「ヤツら」は街にたむろする――語られた「異質なもの」について①

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浅草には“血桜団”という不良が二人ずつ組んで道をあるいていて、その一人がうしろからスカートをまくれば、他の一人がハンドバックをもって疾風のように逃げ、 一人が針金で帽子をつれば、その隙にもう一人がぶつかっていって財布を抜く……それがアサクサの町だよ」といつか母がいったので、それからというもの、私は浅 草はヨタモンの町だとばかり思っていた。
                       ――早乙女勝元『下街の故郷』

……で、むこうは、ぼくらに対してオメーラ、金持ってねぇだろ、オメーラの力ってゆーのは暴力だろ、それもグループ組んでおどすってゆう、そーゆうイメージ持っ てんですよ。
                     ――シャネルズ『ラッツ&スター


 川向こうに試合に行くのがこわかった。中学生の頃、まだ、どこにでもいるそこらのサッカー少年だった頃の話だ。

 橋ひとつ超えた向こうには、全く違う世界が広がっているのだと思っていた。いや、正確にはそう感じていた。

 薄く広がる煙突の煙。高い鉄骨組みの足場が遠くに見える。たよりなげにそびえるゴルフの打ちっ放しの緑のネット。鉄橋を渡る電車の響き。土手を行き交う商用車。錆びたトタン色の町工場と、駅前商店街と、パチンコ屋と、焼鳥の煙と、青くてつるっとした瓦の乗った平たい屋根の文化住宅の並びの狭間に、きっと「ヤツら」がいるのだと思った。

 今思うと、その「ヤツら」について特に具体的なイメージがあったわけではない。川向こうに知り合いがいるわけでもなかったし、何か確かな情報を持っていたわけでもない。たまに電車に乗った時窓から見える街並みや、駅から乗ってくるおそらくはそのあたりに住んでいるだろう同年代の連中くらいしか、具体的なイメージをふくらませてゆくことのできる材料は何も持っていなかったのだ。

 ただ、どこの学校のどの学年にも必ず何人かはいるちょっとばかりツッパりめの連中――そんな感じがその「ヤツら」の一番基本的なイメージとして漠然とあったようには思う。もちろん、とりあえず何の根拠もない。ないのだが、しかし……

 知ってるヤツの話ィ、マジだよ、これ……そいつ、学校帰りに商店街歩ってると、向こうからチョンコー(朝鮮人高校)の連中がやってくんのが見えたんだって、あ、ヤバいなって思ったらしいんだけど、逃げたりすっとまたワザとらしいしィ、どうしようどうしようなんて思ってるうちに囲まれちゃったのね、そんで、中のひとりがそいつに「おまえの名前は」っ聞いたんだって、んで、そいつマジメな奴だったから、日本人の名前じゃヤバいなって、なんかチョンコーっぽい名前を言わなくちゃフクロ にされるなってあせっちゃったんだけどォ、なんかあせってっからわけわかんないで困っちゃってェ、んで、あたり見回したら、ラーメン屋があったわけ、そいでさ、ほ らラーメン屋って入口んとこに「営業中」って書いたプラスチックの札かかってるじゃん、あれ見つけてそいつヤケクソで「俺の名前はエイ・ギョウチュウだァーッ」って大声で叫んだ、したら、チョンコーは「なら、よし」とかなんとか言ってそのまま行っちゃったんだって……
                         1983年7月 19歳男性 予備校生

 これは少し前、学校帰りに出くわしてしまった「ヤツら」を語るフォークロアとして、若い衆の間でかなり広汎に流通していたものだ。例によって、「東十条の駅前でおこった本当のこと」であったり、あるいは「深夜放送でも紹介されていた本当の」話だったりという形で、事実として語られることが多い。話を形成する核になった何らかのできごとが実際にあったのかも知れない、という可能性は否定しないでおこう。だが、ここでは、これは自分に危害を加える存在=「ヤツら」とこういう形で遭遇する可能性を語ったフォークロアである、という立場からひとまず考えてみることにしたい。


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 このフォークロアフォークロアである以上、いくつかのヴァリエーションが存在する。ラーメン屋の表にかかっていたのが「営業中」ではなく「準備中」の札だったため、その高校生は「ジュン・ビーチュウ」と言ったというものもあれば、全くそれら「ラーメン屋」自体のディテールから離れて、店先に「チャリンコ」(自転車)があったので「チャー・リンコ」と言ったというものもある。いずれにしても、漢字三文字、ないしはそれに準じた音を持つことばが選ばれているのが特徴だ。

 漢字三文字で構成される名前が在日韓国人朝鮮人、中国人などと結びついてイメージされる傾向のあることは、南伸坊が「あなたは誰ですか?」(一九八八年『写真時代』八四)で面白い実験をしている。彼は、東洋人の顔写真を並べ、それぞれに漢字三文字の「名前」をつけた場合と、いわゆる日本人らしい「名前」をつけた場合とを比べ、僕たちが当たり前のものとして共有している「らしさ」のいい加減さを裏側から証明してみせた。同じ顔写真が漢字三文字を沿えられることで「名前」との対応を獲得し、違った意味を担うようになるのだ。

 あるいは、これまたフォークロアの常として、ストーリーが未発達のまま、最もイメージ喚起力の強い断片だけがひとり歩きしていることもある。

……ラーメン屋でケンカして、なんか怒ったカンコクの人に割箸鼻に突っ込まれて、脳まで突き刺さって、死んだか大ケガしたかした人がいるって……あたし、そう聞い たけど、わかんない、ウソかも知んない、なんか(笑)……
                        1984年 女性 大学生

 チョンのツッパリはさ、割箸ポケットに持ってて、そいでそれを鉛筆削りかなんかで削ってピンピンにしてんだ、どうしてだか知ってる? すれ違う時にそれズブッて 鼻の穴にさすんだよ、オレの友だちの知ってる奴で両方さされたヤツいるもん……
                        1983年 男性 アルバイト

 もちろん、このままでは単に荒唐無稽なホラ話の断片に過ぎないようにも思える。だが、この「脳に割箸が突き刺さる」という語りによって喚起されるイメージが鮮烈であり、身体の奥からゾクゾクするような、未だ恐怖とも興奮ともつかない未分化の得体の知れない感覚を引き出してくるものであればあるほど、このディテールの、ひとつの語りの枠を超えてゆく横断性は強いものになるし、これがストーリーの方に組み込まれてゆくと、なんとも陰惨なテクストも生み出されてくる。

 赤羽線でチョンコーのヤツらにからまれてリンチされたヤツがいるんです。最初は俺も朝鮮人だって仲間のふりをしたんですけど、それがバレてかえって怒らせちゃっ て、大勢で囲まれて殴られて、最後は鼻に割箸を突っ込まれたそうです。結局、それがもとで死んだそうです。
                       1984年9月 17歳男性 高校生

 在日韓国人朝鮮人子弟のための学校をこの国の 若い衆 たちは「チョンコー」と呼ぶ。そして、これはその学校を指示することばであると共に、在日韓国人朝鮮人そのものを指示することばとしても使い回される。「チョーセン」「チョン」なども同様だ。

 言うまでもなくこれらは、今日では「エタ」「ヨツ」などと共に差別語の最たるものとしてマスメディアなどでは慎重に避けられることばだし、ふだんの話しことばとしてもまず発されることのなくなった、言わば「隠されたことば」だ。だが、ことばが隠されても、そのことばを必要とした意識の昏がりは隠されはしない。

 (試合の相手が)チョーセンのヤツだとやだよ、あいつらいっぱい呼んで来んですよ、親戚やら兄弟やらみんな……ギャーギャーうるせェったらないよ。
                      1984年 男性 ボクサー

 注意しなければならない、と思う。慎重に身構えねばならない、と思う。そして、それでもなお、苦しい思いで言っておかねばならない、と思う。

 これら「チョーセン」「チョン」「チョンコー」といったことばは、まごうかたなく「差別語」である。だが、それらのことばを生み出す根の部分の問いを、日本人が在日韓国人朝鮮人に対して抱いている「差別意識」という部分にだけ還元してしまってこと足れりという態度は、時にそれらのことばを生み出すメカニズムに対してもう一歩踏み込むことを阻害する要因になりかねない。ことばは、時に本来対応すべきカテゴリーを離れひとり横滑りしてゆく故に、これらもまた、必ずしも現実の生きた実在としての在日韓国人朝鮮人にのみ対応したことばではないという部分を常に抱え続けている。そのダイナミズムを直視することもせず、例えば「だから在日韓国人朝鮮人に対する差別をやめよう」ということばだけで早上がりしてしまおうとすることは、その「差別をやめよう」ということばの背後にある意識がいかに誠実なものであったにせよ、今のこの国のことばをめぐる状況の中では、それはかえってそのような「差別」の背後にある根の部分を見えなくしてしまうパラドクスを孕むということだ。



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 これら「チョーセン」「チョン」「チョンコー」ということばは、この国の 若い衆 の間では、いわゆる「ツッパリ」ということばとある程度自由に交換し得ることばとして流通しているようなフシがある。つまり、彼らが日常の語りの中で「チョンコー」と言う時には、どうも「ツッパリ」というカテゴリーに収斂してゆくようなさまざまなディテールを反射的に想定しているらしいのだ。

 彼らの意識の中で、在日韓国人朝鮮人のイメージが「ツッパリ」のイメージと重なっていった過程がどのようなものだったか――これはまだそれほど綿密に検証してみたわけではないが、おそらく六〇年代末から七〇年代初めをひとつの境にして、七〇年代を通じてその融合が急速に進められたのではないかと推測している。今、僕に見えていることの輪郭だけをラフ スケッチしてみよう。

 この時期は、「不良」、のちに「非行少年(少女)」ということばで指示されるような少年、少女たちが学校社会の中での閉鎖集団として自らをまとめあげておくためのさまざまな仕掛けが彼らの手もとから離れ始め、マス・メディアの網の目の中で増幅され、それ自体商品として流通するようになってき始める時期だ。例えば、キャロルがメディアの中ではじけ、「永ちゃん矢沢永吉が丹念に全国を回り、学校社会から疎外された「落ちこぼれ」の意識をすくい上げ、組織してゆく過程は、同時に、彼らの身振りが大量に流布され、生きたそれぞれの「落ちこぼれ」たちがその身振りの側に雪崩を打って身を寄せてゆく過程でもあった。

 それは、最大限ポジティヴにだらしなく言ってしまえば、学校社会の中から疎外された彼らがある種の自己表現を獲得してゆく過程だったとも言える。そのようなトーンは、‘70年代を通じて、彼らを材料にしたルポやドキュメントの背景に色濃く漂っている。それは概ね「自らの存在証明のためにエネルギーを爆発させようとする少年たちと、市民社会の秩序を唯一最大の御題目に、それを規制、弾圧しようとする警察権力とのイタチごっこ」(戸井十月『シャコタン・ブギ』1980年)という図式で語られ、そして、彼ら自身もそのような図式を身につけてゆくという増幅のサイクルが形成されていった。


 だが、それは一方で、商品としてばらまかれ始めた「ツッパリ」の記号を身につけ、それを組み替えるという「商品の持つ意味を積木細工のように組み合わせて独自の象徴体系を作りあげ、その一方で各自の創造性を展開」(佐藤郁哉『暴走族のエスノグラフィー――モードの叛乱と文化の呪縛――』一九八五年)するしかない限界を持たされたままの痩せた自己表現だった、という解釈の論理を押し潰してしまうものではない。爆発的に売れたあの矢沢永吉激論集『成り上がり』を、まだ無名に等しかった頃の糸井重里がまとめていたことは象徴的だ。


 音楽シーンでは、初期のダウンタウンブギウギバンドから横浜銀蝿に至る系譜の中に、それ以外のジャンルでも、漫画ならば、名作『嗚呼! 花の応援団』や本宮ひろしの一連の作品などの中に、映画ならば、落日の東映スケバンシリーズの中に、あるいは、七八年の道路交通法改正までの暴走族の身振りとその反響板としてのいわゆる「マル走もの」出版物の言説の中に、七〇年代サブカルチュアのあらゆる領域、あらゆる場所で、これら記号化した「ツッパリ」は深く影を落としてゆく。

 その結果、八〇年代に入ると、政府広報でさえもが非行防止キャンペーンのために「こんなのオレじゃない」のコピーと共にそれら「ツッパリ」の記号を見事に身にまとった少年の写真を使った大看板を原宿の交差点にブチ立て、そして誰もそれを妙に思わないくらいに、「ツッパリ」の記号によって組み立てられる「ツッパリらしさ」は社会的に認知されるようになった。この意味で、「ツッパリ」とは言わばメディアによって増幅され、記号化された虚構の「不良」と言えるだろう。

 もともと、学校にしても警察にしても、ある若い衆が「不良」へと足を踏みいれているかどうかを確かめるものさしとして、身振りやことばづかいといった外見を重視してきたし、今もそれは基本的に変わっていない。

 例えば、一九五一年に警視庁少年第二課が作った『愛のみちびき』という冊子がある。非売品として都内の施設に配布されたものらしい。表紙は着色カラー版。清水幾太郎の推薦文が付けられ、中身も写真を多用した、当時としてはかなり手のこんだ作りになっている本だ。ここでは「不良化」を判断する指標として一五点あげられているが、態度や言葉つきが変わる、服装身まわり品などを気にする、外出が多くなる、隠語を使うようになる、など、外見と中身は一致する、ということを再前提として「不良化の診断」を行えるのだ、という態度は見事なまでに一貫している。 

 ところが、七〇年代以降「不良」の外見はいくらでも増殖するようになった。隠語ひとつとってみても、それぞれの「不良」たちの間から自発的に生まれ、彼らの共同性を支えてゆくための重要なシンボルになる筈のそれらのことばが、あっという間にメディアに補足され、すり減らされる。明快な「規約」を定め、そこから外れた者にはリンチも辞さない、という閉鎖的共同性を支えるだけの象徴の体系は縦横に風穴をあけられ、均質化されてゆく。八〇年代の初め、ひところ校内暴力が話題になった時期に「ひとりひとりはおとなしい子なんですよ」などという教師のコメントが判で押したように出されていたが、見るからに「不良」ないしは「ツッパリ」らしいというスタイルと内実とのズレが、自浄的には補正不可能なまでに拡大してしまっている状況では、これはある意味では当たり前だろう。

 これら新たに商品化され、大量に流通させられていった「ツッパリ」の身振りの中には、おそらくそれが増幅の回路をたどってゆく間に、さまざまな形で「在日」を横滑りに指示してゆく材料がさしはさまれ、準備されていった。

 例えば、「チョーパン」、「チョンバック」、「チョングツ」ということば。チョーパンはすれ違いざまに横から巻き込むように攻撃を加える一種の頭突き。チョンバックはツッパリたちがよく持っていたペタペタに薄くした革カバン、あるいはビジネスマンの持つような通勤用革製カバンのこと。チョングツもツッパリご愛用の薄手のズック靴のことだ。いずれも在日韓国人朝鮮人子弟たちの持っている持ちものと言われてはいた。

 しかし、喧嘩の民衆技術史というものがあるとして、このチョーパンなどは従来の喧嘩の身体技術の体系にかなり深刻なイノベーションをもたらした筈だ。正面戦ではなく横からの奇襲ゲリラ戦。その上、頭突きでヒットされやすい鼻は、出血させることによって戦意を喪失させる効果もある。「血ィ見るぞ」というのが脅しのことばであることを考えればいい。先にあげた、すれ違いざまに割箸を鼻に突っ込まれる、というテクストは、このチョーパンのもたらす経験の記憶をベースに生まれてきた語りではないだろうか。

 また、僕の育ったあたりでは、サッカーのサイドキックによるボールリフティングを「チョン蹴り」「チョンキック」と言っていた。ボールをチョンと蹴ることからきたことばとも考えられなくはないが、それにしては、この「チョン蹴り」ということばははっきりと馬鹿にしたコンテクストでしか使われなかった。韓国のサッカーチームがこの「チョン蹴り」を好んでやるのだ、という説明もされていたが、それは事実かどうか。

 このように見てくると、特に在日韓国人朝鮮人と具体的に関わってこないものでも、奇妙なもの、外れたものと認識されたものについてならば相当自由自在に「チョン」という言い方がされている。かつて、なんでも「文化」とつければ新しく思えた、というのとよく似た、辞書的な明示的な意味の領域を離れたことばの自由自在な横滑り。とすれば、「ヤツら」を遠くまで押しやって「こちら側」との違いをきわだたせるためのことばとして、これら「チョーセン」「チョン」「チョンコー」といったことばが使われた可能性は十分にある。


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 僕が集めた材料は、首都圏の高校生、予備校生、大学生といったティーンエイジャーからのものに限られる。だから過度に普遍化することには慎重でありたいが、少なくとも、彼ら首都圏のティーンエイジャーの持つ「チョンコー」に対する恐怖の根拠としては、ひとつには「ヤツら」が「いつも集団で行動している」ことがあるらしいということは言える。

 首都圏にある朝鮮人学校は、総連系、民団系を問わず、かなり日本人高校とは異なった制服を採用しており、そのことが「ヤツら」に関する視覚的な差異を明確にしているということが、集団性の恐怖を喚起する上でかなり関係しているように思える。制服が似ているという理由で応援団などから襲われた、というフォークロアも高校生の間ではさまざまなヴァリエーションを伴って流通している。

 とは言うものの、彼ら「チョンコー」が常に集団で行動する性癖を持つ、という語られ方について、それが何らかの事実に対応したものかどうかを証明することはなかなか難しい。中学生や高校生が集団でたむろするのは別に日本人だろうが朝鮮人だろうが変わりはしない筈だ。また、タバになった彼ら「若い衆」が時に突出した存在になることも、日本人だから、あるいは朝鮮人だからどうこうということではない。第一、自分の国、他人の国という立場が変われば、日本人だって人一倍群れたがる人種であることはこれまで耳タコに聞かされてきたくせに、こういう時だけ棚に上がっちまうのはムシが良すぎる。だから、ここはひとまず、「ヤツら」だけがタバになる、というのは、あくまでも、そのように思ってしまう、ということについての表現であると考えておいた方がいい。

 問題は、そのように「タバにな」り、「たむろする」存在として彼らが語られること、そして、その想像力がどうやら現実の在日韓国人朝鮮人の実際のありようにだけ根ざしたものでは必ずしもなく、漠然とした「ヤツら」が語られる時に常にまつわりつくものらしいことだ。早い話、昨今リクルートで槍玉にあげられた自民党の代議士が眼の仇にする「マスコミ」ということばだってこの「ヤツら」の属性を持っている。また、かつての学生運動共産党に対する「ゲバ学生」や「アカ」という語られ方も基本的に同じだ。この国の人々の想像力が作り出す「ヤツら」のイメージは、時代や状況によって実際に排除される対象はさまざまに変わってはいても、少なくとも「近代」が世界のとほうもない広がりを急激に獲得し始めてからこっちは、その最も深いところでどこかよく似たものになるらしい。

 「タバになる」「主張をゴリ押しする」「ヤツら」――「こちら側」を安定させ、結束を固める時に操作される排除のシンボルは、この国では究極のところこれらの属性を持った「ヤツら」という何か巨大なものに規定されている。これに対抗する「こちら側」とは、「無駄を承知で」「ひとり、ないしは少数で」「スジを通す」存在ということになる。闇の中、どこからともなく聞こえてくる「御用、御用」の声と共に無数の御用提灯が差し出され、匿名性の強い捕り方に取り囲まれる、というチャンバラにつきもののあのシーンを思い起こしてもらってもいい。なんのことはない、「こちら側」は股旅もののヒーローであり、かつてのヤクザ映画の健さんなのだ。浪漫主義的なヒロイズムを支える仕掛けの一方の柱として、この「ヤツら」のイメージは重要な役割を果たしてきたのではないだろうか。

 「タバになっている」ことと「ひとり、ないしは少数である」こととの間の対話を積極的に設定してゆく手続きが、今や手垢にまみれてしまったあの「民主主義」だった筈だ。なのに、どうもその手続きを保証することばを持てないまま、僕たちは今に至ってしまっているらしい。そして、その空白を埋めてゆこうとする誠実さにも自信を持てないまま、気恥ずかしさに眼をそむけてばかりいるうちに、丁か半かというサイコロバクチにも似た早上がりのためのことばと、そのことばを生み出し、ドライヴしてゆく仕掛けだけが、いつの間にかふくれあがっている。


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 さらに、この「タバになる」ことの放射する抑圧は、それが 若い衆 である場合、余計に増幅される。

 若いってことは、ただそれだけで暴力だったりする。白状するが、一〇〇人ばかりの高校生の前で連続的にレクチュアをした経験から、タバになった「若さ」の抑圧性については、いやというほど思い知らされている。予備校でだ。毎週一日、二時間の講義をふたコマもたされた。何も知らない同僚たちは「おッ、セーラー服の集団か、いいじゃねェか」と呑気なことを言っていたが、冗談ではない。聞き手の七割ほどが学校帰りの女子高生だったこともあるが、とにかく、その疲労度たるや想像以上であることは即座に請け合う。ひと仕事終わったあと、背中から腰にズンと倦怠感がくる。その場ではこない。むしろその場の身体感覚のようなものは普段より開かれるような気がする。が、あとがいけない。尾底骨の底の方、立つことに直接関わっている芯のような個所にこたえる。浪人たちのクラスとまるで違うのだ。というわけで、僕は大学浪人たちの身体的な衰弱を逆に改めて認識してしまった。

 物理的にも人間は音を吸い取るマチエールだが、それにしても、空気がねばって湿り気を帯び、声だけでなくこちらの「気」まで呑み込んでくるようなあの獰猛な気配は、邪悪な攻撃性を間違いなく持っていた。それは必ずしも生物学的な年齢の問題ではない。生きてあるもののエネルギーの問題だ。

 かつて「若い衆」という言葉が持っていた筈のイメージ喚起力も、そんなはちきれるような無方向のエネルギーのヤバさの感覚を前提にしていたのだろう。「若さ」をうっかりノセると命取りになる。なるほど、中学や高校で体育教官がのさばるわけだ。ちなみに、その予備校のクラスは一年で放り出した。

 おそらく、こういうことだ。

 中学生や高校生がタバになるということだけで、それが事実として「朝鮮人高校生」特有の属性であるということを実証することは困難だし、少なくともフォークロアに関して何か言おうとする時、それはほとんど無意味な作業だ。それ以上に、タバになった「若い衆」自体の持っている生物的な威圧感こそが日常の経験の裡に澱んでいく、そのことの意味を考えてみようとする方が作業仮説として重要だ。そして、そのような思考のエクササイズこそが、「ヤツら」を生み出してゆくメカニズムを僕たち自身の内側に発見するためのエチュードになり得ると僕は信じる。

 ただ、その抑圧感を「朝鮮人高校生」という実在の方へなるべくダイレクトに結びつけることで、より明快な説明を与えようとする傾向に関して何か言えることがあるとすれば、そのような「若い衆」がたむろしている状況で明らかに日本人高校生と異なった制服を着た高校生たちがいたとして、その視覚的な違いのために彼らが必要以上に「ヤツら」というカテゴリーに囲い込まれて意味づけられるような見られ方が増幅される可能性はある、ということだろう。眼による違いの認識が、同時にそれら「若い衆」の放射するエネルギーに刻み込んでくる漠然とした、しかしその分だけ確かかも知れない身体的記憶にドライヴされ、意識の底にひそむ「ヤツら」に重ね合わされる。そして、それがことばによって明晰に指示できる次元にまで再び浮かび上がってくる時には、「朝鮮人高校生」であれ「街のチンピラ」であれ、漠然とした形象として抱えこまれていた「ヤツら」は明晰なカテゴリーとして立ち上がり、意識されるようになる。

 例えば、ヤクザなどはどうなのだろう。

 路上にたむろする「ヤツら」の具体的存在としては典型的とも言えるヤクザ。だが、ヤクザとの遭遇が「普通の人々」にとって心底恐怖だった、あるいはそこまで具体的でなくても、何か語るべきものとして身体まるごとのインパクトを与える経験だった時期というのは、もう遠い昔のことになっている。

 その間には、高度経済成長期、「暴力団」という醜悪な記号を操作して、実体とは別に人々の意識の上での博徒テキヤとの融合を意図的に進めた、ある意志が横たわっている。また、違う方向からは、彼らに代表されるような流れてゆく身体を持った雑民、流民、零細独立企業家と、その縦横な結合によって作られてゆくさまざまな集団の在り方が、ある一定の方向に遍く序列化され、なめされてゆくこの国の社会の組み立ての中でどのように排除され、整えられてゆかざるを得なかったか、というより大きな問題も介在してくる。

 だが、ここもひとつフォークロアの眼線の位置から攻めてみよう。

 例えば、八〇年代半ば、ニッポン放送のラジオ番組『三宅祐司のヤングパラダイス』のDJ三宅祐司がリスナーを組織した結果寄せられた投書の集積『恐怖のヤッちゃん』シリーズに収められていた荒唐無稽なヤクザ譚の数々は、ヤクザが日常生活の中で身の毛もよだつような恐怖を喚起する存在ではなくなった地点から始まっている。

 「日曜日の昼さがり、一人で留守番をしていたボクは、昼めしを作るのがめんどうくさかったので、近所のラーメン屋へ行くことにしました。その店は、近所の人たち から“あかずのラーメン屋”と呼ばれて恐れられているようでしたが、ボクは興味本意でその店に行ってみることにしたのです。入口をガラリと開けると、にが虫をかみつぶしたような腹にズシンと響く声で「へイ、らっしゃい!」という声が聞こえてきました。声の方に視線を向けたボクは、いっしゅんにして食欲が消えていくのを感じました。そこには従業員らしいヤッちゃん五人衆が、ズラリと並んでいたのです。……」

 「夏休みに私が喫茶店でアルバイトをしていると、自動ドアをこじあけるようにして入ってくるお客がありました。半分とれかかったパンチパーマ、いい加減色落ちし ているアロハシャツ、胸元には組員バッチと思われる、龍の浮き彫りに“忍”という字が書いてある金バッチ、黒ブチのサングラス、すね毛丸出しのバミューダパンツに サンダルばきというスタイルの彼は、NHKの集金人であるはずもなく、どこから見てもヤッちゃんでした。……」

 「ボクが体験した恐怖の電車の15分をお伝えします。あれは忘れようのない9月22日。ボクはとある私鉄の急行に乗っておりました。時刻は午後6時を差して(原文ママ)おり、車内は下校中の女子学生、サラリーマン、そしておじいさんやおばあさんなどでけっこう混んでいました。電車が桜橋という駅に着いたとき、ドアの向こうに 白のエナメル靴が光っているのが見えました。そうです、彼です。ヤッちゃんです。デカイ頭はパンチパーマ。顔にはサングラス、ねずみ色のスーツからのぞくは真っ赤 なシャツ、趣味が大変けっこうな花柄のネクタイに金色のネクタイピンをちらつかせ、スリータックのボンタンを大胆にひろげて入っていらっしゃいました。……」

 ここで語られているテクストが事実にもとづいたものかどうかはとりあえず問題ではない。問題は、明らかに創作とわかるテクストも含めて、誰もがこのような形で、直接に自分の経験に根ざしたものだけでなく、さまざな回路を介してあらかじめ膨大にストックされた断片を組み合わせて「ヤクザ」を語ることができるようになっていること、そして、そのようにして共有された「ヤクザ」像が、個々の具体的な存在としてあるヤクザのディテールを呑みこんでしまうほどに濃密なステレオタイプと化してしまっていること、この二点だ。

 そのようにして共有された「ヤクザ」像はひとり歩きを始める。街にたむろし、しゃがみこみ、あるいはふりあおぎざまにこちらにガンを飛ばす「ヤツら」の放つまるごとの感覚の鮮烈さは、そのような「ヤクザ」像からは巧妙に脱色され、その「こわさ」すらもがパロディとして消費されるだけになっている。突然、路上で彼らに遭遇する時の、なま身のギリギリのところで感じさせられていた、毛穴が開き切ってしまうような膨張する感覚さえも、獰猛な既製のことばを介して複製され、大量に流通させられることによって漂白され、均質で人畜無害なものになるしかない。だから、この国では、少なくともここで「チョンコー」について語られるようなまるごとの感覚の鮮烈さを喚起するフォークロアとして、ヤクザが再び語られる日が来ることはもうないだろう。新門辰五郎を、清水次郎長を、夜桜銀次を、田岡一雄を、英雄として日々の語りの内に共有できる基盤を、表現がやわらかなまま伝わってゆく自由を、この国はもうとうの昔に失っているのだ。


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 E.ヴァクス(E.Wachs)は、街の中でおこる犯罪とその被害者についての話が口から耳へと伝えられてゆくうわさのレヴェルで一定の型を持つことに着目し、ニューヨーク市におけるそれら語りの事例を集めて分析している。(Eleanor Wachs, CRIME-VICTIM STORIES : New-York City's Urban Folklore.1988)彼女によれば、これらの語りは「凶器を持った見知らぬ人間と出食わすことによる唐突な、予想もしなかった暴力的な死に至る可能性」というテーマを背後に持っており、それはニューヨークに住む人々が彼らの周りの世界をどのように認識しているかを反映しているという意味で、「都市的環境によって作り出される物語」であるという。

 確かに、不特定多数のさまざまな人やものや情報が交錯する場である路上で、そのような経験が準備される可能性の高いことは、常識的にも理解できる。それは必ずしも具体的な道路の上である必要はない。コインランドリーやエレベーター、駅、バスや地下鉄の車内など、見る/見られる関係の中で囲い込まれてくる見通しのきかない場所は、意味の秩序が流動的で不安定な場所であるという限りで「路上」なのだ。それらの場所での「隣にどんな人間がいるかわからない」という不安は、ヴァクスの言う「都市的環境」のもたらす最も根源的な不安のひとつだし、そこに意味が無限大に増殖してゆき「こわい考えになってしまう」(いがらしみきおぼのぼの』)芽が胚胎する。

 一方、「たむろする」ことは、それら路上を流れるさまざまな情報をひとまずからめ、収束させ、凝縮し、再びある一定の方向へと解放してやる加速装置を作ることに等しい。それは時に流れをせきとめることにもなるし、また別の流れへとつなげてゆくことにもなる。いずれにしても、それら不安定な路上の世界をてっとり早く安定させ、明晰にしてゆくためには「たむろする」技術を持っていることが最低限要求される。自身のプログラムで周囲に関係をつけてゆき、新たな意味の秩序を与えてゆこうとする身体技術。路上で「ヤツら」にからまれるという経験は、からまれる側からすれば、そのような加速装置、変換装置に放り込まれるある種のめまいの経験だと言うこともできる。

 ヴァクスの集めたテクストはおよそ一二〇あまり。ただ、これらの中に、冒頭にあげた「チョンコー」のテクストのように、集団でたむろする「ヤツら」に囲まれるというような話は意外に少ない。遭遇するのはせいぜい二、三人までの「ヤツら」であり、圧倒的な力か、あるいは凶器(時に銃火器)を持って「こちら側」との距離をプロセス抜きにいきなり埋めてくる、というのがひとつのパターンのようだ。その理由としては、銃器所持が許可されていること、道具としての「武器」にまつわる感覚のありかた、あるいは人間関係のありかたの違いなど、さまざまな要因が考えられるが、フォークロアを材料にした比較文化論などは気色悪いので放ったらかし、ここは同じ眼線の位置のままどんどん先へ行こう。

「去年か、その前の年のパスオーヴァー(引用者註――ユダヤ教の行事のひとつ)の時、みんな(親戚)はドアをエリアーのために開けといたら、銃を持った男が三人 押し入ってきたの……そいつらは親戚を襲ったのよ、みんなやられて、女の人がひとり ベッドルームに飛び込んで……警察に電話したの、そいつらがまだいる間に警察が やってきたわ、撃ち合いになってそいつらは殺された……これは95番街とアムステルダム通りのところでおこったことなのよ、あたしたちが夕食のテーブルのまわりでふ ざけていると、おばさんがこう言ったわ「プエルトリコ人たちが入ってくるから、エリアーのためにドアを開けるんじゃないよ!」
             パトリシア・エーデルマンからの聞き書き/1977年6月22日

 「ここにみんながいた時のこと、覚えてるでしょ……窓の向こうに黒ん坊を見たのよ、……あたしがブラインドをおろさないのはだからなの、誰がいるかわかるでしょ、 あたしがここんところ(その台所の窓)へ寄って行ったら、うちの人は言ったわ、 「いつか、おまえは銃で頭を打ちぬかれるだろうよ……そんなに不注意なままだった らな……」でもあたしは物音を聞いたのよ、あたし「ちょっと、あなた窓の外で何してんの?」って(その窓の外にいる黒人の男に)言ってやったわ……帽子をかぶって スニーカーをはいてた、大きい黒人なの!そいつは窓から屋根の上まで飛び上がって……(それから)非常口から出ていったわ」
             ジョセフィン・ペリーゴからの聞き書き/1977年6月5日

 これらが人種的偏見を根にもった語りであることは言うまでもない。ヴァクスは言う。

 「これらの「やられる話」(crime-victim stories)の語り手は犯人を人種によって差異化し、認識している。「黒人の子供がね、やったのよ」とか「黒人がふたりそばにやってきて、ナイフを脇腹に当てたんだ」とか「その男はスペイン系でシャツを着てなかった」といったようにだ。それらの語り手はしばしば「ヤツら」(they)ということばを使う。「ヤツらはよく銃を持ってウロウロしてるんだ」とか「とにかくあいつらはこっちのことが嫌いなんだ」というのが、物語の中で彼ら犯人が被害者に偏見を持っている証拠としてあげられる語り口だ。」

 そして、アフロアメリカのトリックスターにまつわるフォークロアを規定しているのが、黒人奴隷の側が持っている白人に対する恐怖であるとの説を引用しながら、彼女は「さて、果たして時代は変わったのか?」と問いかける。

 「ちょうど黒人たちがトリックスターの話を使って白人たちに対する彼らの見方を表現したのと同じように、今日、それらの「やられる話」は、白人の黒人に対する人種的憎悪と不安を表現すると共に覆い隠しもするごまかしの手段として用いられているのだ、という仮説は、集団が不安にさいなまれる弱い立場に置かれた時、その状況をどうにかするために効果的な語りのフォームを未だどのように使い、操作するのか、ということを示している。」

 この「常に凶器を持ち歩き、トラブルを引き起こす存在として見られている黒人」のイメージは、冒頭の「チョンコー」のイメージと構造的には重なってくる。しかし、だからといって、アメリカ社会における黒人はこの国の社会においては在日韓国人朝鮮人に置き換えられる、などという理解の仕方をするのもまたとんでもない早上がりだ。言語の違いを超えて「ヤツら」を生みだしてゆく仕掛けという次元での構造的相似が根本的にあるらしいことと共に、その相似を説明しようとする時には、全てを言語の次元にだけに還元するのでなく、そのような相似を生みだしてきた歴史性も、そしてその歴史性を規定する等身大のディテールを綿密に視野に収めてゆく覚悟を同時に考えておきたいと思う。


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 僕が気になっているのは、いわゆる外国人労働者について語られるそのようなフォークロアが、少なくとも現在までのところ、この国で予想以上に少ないことだ。

 もちろん、全くないわけではない。例えば「走るじゃぱゆき」という話がある。ざっとこういう話だ。

 マンション(あるいはアパート)の階段をすごい勢いでかけ降りてきた若い女の子がいた。その時は顔なんかはよくわからなかったけど、服装や肌の色からどうやらフィリ ピンあたりからの出稼ぎらしい。その子は裸足で飛び出してゆき、そのまま走って逃げていってしまった。と、そのあとを今度はいかにもヤクザらしい男が降りてきて、あとを追いかけていった。ふと足もとを見ると、血のついた包丁が落ちていた。きっと彼女 の落していったものに違いない。
                             1986年 男性

 ただし、この話は、このテクストのようなある程度まとまりを持った物語としてよりも、単なる断片として流通していることが多いようだ。その場合には、この「フィリピン人らしい女性」が「走る」という断片だけが抽出され、声をひそめて語られる。そして、それらがより単純化されると「複数のじゃぱゆきたちが住宅街を走り抜けていった」というだけの、なにやら不条理なイメージだけを喚起する断片としてのみ流通していたりもする。これらの断片が笑いと共に語られるのか、それとも「こわい話」としてささやかれるのか、それはそれぞれの語りの場に規定されることでもあるから、これだけで一義的にきめつけてしまうことはできない。

 ただ、これらのフォークロアから判断する限りでも、これらじゃぱゆきに代表されるような外国人労働者たちは、やはりよほど巧妙に意識されにくい、見えない存在にされているのだろうという印象は強い。少なくとも僕の経験に限って言えば、外国人労働者にタバになって囲まれた、などという話は、これまで耳にしたことがない。言わば、もはや「ヤツら」にもなり得ないくらいに、彼らはこの国の日常からは隠されてしまっている、ということなのかも知れない。

 もちろん、現在、僕の知らない場所でもっと成熟したそのようなフォークロアが流通しているのかも知れないし、また、これから先、そのような話が登場するのかどうかについても、手もちの材料からだけではなんとも言えない。しかし、金属製の頑丈な扉にシリンダー鍵がつき、コンクリートで固められたアパートやマンションといった、人を全く見えない場所に閉じ込めてしまう箱の集合体からじゃぱゆきが飛び出してくる、というこの想像力のありかたから考えると、今後、外国人労働者は、眼に見える形での「ヤツら」というのではなく、そのような飯場、アパート、マンションといった閉じられた場所に、時に心ならずも囲い込まれている何か「かわいそうな」人々として語られることになるのではないかと思う。それは、高度経済成長期を通じて密閉度が飛躍的に高くなっていった「個室」の問題、「経済のソフト化」などという口あたりのいいことばでごまかされてしまう暮らしの「もの」離れの問題などを補助線にして考えねばならないことだろうし、「豊かさ」「貧しさ」という言い方にまつわる内実を解きほぐしてゆかねばならないことでもあるだろう。

そして今日も、軽いうわさ話は街に流れてゆく。

 歌舞伎町のホテルから妙な歩き方で出てきた女の子がいた。顔立ちなどから見ると、どうも東南アジアからの出稼ぎの子らしい。ああ、恥ずかしいんだな、と思って見てい ると、持っていた大きな袋からテレビが転がり落ちた。

 赤坂の迎賓館にフィリピンからの使節かなんかが泊まったそうだ。帰ったあと、ドアのノブが全部なくなっていた。警備に当たっていたのは第八機動隊だったが、彼らが疑われて、全員身体検査をされたらしい。

 これらはうわさとも物語ともつかない、まだ単なる「妙な話」にすぎない。ヴァリエーションがあるのかどうかもまだ未確認だ。だが、いずれも外国人労働者の「貧しさ」に対する視線が露骨に表現されている点では共通している。実体としても、そして意識の上でも、この国の市民社会からあらかじめ囲い込まれ、適度に漂白された存在としての外国人労働者。どうにも憂鬱なことだが、もしかしたら彼らは、経済的「繁栄」の裏返しのシンボルとして、おだやかに、ものわかりよく、この国の人々に受容されつつあるのかも知れない。

 これから先は全く根拠のない個人的な空想として聞いてもらって構わないが、今、かりに関東大震災のような不慮の災害が起こったとして、かつて「不逞鮮人」のことばで「ヤツら」の具体的なイメージが喚起され、社会主義者から在日韓国人朝鮮人までが無差別に襲撃されたような事態が、彼らいわゆる外国人労働者たちに対して直接おこる可能性はおそらくかなり薄いのではないかと思う。きっと「ヤツら」は、もっと別な仕掛けを介して、なんでもない場所に顔を出してくる。例えば、あらゆる仕事の領域を呑み込むまでにふくれあがったサービス産業の現場で、どちらも「お客さま」という見えない形象に常におびやかされながらうそ寒いことばのやりとりを繰り返すだけの無数の「店の人」と「客」の間に、「ヤツら」はまた根を張ってはいないだろうか。ちょっとした手続きの食い違いに狂ったようにクレームをつける「客」と、それに対して全くなすすべなく頭を下げ続け、マニュアル通りのことばをばらまくことしかできなくなっている「店の人」――いずれもが、同じ病いの上のささくれだった想いばかりを削り出し、個の手ざわりのないのっぺりとした抑圧の源としてお互いを遠くへ押しやっては、顔をそむけ、暗く舌打ちする。

 外国人労働者に対する襲撃が潜在的に起こり得る条件があるとすれば、彼らがある程度そのようなサービス業の現場に具体的に、かつ大量にその姿を曝すようになるかどうかがひとつのカギだろう。ただし、繰り返すが、それは直接に「○○人」に対する「差別意識」の反映というだけでは説明できないものだ。その向こうに、常に見え隠れしながら時代と並走する「ヤツら」の形象を見つめようとする意志抜きには、どんな誠実も、どんな真摯も、また同じ無惨をたどるに違いない。


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 まだまだ、考えておきたいことはありすぎる。
 
 例えば、この国の 若い衆 が日常的に共有していると考えられる学校間格差に根ざした意味世界の問題。それは、彼らの日常生活世界のあり方に根深くからんだ、彼らにとってのひとつの世界認識の体系でもある。先取りして言ってしまえば、近代を通じて、職業、仕事にまつわるさまざまな違いに根ざした意味世界が形成されていったのとよく似たプロセスで、彼らの間に言わば学校間格差に根ざした意味世界が形成されていったことが考えられるのだ。そして、今やそれは学校とは関係のない場所に生きる人々の意識にまで、完璧なまでに網をかぶせてしまっている。「偏差値教育」は「選別」や「差別」を目的とするからいけないというだけではなく、そのものさしが圧倒的に大きく、強靱な抑圧として意識の奥深くにまでもぐり込み、学校という装置を遠く離れて遍在してゆく仕掛けの中でうたわれているからこそ問題なのだ。

 あるいは、冒頭にあげたテクストを構成するフォークロアとしてのもうひとつの重要な材料である「割箸」「ラーメン屋」と「チョンコー」が、人々の意識の上で横滑りに結びついてゆく問題。だが、これらの問題にある程度の見通しをつけるためにはまた別の議論を必要とするし、紙数も尽きた。ここでは後者の要点だけをレジュメ風に提示し、今後の叩き台とするにとどめる。興味ある向きは、この稿の一部原形となった拙文「「他者」の身体的共同性について」(一九八八年『民話と文学』二〇 所収) を参照されたい。

 これらのフォークロアにおける「割箸」は、それら割箸を道具として使うような場所に近しいと思われているカテゴリーへとイメージを横滑りさせるための、いわば触媒的なことばである。

 割箸が大量に普及するのは戦後のことである。それは食が家庭の外へ放り出されてゆく過程に対応している。ひらたく言えば、外食という行動様式が否応なしに拡散してゆく過程である闇市時代~高度経済成長期前半にかけて、割箸は爆発的に作り出されてきた。ちなみに、現在は輸入ものが多く、国内生産は激減しているらしい。近年の国内総流通量は推定年間約四億膳と言われているが、業界自体が未組織な部分が多く、正確な量はわからないという。

 ラーメン、ないしはラーメンに代表される「街の中華料理」は、そのような家庭の外へと放り出された食の代表選手となった。「街の味」「路上の味」の成立。インスタントラーメンが長い間「街のラーメン屋」の味に近づくことを達成目標にしてきたのは、それが家庭では作れない味だったからに他ならない。

 その味は端的に言って動物性スープの味だった。そして、それは食材の流通過程に規定されている。良質の鳥ガラや豚モツがどこに行けば手に入るかを知っている主婦は稀だろうし、市民社会の常識の範疇では、日常的にそれらを家族に食べさせることはまずない。おそらく、食材流通の二重構造化によって出現した見えない食材、家庭に入ってこない食材がそれら「街の味」を明確に、具体的な「もの」の次元から規定していた筈だ。

 あらゆる食材が家庭へ向かって収斂してゆく流通過程の一方で、そこから出る余剰材を引き寄せて別の流通経路に乗せ、末端ではそのような「街の味」に変形して提供する過程が同時に存在する。流通機構が巨大化するにつれて必然的に生じるこの二重構造。例えば、露店の食いものの材料なども基本的に同じ構造に規定されているわけだが、このような過程に関わって生きるのは、戦後社会の中で、もっとはっきり言えば高度経済成長の過程で上昇気流にうまく乗れなかった人々である場合が事実としても少なくない。そのような流通過程の二重構造化は「街の味」にたずさわる人々に対する「ヤツら」化を招く。味や匂いといった次元での身体的な、最も深い部分の記憶に社会的実態の次元での記憶が重層し、補強され、「ヤツら」が結晶する。

 ゆえに、これらのフォークロアに含まれている「割箸」「ラーメン屋」というディテールは恣意的に、あるいは偶然に選ばれたものとは言い切れない。物語のディテールの連鎖を、全体を貫くライトモティーフとしてある「ヤツら」というカテゴ   リーへと誘導してゆく上で、これらのディテールは重要な機能を果たしている。

 このレジュメが単なる大風呂敷と思われるだけではちょっとシャクなので、ひとつ例らしきものを示しておこう。二〇年以上前、いわゆる左翼陣営の内側でおこったできごとらしい。

 「……さまざまな声明のたぐいの中で、名古屋中郵細胞のそれが、印象にのこった。 現場のリアリティがもつ精彩だけでなく、文中にあった李徳全防衛闘争のことが、僕の 記憶をつついたからだ。……(中略)……当時アツミ細胞の高三さん達も動員されて、李 徳全女史一行の泊まる名古屋のホテルの警備に当たった。ピストルの名人の蒋介石の特 務が潜入しているので、一行を身をもつて護衛するというのが任務だった。高三さん達 は、張り切ってアツミからハイヤーにのって出向いたにもかかわらず、何事もおこらな かった。結局、夜ふけに、ホテルの近所へ屋台をひいてきたラーメン屋のお爺さんを、 ラーメンがあやしい、中華に関係があるということでひっとらえ、ぎゅうぎゅうしぼっ て、いささか仕事をしたような気になって解散した。」
                        石田郁夫「雑兵の口説」 1964年

 事実か否かはひとまず問わなくてもいいだろう。想像力のありかたとして、これは先の高校生たちのそれと全く変わるところはない。路上にたむろする屋台の食べもの屋のあやしさと共に、ラーメン自体の持つあやしさ――つまり「ヤツら」らしさもまた重層し、この被害妄想とも思える行動に拍車をかけたと考えるのも、それほど無理なことではない筈だ。




                        

*1:別冊宝島『うわさの本』掲載原稿。