、いやほんとにかなりマジメに。

広告・童謡・歌謡曲

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 流行歌の歌詞を作るということが、世間一般その他おおぜいにとってのわかりやすい「一発当てる」という夢の依代になっていたこと。特に稽古をしたり、師匠や先生について修行を積んだりすることをしなくても、またそのための特別な道具をそろえたりすることもせず、ズブの素人のいまの自分のままでも「とりあえずやってみる」ことができそうに思えるし、また実際できてしまうらしい――いわばそんな「出来心」程度の発心でそれっぽいことができてしまうというのは、何も作詞に限らず、その他おおぜいの無名の人がたがある方向にうっかり動いてしまう時の、基本的な条件のようです、昔も今も。

 敗戦後の世相の中で「作詞家を志す」というのは、そのように熱いものになっていたようです。またそれは、国民同胞の多くが喰うや喰わずの日々を送らざるを得なくなっていた当時のこと、「とりあえず食い扶持の足しになる」という、今となってはあまり切実に感じられなくなっているような種類の実利実益とも密接に裏打ちされていました。それは、少し引いたところで眺めるならば、同時代の「サークル」運動やその受け皿になっていた労働組合の活動などを支えたような、ある種得体の知れない「熱」とも通底していたはずです。

 そういう意味でも、昭和20年代というのは、妙な時代だな、と改めて思います。
「敗戦後」とひとくくりにされ、そしてまた「焼跡」「闇市」や「混乱の時代」といった別の角度からのひとからげにも巻き込まれて、そこから「朝鮮戦争」「逆コース」などのアイテムをちりばめながら、何となく「もはや戦後ではない」を介して昭和30年代の高度成長へとつながってゆく、いずれそのような理解ですでに漠然とした「歴史」の水準に織り込まれて片づけられるのがお約束らしいその時代、それらのイメージの皮膜の下でどのような日々の個別具体、日常の細部が事細かにうごめいていたのか、そのあたりの手ざわりは案外省みられることは、なぜかあまりないらしい。間違いなくその頃、その時代を生きていたはずの人がたがこの21世紀、令和の世のすぐ横に未だ生きていて、話を聞こうと思えばまだ十分に聞ける範囲の〈いま・ここ〉と地続きのむかし、only yesterdayであるにも拘わらず。

 「うた」と「うたうこと」、そしてそれらと言葉の関係などについて考えてみようとする時にも、この昭和20年代のすでに「そのようなもの」としてある皮膜の向こう側の、当時の〈いま・ここ〉の感触が改めて必要になってきます。


●●
 「うた」をめぐる本邦同胞の意識や感覚のありかたに、実は大きな影響をおよぼしてゆくような、当時のそれら日常生活の水準での変化の中には、たとえば「広告」の浸透が新たな媒体を介して行われるようになったということもありました。具体的には民放ラジオの放送が開始になったこと。その後、もちろんテレビ放送も始まるわけで、いずれそれら電波を介した「放送」媒体がそれまでとは比べものにならない規模と量とで日々の暮らしの中に入り込み、それらを介してそれまでと違う質の言葉や音、映像が否応なく流れ込むようになっていった。いまのもの言いで言えば「情報」とこれまたひとくくりにされてしまうようなものですが、ただそれもまた、事態を何か一枚の皮膜で覆ってしまう効果を持つもので、ここも少し立ち止まって考えてみなければならない。

「1951年9月1日、はじめての民放ラジオ局、中部日本放送(CBC。名古屋)と新日本放送(NJB。大阪)が開局した。当時、民間放送というよりも端的に商業放送と呼ばれるのがふつうだったという。」

 プロ野球が「職業野球」とまだ呼ばれていた時代。戦前からある国営ラジオ放送としてのNHKとは別の、新たなたてつけで創設された放送は、当時の語感としては「商業」放送というのが第一にくるものでした。「商業」つまりビジネスとして行われる放送事業。そのことがどのような想定外の事態をわれわれの暮らしにもたらしていったのか。

「当然コマーシャル・メッセージがはいるわけだが、さぞ騒々しいものだろうという一般の予想を裏切って、提供番組の前後にアナウンスされるだけ、内容もずいぶんと控えめだった。スポットCMもあるにはあったが、当初は数も少なく、さほど目立たなかった。ちなみに、新日本放送のスポット第一号はスモカ歯磨の60秒。ミニ・ドラマ形式が用いられ、作者は京都伸夫という。」(向井敏「草創期のコマーシャルソング」)

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 「商業」だから「広告」が入る、だから当然「騒々しいもの」という連想が当たり前だった。それまでの広告というのはそういうものだと思われていたし、また実際、新聞や雑誌など紙媒体を介した広告とは別に路上、街頭で繰り広げられる広告、それこそチンドン屋や東西屋、博覧会や遊園地、博物館に美術館からそこらのよくわからない見世物の類に至るまでの、今で言うところの各種イベントの猥雑でけたたましい華やかさから、巷の路地裏にまで訪れる各種もの売り、行商たちの売り声、人寄せ身ぶりなどに至るまで、いずれ不特定多数の眼や耳、五官をある意図の下に誘導し、合焦させてゆくような表現は何であれ「商業」であり広告であり、最もゆるやかな意味での広報宣伝であるといった認識は、すでに戦前のある時期から本邦世間には醸成されてきていました。この「騒々しいもの」という表現には、そのような路上的な表現の猥雑さ、いかがわしさも当然、含まれていたはずです。

 けれども、その予想を「商業」ラジオは当初、裏切ってはいた。ラジオという電波を介した放送媒体に乗せるべき「商業」の言葉、広告という目的に即した話し言葉の表現というのがよくわからなかった、だからとりあえず当時すでに確立されていたラジオ媒体における表現形式であるラジオドラマを下敷きにした「ミニ・ドラマ形式」にした、ということなのでしょう。ラジオドラマという形式が、ラジオ媒体に乗せて世間一般その他おおぜいに何か訴える、それも単にある情報内容を伝達するというだけでなく、それに加えて何か具体的な行動を起こさせ得るような方向にココロを、情動を喚起するという「広告」の目的に合致させるものとして、当時最も自然に想定されるものだったことがうかがえます。


●●●
 それは何も戦後に始めて現われた考え方じゃない。戦前、あの帝国陸軍参謀本部においてすでにこのような認識が平然と持たれていたようです。

「一体自我ノ強イノハ宣伝ニハヨクナイ。宣伝放送ヲスル者ノ中ニモ一人ヨガリノ宣伝ガヨクアル。自分ノ云ヒタイコトヲ敵ニ向ツテ放送シテ痛快ガツイヰル如キハ、宣伝トシテハ下ノ下デアル。(…)実際コチラガイクラ熱シテモコチラノ宣伝等ニ(敵が)熱スル筈ハナイノデアル。コゝガ対座スル議論ト宣伝放送トノ異ナル点デアル。」(「対敵宣伝放送ノ原理」1942~3年頃の参謀本部配布のパンフレット)

  「議論」は「対座」で行われるもので、「宣伝」はその他おおぜい不特定多数に対するもの、という区分けが明快です。「広告」というのはこの後者、「宣伝」でもあることは言うまでもなく、ならば当然、そこで使われる言葉や表現というのは「対座」の「議論」とは別のものになる。何かココロを動かし、その結果うっかり生身の行動を促すような方向での言葉や表現。当然、「うた」の出番になります。先のラジオドラマ形式と共に、放送開始早々から「広告」の表現に「うた」も現われています。

 「第一週から早くもコマーシャルソングが登場した。二本あった。ひとつは、小西六写真提供の音楽番組「冗談ウエスタン」で放送された「ボクはアマチュア・カメラマン」。五節から成り、作詞作曲三木鶏郎、歌手は灰田勝彦。(…)もうひとつは、塩野義「ペンギンの歌」。前年四月「民間放送第一声を求む」という新聞広告を出し、ペンギンをテーマとする童謡と歌謡曲の歌詞を募って十数万通の応募を得、当選作をレコード化して放送を待ち構えていた。」


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 この時、世間一般その他おおぜいに向けて募集したのが「童謡」と「歌謡曲」ということに、改めて立ち止まってみてください。結果的には世間に流行することを想定している広告ですから「流行歌」でもいいようなものですが、しかしここでは「流行歌」を募集はしていない。単なる字ヅラだけのことではなく、この違いは案外重要なはずです。なぜなら、「流行歌」はこの場合の広告の目的にあまりそぐわない、少なくともラジオという媒体に乗せる新しい「民間放送」での広告という形式にはふさわしくない、おそらくそう考えられていた。もしもここで「流行歌」を募集していたならば、応募されてくるのはそれこそ前回の「歌謡文藝」に集っていたような歌詞が主体になっていたはずです。でも、募集した側はそのような「流行歌」を「民間放送」での広告に求めてはいなかった。

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 実際、当選したのは次のような作品でした。

 氷のお山ですまし顔/いつも気取って燕尾服/もしもステッキかいこんで/黒いカバンを持ったなら/とても立派なお医者さん/ペンギン、ペンギン、かわいいな


オーロラ輝くその中で/なんとおしゃれな燕尾服/もしもタクトを振りながら/晴れの舞台に立ったなら/とても立派な楽長さん/ペンギン、ペンギン、たのしいな


つららのお花の咲く陰で/ちょいとおどけて燕尾服/もしもサーカス賑やかに/手品つかいをさせたなら/とても立派な紳士さん/ペンギン、ペンギン、うれしいな

 作詞の重園よし雄(贇雄)は広島の中学校教師、すでにこの時、「ひろしま平和の歌」の作詞の公募で当選、それなりに知られていたようですが、それはまた別の大きな話。


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 当時、あの高橋掬太郎の「歌謡文藝」誌に集っていたような、流行歌の作詞家になることに夢を抱いていたような世間一般その他おおぜいの想像力とはまた別の、もうひとつの世間一般その他おおぜい抱いた夢のありかたがくっきりと見えます。「童謡」とひとまず名づけられていたようなジャンルの、「もうひとつの流行歌」の歌詞の系譜。そして、ここもまた見逃してはいけないのは、それは同時に「歌謡曲」という当時まだ目新しかったもの言いと共にくくられているということです。

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 「童謡」と「歌謡曲」は同じハコに入れられるべきもので、でもそれはそれまですでに使われていた「流行歌」とは別の、何か新しい分類基準だった。少なくとも「民間放送」という言い方の「民間」に込められていたような種類の、それまでの「商業」という言い方ともまた違う、当時求められていたような新しさにとって。先廻りして言うならば、その「新しさ」こそが良くも悪くも「戦後」ならではのものであり、その「新しさ」の象徴たり得た「歌謡曲」と、それまですでにあった「流行歌」との相克は、のちの「歌謡曲」と「演歌」という語彙の対立にも、そして商業音楽に限らず「戦後」の情報環境における広義の大衆文化的な表現の場一般においてまでも、広く長く揺曳していったようなものだと考えます。

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 この当選作、平岡照章(「童謡」作曲の名手だったらしい)の手により楽曲化され、放送を介して当時、広く馴染まれるようになりました。事実、僕自身の記憶にもなぜかはっきりある。けれども、それはあくまで「童謡」としてであり、そして「やはりコマーシャルっけはほとんどなく、ペンギンが同社のシンボルマークとして定着するまではふつうの童謡として遇され、NHKで放送されさえした。」つまり、当初のスポンサーであった塩野義の「広告」の文脈でも、その後公式に使われるようになっていったようです。「戦後」の情報環境での「企業」の自意識と、その反映としての「広告」空間のありかたもまた、「うた」とわれら同胞の感覚の来歴と無関係ではなかったらしい。

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