ある競馬ウマのこと


 ある名もない競走馬の話、である。

ソリダリティ(アア)牝 12歳 鹿毛 2002年4月12日生まれ。
父レオグリングリン、母オリビアン、母の父ファストセンプウ。
戦績125戦30勝。2着24回3着14回4着7回5着8回着外42回。連対率43.2%。
所属競馬場……福山〜高知〜福山〜高知〜荒尾〜福山
福山42戦 10-7-2-23
高知50戦 15-10-7-18
荒尾31戦 5-7-5-16
合計125戦 30-24-14-57
獲得賞金5,944,000円。

「アア」、つまりアングロアラブ。少し前までなら競馬新聞の馬柱の隅、血統欄に小さく付けられたりしていた表記。サラとアラブの混血で、アラブ血量25%以上の馬に対して使われた呼称。俗に「アラブ」と呼ばれ、サラとは別の番組、別の編成で同じ競馬場に共存していた馬種。今や昔話にしかならなくなった。

 どうせそんなのまた、ほら、地方競馬だけのことでしょ、と思ったそこのあなた。違うよ、地方競馬だけじゃない。JRAにだって立派に走ってた。重賞だっていくつもあった。午前中の数レースはアラブと障害、というのが今のオトナの大方がなじんできた中央競馬だった。アラブはなくなった。障害はまだある。

 ニッポンの競馬、少なくとも敗戦後、戦前の日本競馬会が中央競馬会に再編され、高度経済成長期の「豊かさ」を介して誰もが馬券を楽しめるようになり、いまのような隆盛を迎えるに至ったわれらが日々接している競馬の地続きの歴史の、そうだな、ざっくり言ってその半分くらい、日々の仕事としての競馬の底辺を黙って支えてきた競走馬たち、なのだ。

 でも、もう競馬場からは姿を消した。競走馬としての番組はなくなり、生産もまた事実上終わりを迎え、せりでも庭先でも競走馬として取引されるアラブは日本からいなくなった。これから先はただ静かに歴史の向こうに消えてゆくしかない、そんな存在。
だが、この馬はまだ競走馬登録を抹消はしていないらしい。だから、書類の上ではまだ現役、どこかの競馬場の厩舎に入厩し、調教を積み、体調を整えた後に競馬に出走することができる、そんな身の上ではあるのだ、とりあえずは。

 とは言え、去年の9月からもう一年、競馬はしていない。 

 最後のレースは9月22日、福山競馬場第3競走はC2三組C3混合、六頭立ての六着。またがったのは「スーさん」周藤直樹騎手。今は大井の小林トレセンで厩務員をやっている。もちろん、まわりはすでにサラブレッドばかり。それでもいつものようにスタートから軽くハナ切ってゆき、でも三角過ぎから一気に後退、直線ヤネもムリせず流して勝ち馬との着差2秒半。その前も九頭立ての九着、さらにその前春先も五着、四着と、結局去年福山での四戦全て結果を出せないまま。長年の競走生活、特にその前の年、荒尾で年間3勝もさせてもらった影響もあったのか、右前脚にちょっとした不安を見せていたこともあって厩舎と相談、思い切って休養に出したのだけれども、その間この3月に福山がつぶれてしまい、戻る競馬場がなくなってしまった。仕方なくそのまま今もまだ、休養先のその牧場に身を寄せて、さてこの先どうしたもんか、と身の振り方を案じている。

アラブを競走馬として受け入れてくれる競馬場は、基本的にもうない。どこの競馬場に尋ねてみても「アラブはもう……」と口を濁す。

 なぜ入れないのか。血統書もついて競走馬登録もちゃんと受けてて、能力だって一応の水準にあるのならサラと同じ軽種馬の競走馬として扱ってくれていいはずなのに、競馬場に入れないその理由が納得のゆく形できちんと示された試しは、これまでない。「時代の流れ」「ファンの要求」せいぜいそんな漠然としたもの言いでだけその場を取り繕おうとするのが関の山。われらがニッポン競馬ははっきりした理由を示すことのできないまま、いや、もう少し正確に言えば、表立って理由を示すことのできない何らかの含みもオトナの事情とやらで呑み込んだまま、少なくとも戦後半世紀あまりの間、長らく乏しかった競走馬資源のほぼ半分を下支えし、生産地にも貢献し、なけなしの財布はたいて競走馬を持とうと思ってきたそこらのビンボな馬主たちにも夢を与えてきたこのアングロアラブという競走馬を、情け容赦なく忘れちまった。

 わずかに、高知と北海道の門別だけが、受け入れてもいいという返事をくれている。だから、まだ現役を本当に続けるつもりならば、高知か門別、どちらかの競馬場の厩舎に入るしか彼女に選択肢はない。けれども、当年とってもう12歳になる牝馬。まして120戦以上もして「走行距離」もかさんでいるし、何より脚もとがどこまで復調してもう一度、実戦に耐えられるようになるものか。

 おい、まさかまだ、競馬さす気やないやろなぁ。冗談交じりに、でも心底親身になってくれつつ、呆れながら訝りながらやさしく諭すような口調で、これはその休養先の牧場の専務。脚もとの方も今は何とか治まっとるけど、正直これ以上ようはならんと思うし、またちぃとでも早いところ(調教で)やったら(症状が)出てくる思うよ。

こっちもなあ、ずぅ〜っと面倒みとろう、そうすっとなぁ、情がわいてくるんよ、もうなあ、こんところバァさんまるでのんびりしてもうて、こういうの見とるとなあ、またもいっぺん戦場送るいうんはさすがにもうなぁ………

それ以上はうまく濁して言わず、でもつまりは「やめといた方がええよ」と言いたいことはどう聞いても明らか。いずれ親バカちゃんりんの標本みたいな馬主の思い込みや勘違いにもそういう具合に時に応じて歯止めをかけてくれる、そんな真情もまた、うまやもんのもの。

 確かにそうだ。この春、顔を見に行った時も何かもう脂っ気が抜けた感じだったし。競馬あがりのアラブもサラも、乗馬とホースセラピーも引き受けてる全部で十馬房ちょっとの小さな牧場、それらの仲間と混じってゆったりのんびり放牧の日々をもう一年近く、パドックで日向ぼっこしている姿からは、競走馬としてもう一度戦う気持ちなんざどこかにやっちまったようにも見える。なにせほら、顔つきからして競馬場にいた頃とはどことなく違ってるし。
 
 一昨年の暮れ、九州は荒尾競馬が「廃止」になった。その時、彼女は荒尾にいた。荒尾にはまだ六頭、アラブが残っていた。ほとんどはそのまま現役を引退、競走馬登録を抹消したが、彼女だけは福山に移籍して現役を続行した。その福山にもまだ数頭、アラブが残っていた。13歳まで頑張っていたモナクカバキチや、最後の現役アラブとして紹介されていたレッツゴーカップの名前は、少し濃いめの競馬好きなら雑誌その他で眼にしたことがあるかも知れない。だが今年の3月、その福山競馬もなくなった。これで日本で現役のアラブ競走馬もいなくなった、と、競馬場廃止の報に彩りを添える形で、全国紙も含めた新聞その他でささやかに報道されもした。わずかに残っていたアラブたちも、他のサラブレッドともども、定めに従い福山の厩舎から静かに去っていった。
けれども、ソリダリティは競走馬登録をまだ抹消していない。つまり書類上はまだ、現役の競走馬。正真正銘、日本で最後のアングロアラブ競走馬、ということになる。

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 ひょんなことから、この彼女の面倒を見ることになった。それは、伊藤昭次さんとのおつきあいからだった。

 日高にある時期、続々出現していったアラブ生産者、その中でもひそかに「わらしべ長者」と呼んでいたリーダー格の、そのひとり。こちとら勤めていた大学を辞めて地方競馬の現場三昧、今世紀に入る頃からあちこちでつぶれ始めていた小さな競馬場に頼まれもしないのに駆けつけては及ばずながらつっかえ棒をしてまわるような日々を送るようになっていたのだけれども、そんな中アラブとのつきあいも長くなり、伊藤さんとも知り合うようになった。

 なぜ、「わらしべ長者」なのか。たまたま一頭のアラブと出逢ったことをきっかけに、昨日までの零細農家がみるみるうちに大きな牧場になっていった、そんな日本むかしばなしのような「おはなし」が現実のものになった、その主人公のような人たちだったからだ。

 70年代、稲作の減反政策で、競走馬生産に走る農家が増えた。当時は空前の競馬ブームが盛り上がり始めた時期、馬でさえあれば飛ぶように売れた。減反でつぶした田んぼを牧草地や放牧地に転換して繁殖牝馬を一頭か二頭、農作業の片手間に養ってみる、そんな「馬産農家」が日高界隈、それも浦河や静内といったすでに馬産地として歴史を重ねていた地域よりもむしろ門別や三石など、どちらかというと農業主体だったところに一気に増えた。とは言え、いきなりサラブレッドじゃ敷居が高い。手間もかかるし扱いも難しい。何よりカネがかかる。ならばとりあえずはアラブから、というわけで、それら新たに参入した農家は手に合ったアラブから馬産を始めるのが普通だった。
 
 アラブは血統が間違いない、上が走れば下も必ず走る、同じ繁殖牝馬でもひと腹から走る仔が一頭でも出れば上出来なサラブレッドと違い、兄弟姉妹ほぼクズを出さずに走ってくれる、そう言われていた。だから、走る仔に当たればタネ馬に、牝馬なら繁殖にすればそこから芋蔓式に繁栄してゆく。初期投資も少なくてすみ、手間もかからず、半農半馬のシロウト生産者でも何とかなるアラブはありがたい馬種だった。

 馬主にもありがたかった。地方競馬の賞金が、今からすると信じられないほど高かった。大井の全日本アラブ大賞典や園田の楠賞・全日本アラブ優駿など、全国区の一発勝負になれば平然と一着数千万円、今のJRAG?級の賞金がかかっていた。サラより安く買えて地方競馬で一発勝負をかける。サラはすぐ壊れるし調子も崩す、そこへ行くとアラブはなんぼでも使えるしムリもきく。タフでこわれにくく使い減りもしないから、出走手当で何とかまわしてゆくこともしやすい。地方競馬の馬主になるようないずれ地元のダンナ衆の多くは、そんなアラブと共に小さな競馬を支えていた。「アラブカネ持ち、サラ貧乏」というもの言いも決して大袈裟でなく、生産者から馬主、そして多くの地方競馬の厩舎に生きるうまやもんたちにとっても、この上なくリアルに切実に響く時代が、そんな小さな素敵な競馬がかつて確かに、この国にあった。

 伊藤さんもまた、70年代初め、ハイセイコーと同時代、中央でサラすら蹴散らし、その後大井に転戦して暴れ回った「アラブの魔女」イナリトウザイとの出会いをきっかけに、一気に有力牧場にのし上がっていった。イナリトウザイの子どもたち、キタノトウザイ以下みんなよく走り、牝馬は良い仔を出して繁栄した。知り合った頃にはすでに高齢だったイナリトウザイは、いつも放牧地でその年に生まれた当歳っこたちの面倒を見る乳母のような役回りを果たしていた。歳は食って背中は垂れていても気の強い精悍な、毅然とした顔つきのバアさん馬だった。99年にはNARの特別表彰馬にもなった。

うらぁこの馬にオトコにしてもらったんだから、死ぬまで面倒みるんだ。

 伊藤さんのその口癖の通り、彼女は二十歳近くまで牧場で生き、老衰で亡くなった。

 そんなアラブが「国際化」の趨勢に押されて衰退し始めていた。

 95年にJRAがアラブ番組を廃止、それだけならまだしも地方競馬までが南関東は大井を筆頭に軒並み右へならえ、でアラブ廃止に走り始めた。96年に大井、そしてその他南関東三場(川崎、船橋、浦和)も追随、2000年に岩手と当時の北関東三場(高崎、足利、宇都宮)が、翌01年からは中津や三条に始まる地方競馬の「ドミノ倒し」、悪夢のような廃止コンボが始まり、そんな荒波の中、何とか存続を維持していた笠松や園田、佐賀や荒尾などの競馬場たちも、続々とアラブの新馬入厩を停止していった。

 今振り返って見ても、その根拠や理由はあいまいなまま。「時代の流れ」「国際化」という雰囲気や空気一発で、深く考えたり省みたりすることもなく、ただ横並びに雪崩を打っていったという印象だ。

 競馬場に馬房がなくなれば売り先がなくなる。当然生産も減る。みるみるうちに「アラブはもうダメだ」という空気が生産地までも覆ってゆき、もともと半農半馬な兼業農家だった来歴の生産者の多い悲しさ、何とか馬で頑張ろうという工夫も気力も出にくいまま、先を争って繁殖牝馬を淘汰するようになる始末。
 
 そんな中、「わらしべ長者」の伊藤さんたちは、アラブの存続を仲間たちと共にずっと訴えていた。だが、JRAと農水省を中心としてニッポン競馬に責任ある人がたの思惑とそれらの作り出す流れには抗し難く、仲間もひとり去りふたり退き、日高のアラブ生産は先細りになる一方だった。

アラブの灯が消えたら、うらも牧場辞めるわ、なんもかんも全部売っ払って銀行に借金返して、あとはかあさん(奥さん)と静かに暮らすわ。

 口癖のようにそう言っていた伊藤さんだったが、門別デビューからJRAへ転戦、G?毎日杯を制してダービーにまで駒を進めたタカラシャーディーを出したのを最後に体調を崩し、この世を去った。そのタカラシャーディーの兄は七戦七勝、無敗のまま大井のアラブダービーを制して引退、種牡馬になってからも良い産駒を輩出して伊藤さんを「わらしべ長者」にのしあげた一頭、アラブのナイスフレンドだったのだが、しかしそのことは、当時活躍するタカラシャーディーに関する記事や報道でも、ほとんど触れられないままだった。


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 ソリもまた、そんな伊藤さんの手にかかっただけのことはある、筋の通った一族だった。

 祖母のマルゼンセンプ自体、あのマルゼンスキーをかけたアラブで、橋本善吉氏名義で園田で一戦しただけで引退、繁殖入りし後、期待通りにダイコクファミリーやミスターオリビエなど全国区の強豪を産んだ、まずはアラブの名牝。母オリビアンは彼らの姉にあたる。また、同じマルゼンセンプの子でオリビアンの全姉ミスオリビアンはというと、妹と同じく兵庫で走った後、繁殖にあがってから高知にかつてあったアラブ重賞マンペイ記念馬アポロスイセイを始め、福山の強豪ユノエージェントにメイユウオライオン、葦毛の女傑ギャラクシアなどを輩出、さらに近親にユノフォーティーン、南関東でアラ系のままサラ相手に活躍したエビスセンプーやブルーマルゼンなど、いずれ活躍馬が兄弟姉妹近親にはずらりと並ぶ。

 父はレオグリングリン。山形は上山競馬場に90年代に出現した全国区の大型快速アラブ。東北・北陸では当時敵なしで、年末の全国区頂上決戦、大井の全日本アラブ大賞典でも船橋のコスモノーブルの2着に突っ込んできた。種牡馬になってもマリンレオグリーンジャンボなど、アラブ競馬の最末期に名前を売った馬たちの父親として気を吐いた。次世代アラブ期待の種牡馬だったはずだが、すでにアラブの終幕にさしかかり、2002年の産駒は記録によればすでにわずか19頭。ソリはそのうちの一頭だったことになる。

 何にせよこの血統だけでも、もしアラブ競馬華やかなりし頃なら間違っても手もとに来るような馬じゃない。それが時代のいたずら、伊藤さんが急逝して引取先が見つからないまま残されていた残っていたアラブ当歳の一頭に。ええい、これも何かの縁、いろいろおつきあいさせていただきお世話にもなった伊藤さんの、その手のかかった最後のアラブ、もし行き先がないのなら及ばずながらひとつ、面倒見させてもらえないだろうか。

 ソリダリティ――「連帯」の競走名も、アラブでひと時代を築いた伊藤さんやその他「わらしべ長者」な人がた、そして彼らのまわりで共に小さな競馬を支えてきたアラブ生産者の人がたのアングロアラブという馬種への想いを込めたつもりだった。

 馴致育成も、元道営の厩舎出身で伊藤さんのもとで長年仕事をしていた人の牧場で、共に行き先のなかったイナリトウザイの直孫の牝馬と仲良く二頭で育成してもらった。体格もその頃はソリの方が小さめで性格もおとなしく、いつもそのもう一頭について歩いていた。共に福山に行き、新馬戦まで共に走ることになったのだが、当時のソリにしてみれば姉さん格みたいなものだった。

 福山では番園厩舎。競馬場へ入った頃は慣れぬせいかカリカリして、結構みんなを手こずらせていたという。人間に対してはいいのだけれども、うまやを出て他の馬がいる所に出ると途端にテンションがあがる。引き運動であの福山の小さな厩舎まわりで大暴れをやらかし、よその厩舎の軒先に突っ込んだことも。結果、そこにあったプレハブの倉庫をひとつ壊して番園師、ひらあやまりにあやまりに行ったとか。

 「ふだんはおとなしいしええんですけど、何かあったらどうなるかわからんようなところがあって……正直不気味っちゅうか、乗っててもちぃとこわいところあります」と、これは当時厩舎の主戦でデビュー以来乗ってくれていた「サコちん」峪畑雄一郎騎手の当時の弁。元は益田競馬場の若手だった彼は備後なまりの上書きされた独特の口調。良い方向に出れば底を見せない能力がありそうで、でも自分じゃおっかなくてそれをうまく引き出せない状態なんですわ……

 レースに行っても、持ち前のスピードの違いでハナに行くのは当初からだが、道中まわってきて直線にかかるとめいっぱい追ったりしにくいように見えていたのは、どうやらヘタにスイッチ入れたりすりゃどこかにぶっ飛んでゆきそうな気配を感じていたから、らしい。確かに、牝馬にしては500?近く、ガタイも大きいしどこか表情も乏しい。なんかいつも憮然としているような、とっつきにくい体育会系のジャージ姿のおねえちゃん、そんな印象がその頃のソリだった。


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 デビュー戦は04年の暮れ12月18日、福山第一競走。距離800メートルの八頭立て。育成からずっと一緒だった姐さんショウハイママと同じレース。二番人気だった。

 ゲートの出はいまひとつよくなかったけれども出たところから馬なりでスッと加速、日本一小回りな、まるでジムカーナのコースのような福山の、しかもわずか800メートル戦のこと、全力で逃げる一番人気プッチファイターめがけて三コーナー手前くらいからはじけるように一気に追い上げ、めいっぱい追う相手を四角から直線にかけて馬なりで交わしてそのままゴール。日頃クールな番園師が、よっしゃ、と言わんばかりに軽く右手で小さなガッツポーズを決めた。

 鞍上サコちん曰く、気づいたらゲートが開いてて何となく出たけれども、ふと気づいたら前に馬たちが。なによあんたら、あたしの前を行くんじゃないわよッ といった感じである地点から猛然とエンジンがかかった由。800メートル49秒ちょうどの走破時計は、その潜在能力の片鱗を示していた。

 その後四戦、スピードの違いを持てあましながらのレースぶりながら三勝、二着の惜敗二回。3月の二歳牝馬の重賞クイーンカップでは大いに期待されていたのだけれども、好事魔多し、追い切り後に熱発してしまった。西脇にええクスリがあるんやが今からクルマでとりにゆこうか、とまで番園師は言っていたのだが、まあ、先もある若馬のこと、ここはムリせずスクラッチに、ということで、主戦サコちんが当日、何とも言いようのない悔しさのにじんだ顔でレースを眺めて、絞り出すようにぽつり。
「(出とりゃ)勝っとりましたわ……」

 夏に、事件が起こった。福山競馬が名義貸しにからんで刑事事件に見舞われたのだ。現場で見聞きしていた感覚では、どうしてそれがいまさら事件に、だったのだが、番園師は免許を剥奪され、馬たちもそれぞれ他の厩舎に移籍することになった。とは言え、厩務員その他スタッフはほぼそのまま。新たに徳本厩舎に転厩してもソリをめぐる環境は基本的に変わらなかった。秋には福山三歳牝馬特別を二着。その間も出走すれば必ず上位3着以内に食い込む安定ぶりだったが、デビュー以来使い詰めのせいか体重が戻らなくなり、体調もいまひとつだったので、休養がてら高知に移してみることにした。

 高知では雑賀正光厩舎。今や年間290勝、地方競馬の調教師年間最多勝のレコードを塗り替えた全国区の名伯楽だけれども、当時から全国で最底辺、言い方は悪いが瀕死の状態で何とか経営を維持する高知の競馬を事実上、支えていた。これも地方競馬あるきの中、すでにおつきあいさせてもらっていた縁。まあ、こっちでちょっと立て直してみるさかい、具合ようなったらまた福山にでも戻したらええわ。雑賀師からそう言ってもらい、何より高知の環境も良かったのだろう、福山当時のカリカリしたところがいい感じに抜けて、以前より素直に競馬をするようになった。07年の年明け元日のアラブ重賞、高知市長賞にも赤岡修次騎手で出走、当時最強だったエスケープハッチなどと一緒に競馬もさせてもらった。

 もうええと思うよ、具合もようなっとるし、またええ競馬でけると思うよ。そんな言葉に送られて、再び彼女は福山へ。今度の厩舎は胡本厩舎。厩務員上がりの地味な調教師で、とにかく仕事一筋。もう何年も競馬場の三コーナーから先にはまず行ったことがない、という根っからのうまやもん。ところが彼女、どういうわけか全く走らなくなった。体調はどこも悪くない、脚もとに何かあるわけでもない、当時ずっと乗ってくれていたのは福山のトップジョッキーのひとり渡邊博文騎手、今は佐賀で頑張っている彼もまた競馬のたびに、なんで走らんのかわからんのよぉ、と真顔で首をひねるばかり。胡本師の小さな娘さんがいたく気に入ってくれて、ソリかわいい〜、となついてくれてたんだけれども、今から思えばそれくらい競馬に向かう気持ちがなくなっていたのかも知れない。

 とにかく半年間見事に鳴かず飛ばず、着すらとれずただ回ってくるだけ、のような気のない競馬を続けていた。ハナ切れるスピードは相変わらずだし道中もスムース、ただ、何かに交わされたりするともうそれでフーッと気合いが抜けたようにそれ以上走らなくなる。あ、今日はもうこれでいいんでしょ、という感じであとは流すばかり。

 気分転換、転地療養といった意味も含めて、再び高知に戻すことにした。センセ、すまんけど全く走らんようになっとるんでまた面倒見たってくれる?と雑賀師に頭を下げた。なんでやろなあ、たぁだ勝てるような状態にして戻したつもりやったんやけどなあ。

 結果的に、彼女は高知の方が肌に合ってたのかも知れない。いきなり復調した。アラブA級編入も二着、前年に続いてまたアラブ重賞の高知市長賞にも出走。年明けからは高知でもアラブ番組がなくなり、サラとの混合レースになったけれどもC級編入だと彼女には余力だったらしく、デビュー当時のような安定した成績を残すようになった。

 サツキちゃんというオンナのコの厩務員がいたくソリをかわいがってくれた。ここでもまた、ソリかわいい、だった。高知なまりの「かわいい」は語尾下がりにゆるい。施設から競馬場にやってきた苦労人と聞いていた。最初はぽっちゃり系で動きも鈍かったのが、うまやで働くうちにカラダも絞れ、表情なども豊かになり、ソリと共に輝くようになっていった。馬が良くなれば人もまた良くなる。

 パドックで周回する際、馬体を思い切り寄せてくる癖があり、体調が仕上がった時などは屈強な若い衆が担当でもいつも周回で苦労していたのがこの頃からそういう素振りも見せなくなっていった。トシ喰って衰えた、というより、落ち着いた、という感じ。競馬は競馬で月に二回まわってくるけれども、そしてそこでも能力だけは走ってくるけれども、日々の暮らしには別に不満もなく、こういうもんかな、という貫禄が見えるようになっていた。最初の高知の時、真夏の暑さにヘバって眼のまわり真っ黒にしていたのも、以降は慣れたのかそれなりにやりすごせるようになっていた。

 それでも、秋から冬にかけてが一番調子がよかったようだ。毛艶も良くなり、筋肉の弾む感じも冬場の斜めに当る陽射しの中で最も映えていたように思う。元日の高知市長賞、アラブ重賞として最後の二回に出走させてもらえたこと、平場のA級戦でエスケープハッチに勝ったこと、がこの二回目の高知での思い出になった。

 30勝のうち、高知時代の赤岡騎手と中西騎手であわせて11勝をあげている。最初の高知が赤岡、二回目が中西という感じの主戦になっていた。

 初めて赤岡騎手に乗ってもらった時、先にハナを叩かれて二番手追走のままタレて七着だった。あがってきて赤岡騎手が「このウマの乗り方、わかったような気がする」と雑賀師に言っていた由。実際その後、二、三番手に控えた競馬でA級特別でもすんなり2連勝した。あれって何だったの?と後で尋ねてみたのだが「企業秘密」と笑って教えてくれなかった。ただ確かに、他の馬に先に行かれたり、道中出入りが激しくなって交わされたりしても、以前のように気を抜くようなタレ方をしなくなっていた。

 中西騎手だと、それがさらに顕著だった。

 二度目の高知はその前、福山で一年近く鳴かず飛ばずだったおかげでクラスが一気にさがり、年明けからサラとの混合編成になっていたとは言え最下級のE級スタート。その分相手関係がラクだったせいもあるのだろうが、ハナ切ろうが二、三番手になろうが道中ゆるめないで推移、ペースがあがったり他馬がからんできたりしそうになると、そのたびに細かく気合いをつけて彼女が気を抜いたりしない、できないように適度に刺激をつけていた。おそらく、馬自身がなまじ賢い分、乗っている騎手を見て自分の力を出し入れするようなところがあったんだと思う。だからナメられない、馬に手の内を読まれないだけのタフなシバき方をわかっている地元名手のふたりが結果を出してくれたんだろうと思う。中でも、本質的にあたりのやわらかい赤岡騎手よりも、さらに硬派で剛腕系な中西騎手と彼女、最も手もあってたんじゃないだろうか。


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 二度目の高知で1年ちょっと、最下級のE級からB級までクラスがあがるとサラ相手ではさすがに厳しくなった。

 そろそろ天井やと思う、使った数も数やし。雑賀師のすすめもあり、新たな行き先を考えることになった。福山に三たび、という選択肢も自然にあったけれども、どうもあのガタイや走りっぷり、性格などから福山の環境じゃない方がいいのかも、と思い、さて、他の競馬場は、と考え、中津競馬の廃止騒動の時、一年ほど現場でつきあわせてもらった縁をたどって、荒尾の厩舎を紹介してもらった。もともと中津と荒尾は行き来のあった競馬場。中津から騎手その他も移籍している。新たな行き先は福島幸厩舎。地元生え抜きのアラブ、コウザンハヤヒデで園田の楠賞を無敗で制した、自身ノリヤクあがりの誠実で腕利きのセンセイだった。

 2009年の4月、8歳の春に高知から荒尾に積んで、厩舎で半年ほどのんびりさせてもらった後、そろそろ使ってみま〜す、という地元なまりの電話で11月から競馬に。ところが、今度は先行力が落ちていた。ハナどころか前へも行けない。スタートしてただそのまま馬群について回ってくるだけみたいな競馬。いや、年が明けたらクラスが落ちますから、と慰めてもらっていたものの、一気に最下級まで下がっても同じような競馬が続き、致し方なく再び在厩のまま年明け1月末から休養状態に。

 さすがにもうトシだしなあ、こりゃもう限界かもなあ、と半信半疑の十ヶ月休養の後、11月にようやく使い出したところが、今度はなんとポン勝ち。12月には3回使いで大晦日にまた1着。なんだ、まだ大丈夫じゃないか、復活したじゃんオバさん。

 ああ、馬ってこの歳になってもまだ成長するんだ。例によっての親バカ、馬主目線の偏りと笑ってくれていい。でも、たとえ日本の最末端の地方競馬、旅路の果てのやさぐれた馬たちばかりが寄り添いながら何とか競馬をしていた、そんな場所でも彼女はまだ、競走馬として生まれた自分の速度、自分の間尺で与えられた環境になじみながら、自分の中に残っていた可能性を探り当てながら、なお少しずつ広げ続けていた、そう思う。

 縁あって再び首輪のついた身になり、それまでのように勝手気ままに競馬場に赴いたりできなくなっていた分、webを介した小さな画面と調教師との電話のやりとりくらいでしか普段の彼女の様子を知ることはできなくなっていたけれども、たまに訪れた時の様子でそのそれなりのシアワセぶり、は伝わってきていた。

 地方競馬には、マチの競馬場とイナカの競馬場がある。馬場や収容人員の違いじゃない、賞金水準や在籍馬の強さ能力でもない、福山や高知、荒尾はその最も良い意味でイナカの競馬場だった。かつての北関東三場、高崎、足利、宇都宮も、上山や笠松などもそう。対して、名古屋や園田、岩手などはマチの競馬場という印象なのだし、同じ南関東でも大井や船橋はマチ、川崎や浦和はどっちかというとイナカの匂いが濃厚である。

 何が違うのか。たとえばそこにいる厩務員さんたちがみんななつかしい。うまや歩きをし始めた三十年ほど前、どこの競馬場にも普通にいたようなうまやもんの匂いや手触りがはっきりとある。ガツガツはしていない。場がゆるい。ぬくもりがある。
荒尾はまた、高知とは違う意味でいい競馬場だった。有明海を向うに望むゆったりとしたカーブの馬場。まわりの広い同じくゆったりとした厩舎地域。何より、そこにいる人のたたずまいが格別。

 厩舎を訪ねた日、真夏の油照りの下、外とのコントラストが強烈で一瞬、中が見えなくなるような日に、彼女は穏やかにそこにいた。養いのいい厩舎というのは足を踏み入れただけで、肌でわかる。実際、福島幸師とその厩舎の誠実な仕事ぶりは、人と同じく格別だった。

 もう一頭、ソリより年下のアラブの牡馬を一頭、福山でレース中に後肢で前肢をひっかけ、おそらくは蹄鉄の尖端でだろう、腱が見 えるくらいの外傷を負って「あきらめた方がええよ」と言われていたのを諦めきれずに養ってもらっていたことがある。半年ほど黙って面倒みてくれた後、ある日の電話でいつものように「今度、使うてみま〜す」。そして勝った。勝たせてくれた。結果、彼にとっては生涯ただひとつの勝ち鞍になったのだけれども、「勝たせてもらいましたぁ〜」電話の向うでまるで自分のことのようにはずんだ声で喜んでみせてくれたこのセンセイは、地方の、小さな競馬で育ったうまやもんならではの肌触りや暖かみ、馬で生きる者のココロのありようを身をもって教えてくれた。

 だが、そんな荒尾にもまた「存廃」の話が具体化し始めていた。福山から高知、そして荒尾へ。21世紀のニッポン競馬でのアラブの宿命そのままに、「ドミノ倒し」の止まらない地方の、そのまた最も小さな競馬場に居場所を求めて転転とすることになったのも、ソリの生まれた時代であり、競走馬としての彼女の宿命だった。

 荒尾の最後の年、9歳になったソリは一年に三つ勝った。こちらが出かけたその時に二つも。八月、岩永千明騎手で。そして十二月、年末でもう廃止が決まっている、そのひとつ前の開催で田中純騎手で。共に、見ていても気持ちの良い、淡々とした彼女本来の競馬、先行してゆったりと駈けて、からまれぬようペースを配分しながら直線、残していた余力でさらに突き放す。もちろん最末期の荒尾の競馬のこと、馬は頭数が揃わず、出走手当で何とかしのぐしかない窮状が続いてどの馬もみんな疲労困憊、レース自体も1,300メートルの競馬の半ば、向う正面でもう五、六頭の馬群が前後に大きくバラけてしまうようなていたらく。大分県産の380キロ台のちっちゃなサラブレッドとも競馬をした。三コーナー過ぎで逸走、五頭のうち二頭が競走中止なんてこともあった。

 ほんとにもうビクビクしながら乗ってましたよ、途中で止まらんでくれって願いながら競馬してた、正直廃止になってホッとしてるところもあります。そんな意味のことを後になってノリヤクのひとりが語ってくれた、地方の小さな競馬場の最後の日々。

 それでも、競馬は競馬だ。ゲートを出て、勝負して、勝つのは一頭だけ。ていねいに養ってもらっていた恩返しとばかりにさらに成長を見せていた彼女は、立派に彼女の競馬をしてみせた。岩永騎手曰く、まだ全然余力ありましたよ、田中騎手、今日はまあ、回ってくりゃ何とかなると思ってました。長年いるのは見ただけでわかる厩務員さんも言ってくれた。まだよそへ行ってもこのウマは楽しめるよ、大丈夫。

 そうして彼女は、三たび福山へ戻った。新聞記者が取材にも来た。同じく荒尾から移籍した宮平騎手と共に写真入りで小さな記事にもなった。そりゃあ面倒見なしゃあなかろう、と言いながら、徳本師はまた彼女を馬房に迎え入れてくれた。厩務員もみんな同じだった。クラスもアラブ特例の賞金換算で下っ鞍に編入、ひとつやふたつは勝てると思うわ、と言っていた。だが、走らない。交わされたら下がる、あの悪い癖が出てしまう。疲れもたまってたんだろうと休養させてみたものの、やはり芳しくない。本当にキモチが切れてしまったのか、ハナへ行く力はまだあったけれども、その後の失速っぷりが以前とは違う。それだけではない。脚もとの不調もはっきり症状に見えるようになっていた。ネズミ花火みたいになあ、骨膜がなあ。徳本師の表情も声も、くもるようになっていた。

 一頭の馬が競走馬になり、競馬をつかい、その人生を全うしてゆく過程で、実にさまざまな人の手を介してゆく。当たり前に言われ、そして理解されているそのことが、しかし他でもない自分ごととして、わが身に直接突き刺さってくる具体的な顔の見える「関係」として日々の経験に刷り込まれてゆく。ウマを持つ、競走馬の馬主になる、ということはそんな経験の中で、良いダンナ、として育てられてゆく過程でもあった。

 乗馬に欲しい、という話もちらほらある。現役乗馬にというだけでなく、乗馬用の繁殖牝馬としてアラブは結構需要もあったりするらしく。なんぼなら手放す?という打診も、何度か人を介して舞い込んだ。そのたびに、このなんちゃって馬主、真剣に考え込む。

 高知にもう一度お願いする、という選択肢もあった。あれは二度目の高知だったか、パドックに「おかえり♪ソリダリティ」と小さな横断幕を掲げてくれた高知の名も知れぬファンに、現役最後の挨拶をしておきたいという気持ちもあった。

  けれども、もう一度現役競走馬として走れるかどうかの判断も含めて、ダメだった場合はそのまま繁殖にしてやりたいという意味で、今は体調をにらみながら、いい時期に北海道は門別に移してみることに決めている。秋になり今年度の開催が終わる頃までには結論が見えるだろう。もし現役続行が無理と判断されたなら、来年春には、日高のおそらくはどこか小さな牧場で、繁殖牝馬になっている彼女の姿があると思っていただけたら幸い。無事に仔を産んでそれが育って、さて競馬場に行けるかどうか、それはまだ先のこと。何よりもその頃、この国の競馬の片隅にでも、そんな馬と馬主が受け入れてもらえるような小さな競馬場がなお存在できているのならば、の話だ。