テツノカチドキよ! 砂馬場の英雄よ!


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 いっぱいの陽ざしの中を、テツノカチドキが逃げた。

 大井のメインレースは、四コーナーから斜めに差す陽ざしの中にある。午後三時三〇分。すこしくたびれた太陽めは、ゆっくりと傾き始めている。うしろには、首都高速横羽線の高架が中空を横切って走る。ゆきかうトラックの幌越しに、平和島競艇の「世界は一家、人類はみな兄弟」というありがたい看板が排気ガスにかすむ。

 トゥインクルレースとやらで、ナイター競馬が定着し、平日の真っ昼間からのんびりと競馬にうつつを抜かすという公営競馬の至上の愉しみが、ここ大井競馬場では年に半年も奪われてしまった。だが、その分、秋から冬にかけてゆるやかな陽光の下で開かれる競馬が、それまで以上にいとおしいものになった。ナイター競馬、もって冥すべし。

 球節までもぐってしまう深い砂馬場を、たくましい四肢が蹴立てる。パッパッと、機銃掃射の着弾のような規則正しい砂煙が上がり、馬たちは斜めになってコーナーを回ってゆく。

 東京大賞典は不吉なレースだった。

 名誉と引き換えに、二度と馬場に戻ってこれなかった馬たちがたくさんいる。トドロキヒリュウ、アズマキング、トウケイホープ、トラストホーク、サンオーイ、そしてカウンテスアップ

 厩舎でも、大賞典を勝負する時は、もう後がないという覚悟で仕上げ、使ってくるのが常識だ。暮れの東京大賞典は、馬にとってそれくらいダメージを受ける過酷なレースなのだ。また、だからこそ、挑戦するに足る名誉あるレースなのだ、と男たちは胸を張る。

 「一度でいいから、大賞典使うような馬をやりたいよな」

 馬と共にくらす男たちは、誰もがそう言って眼を輝かせる。



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 その大賞典を、スズユウがちょっとだけ変えた、と思う。

 スズユウは、馬券とのつきあいをさせてはくれない馬だったけれども、「いいシーン」を何回か見せてくれた。ドロンコ馬場の東京ダービー、真っ黒になった単勝万馬券の勝利。関東盃、距離不足と思われた中、一気の差し切り。そして八歳、最後のレース、東京大賞典で、誰もがアッと驚いた逃げ残り。

 明けて一月。引退式の前日の夕刊紙に、広告が載った。

 「最後に笑った馬」

 極太ゴチック体。珍しく調子の高いレイアウトに、スズユウの顔写真。

 「最後まで公営馬で終わるスズユウに、盛大な拍手を」。

 一瞬で眼の前が曇った。市ヶ谷の駅の改札を出たところで、僕は不覚にも立ちつくしてしまった。

 無名のコピーライター。彼もまた、あの平日の午後、大井に通った経験があるのだ、と確信した。

 南関東四場の中では、大井は自由業のファンの比率が多い競馬場だ。明らかにその業界とわかる出で立ちの人間たちがいて、川崎や船橋や浦和のファンとは一風違った雰囲気が特徴だ。

 淡々とパドックを回るスズユウは、アクビさえしていた。実際、スズユウの記憶は、全く気合を表に出さない馬、という印象ばかり。朝の攻め馬でも、A級馬の定刻、他の馬がほとんどいなくなった七時過ぎに出てきては、モックラモックラと駆けていた姿しか思いださない。五〇〇キロを楽に越す巨体。父は決して成功したとは言い難い種牡馬トラフィック。母系はダルモーガン系。あのハイセイコーの近親にあたる。馬力のある一族で、公営競馬ではよく走っている名牝系だが、なにぶん見た目はアカ抜けしない。

 「仕事」という言葉がよぎる。これは俺の「仕事」なんだ――そんなあたり前さで、彼は大井を走り続けた。

 生まれ故郷の牧場では、種牡馬となって帰る彼のために大きな立看板を奮発した。北海道へ帰る日、彼の馬運車には手製の横幕が張られた。ゆがんだ字の「スズユウ号」が誇らし気に風にはためいた。奇しくも、同じく種牡馬となって帰るミスターシービーと同じ馬運車だったことを後で聞いた。中央競馬のきらびやかな三冠馬との帰郷の道中、彼は何を語ってきかせたのだろう。



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 対して、テツノカチドキは、実直な町工場のオジサンである。勤続表彰でももらってそうな、腕っこきである。鼠色の作業服がぴったりと身についた少し猫背気味のゴツイ身体。タバコの匂いのする袖口をめくって、静脈の浮き出た腕をさする――「世間」という言葉に実体を与えたらこうなるんじゃないかと思うような、そんな不器用さが彼にはあった。

 火事にもあった。逃げ遅れた同僚が三頭焼け死んだ。彼も少しヤケドを負った。火の記憶は、その後半年、彼をスランプに陥れた。

 厩務員も代わった。前の厩務員は彼の稼いだ金で夜逃げをした。新しい厩務員は若くはないが、目立たない男だった。泥沼のような彼、テツノカチドキのスランプは、その厩務員のウデが悪いからだ、と取りざたされた。夕方の厩務員食堂、仕事上がりのほどけた空気の中でも、彼はいつもうかない顔をしてビールを飲んでいた。彼は休日返上で、ロクに食事もとらずにカチドキに尽くした。そして七歳の春、もうダメだと言われる中で大井記念を勝った。その夜、彼は馬房の前で、泣きながら一晩呑み明かした。

 出張にも行った。三年前の夏。地方競馬招待競走福島競馬場の芝 一,八〇〇m。スズユウと一緒に出かけていった彼は、持ったまんまで中央の二線級オープン馬を切って捨てた。レースの後、福島までついてきた公営ファンなのだろう、感極まった「タケミ!」の声に、彼も、彼の背中の竹さんも、照れ臭そうに、それでも「あたり前だよ」というふうに苦笑いしていた。大井では考えられない報道陣のフラッシュの放列の前、その日いつも着なれた勝負服を着せてもらえなかった竹さん同様、彼もどこか居心地悪げに遠くを見ていた。

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 大賞典のレース後、竹さんが言っていた。

 「今日は、本馬場に出てから機嫌がよくなってネ」

 パドックから坂をおりる。トンネルをくぐり、スタンドを右手に見ながら本馬場への入口にかかる。彼の眼には、ぽかぽかと暖かい冬の陽ざしが映った筈だ。逆光に映える直線コース。ハローでならされたいく筋もの粗い砂目。丸い眼球にさかさまに映った競馬場。五九回目の本馬場入場

 そして、英雄が生まれた。

 もう、人気はなかった。若い馬の華やかさが、大井のファンの視線を奪っていた。

 「カチドキのジィさんじゃねぇ……二年前なら文句なし太鼓判押しちゃうんだけどさぁ、もう、ちょっと勝つまではシンドいんじゃないかァ?」

 予想屋たちも、今日の彼に重い印はつけにくいようだった。

 「二年前のおおとり賞、この大賞典のトライアルね、覚えてる人いるかなあ、竹見おろして見習いだった鷹見を乗っけて出てきたんだよな、で、野郎大きく出遅れやがってさ、バッカ野郎、さては大山のテキ今日は一発ヤラずだなあって思ってたら、なんのこたぁないよ、向こう正面から一気にまくってっちゃって、ほんでそれっきり、ブッちぎって勝っちゃってねえ、なんてまあ強え馬なんだろって思ったよ、鷹見はなんもしてねェよ、馬が「このコースはこう乗るんだぞ」って教えたようなもんだ、あん時ならオレが乗っても勝ってるよ、いや、まあずおっどろいたねぇ……」

 きれいなスタート。スタンドの前、ゆっくりと、彼は外側から馬群をかわして先頭に立った。ムリはしていない。いつものように、毎朝走り続けた攻め馬のあの調子で、彼は先頭で一コーナーを回った。

 高橋三郎の四歳馬チャンピオンスターが、ちょうど追いすがる他馬からテツノカチドキをガードする形になった。壁のように、サブちゃんは自分の馬をカチドキの後ろにつける。

 向こう正面から三コーナーへ。セオリー通りピッチが上がる。後続馬にステッキが入る。竹さんの手はまだ動かない。スタンドに静かなざわめきが広がってゆく。テツノカチドキ……カチドキ……テツノカチドキ………テツノカチドキ……!

 あのテツノカチドキが先頭で四コーナーを回る。たくましい脚が砂を掻き込んでゴールを目指す。二番手、早田秀治のストロングファイタが首を上げて苦しがっている。カチドキが駆ける、駆ける、駆ける。四肢が気持よさそうに伸びて、尾が後ろにたなびいてゆく。まるで攻め馬のキャンターののびやかさで、彼は、彼にとっては庭のような大井の馬場を走ってゆく。

 普段、他人の馬の勝ち負けには冷淡な厩務員席に、この時ばかりはうめくような歓声が上がった。スタンドとシンクロナイズする、ある想い。ゴールした竹さんは、軽く左手を上げて、一コーナーの曲がり鼻、テラスのように突き出しているそこへ向かって挨拶を送る。右から左へ、気持ちよさそうにテツノカチドキが通り過ぎてゆく。

 強いもの、文句なく強いもの、素晴らしいものへの称賛と、敬服と、あこがれが、厩務員たちの視線に宿る。その背後、本部棟二階の調教師席にも、また。誰もが、いつか彼のような馬を手掛けたいと思い、彼のような馬と共に仕事をできる幸運を渇望する。

 砂馬場の英雄を、競馬場はまた記憶に刻み付ける。どこかの厩舎の片隅で、厩務員食堂の語らいの中で、語られるに足る物語として、「大賞典を二度勝った馬」テツノカチドキは、おそらく、男たちの神話になる。



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*1:福島の地方競馬招待時のテツノカチドキ佐々木竹見

*2:手作り同人誌or個人誌『らく』創刊号の原稿。

*3:スズユウ&石川綱夫