遠乗りの記憶

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 競馬場の厩舎を歩いていて、ふと、なつかしくなり、立ち止まった。
 砂ぼこりが立つ。風に砂が舞い上がり、乾いた寝藁屑が走る。ちょっと強い風が吹くと、馬も、人も、眼を細め、うつむき加減に歩く…
 どこかで、こんな光景を見たような気がした。穴ぼこと、わだちの跡と、こんもりとまんなかの盛り上がった土と、砂と、砂利と、雑草のあの道。子供のせいだったこともあるのだろうが、低い位置、しゃがんだ眼線で見通す道は、やけに幅が広く、遠くがかすんで見えたような気がする。
 そんな、まだアスファルトに覆われていなかった時代の道の光景が、そこにあった。
 人が歩く。大人が歩く。子供が歩く。犬が歩く。猫も歩く。蟻も、バッタも、いろいろな虫たちもまた、道を歩く。
 今から半世紀以上も前、遠くまで行くことだけを目的に、その道を歩いた馬たちがいた。一九三六年(昭和一一年)のことだ。軍馬ではない。民間の、ごくふつうに暮らしの中にいた馬たちだ。


 この遠乗り大会、名前を『馬政第二次計画実施記念 長途競走騎乗』という。大々的に宣伝が打たれ、軍と産馬組合と警察の協力のもとで開かれた、言わば「馬の遠乗り甲子園大会」だ。
 残された記録――応募者総数一一七名。総額一万円の賞金、賞品がかけられ、全国一四ヶ所で出場人馬を決める予選が行われている。最終的に参加したのは、明け五歳から一六歳までの内国産馬五〇頭。人間の方はというと、一七歳から六二歳までのいずれも男性。この中には、若き日の三坂博調教師(現大井競馬場)も混じっていた。中央入りして活躍中のガルダンを公営時代に管理した三坂盛雄調教師のお父さんだ。
 コースは名古屋~東京と仙台~東京の二通りで、ゴールはいずれも駒場練兵場。これを、一一月二五日から二八日にかけての三日間、二班にわかれて競う。レース当日は、どの馬も全負担重量六五キロ以上を背負うことになっており、中には、騎手の関係だろうか、なんと九〇キロを背負った馬もいた。
 のべ四〇時間近くにわたる競走の結果、一等になったのは、仙台からの第一班が福島県産ギドラン雑種「常夏」号(一三歳)。名古屋からの第二班は岩手県サラブレッド雑種「慶雲」号(九歳)。四頭が競走中止し、二頭が等外として落伍したと記録されているが、それ以外の馬も疲労はもちろん、鞍傷、交突、腱肥厚、屈腱炎など、大なり小なり故障を発生している。全馬平均して体重減少約二五キロ。苛酷な遠乗りだったのだろう。
 事実、大会前に各地の愛馬家の間で「無謀な大会だから良い馬を出さない方がいい」という配慮が働いたフシもある。当時は「優良なる実用乗馬は二歳に於て其多くを官憲に収容され三歳にて相当多数を買収せられるから残れるものに大したものはない」状態。軍馬として十分に訓練された馬たちの遠乗りはあっても、民間のふつうの馬たちのこのような長距離競走は過酷であり、異例だった。現に、大正八年三月に神戸乗馬倶楽部主催で行われた神戸~京都間の遠乗り競走など、ろくに事前の調教もしないまま、三〇頭が七〇㎞あまりの行程をなんと平均時速二五㎞で走り続けたため、倒れたり、死んだりする馬が続出している。あとさき構わず駆り立てられた馬こそ災難だ。


 機械の普及は、その力に対するおどろきから、生きものを機械の側に同調させようとする意識を生じる。自転車などが身近なものになってきた明治末から大正期にかけて、このような遠乗りの試みが急に増えたらしいのは、決して偶然ではない。
 ともあれ、それでも、当時の道はまだ馬たちが歩ける道だった。ひろびろとした風景の中を、まなじり決した選手と馬がゆく写真の数々。今、砂ぼこりもなく、でこぼこもなくなったアスファルトの道を急ぐ遠乗りの馬など、もうどこにもいない。



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*1:JRAの広報リーフレットみたいな媒体『エクウス』の連載原稿の一回目。当時、これで喰っているちっちゃな編集プロダクション、いやそこまで行かない個人の編集無宿みたいなのがいた時代。新宿御苑の裏の方の雑居ビルに事務所があった。懐かしい。