「戦後」が始まっている

 とにもかくにも、1992年の春である。

 見わたせば、何も視界をさえぎるもののなくなったこの高度消費社会の原っぱに、すでに誰も信じていない大文字の言葉ばかりが、春がすみのように薄くたなびいている。

 「学生」はもはやそれだけでは何も意味しないほど漠然とした言葉になり、「若者」という、これまた漠然とした呪文と同義語になった。「大学」はそこら中にあるし、そう願い、少しばかり勉強するふりをすれば、誰もがそれなりに居場所を与えられる。といって、そこが学問する場所だと本気で思う人間はいない。第一、その「学問」からして、春がすみの中、すでにもとのかたちすらおぼろにほどけ、見えない。

 学生ならば当然読んでいなければいけない本や雑誌というのも、以前は確かにあったらしい。だが、僕自身の記憶を掘り返してみても、そういう定番の教養の範囲をきちんと筋道立てて示してもらった覚えはない。僕がいい加減な学生だったことを考慮しても、今から十五年ばかり前、七〇年代後半には、すでにそんなものは存在していなかったと言っていい。そりゃ自治会はまだあったし、社会科学研究会なんてのもあって“勉強”するのもいたし、形だけの「左翼」カルチャーだってもちろんまだそこら中にあったけれど、十五年前のあの春の段階で、われら生意気盛りのガキどもの統一見解は、すでに「それってなんか違うよなぁ」だった。その頃まではまだ辛うじて 常識 だったかも知れない“知識人予備軍としての学生”という基準は、もうそれほど頼りないものになっていたのだ。

 マルクス主義が学生の 常識 だった時代もあった。学生どころか新聞や出版方面、いや、本を読む人のかなりの部分がそうだった時代も、ついこの間まであった。それはあまりに 常識な分、ただの雰囲気になっていた。だが、ただの雰囲気としてのその「左翼」の定番のもの言いを、身につかないまま小手先で組み合わせたり、当てはめたりしているだけで、何か現実を獲得したつもりにうっかりなれたりした。で、その「左翼」を、「構造主義」や「フェミニズム」や「記号論」や、その時々に立ち上がってはじきおぼろになってゆく大文字の言葉に取り換えたところで、事情はさして変わらないままだった。そうして言葉は世間から引きはがされ、なけなしの信頼までも失っていった。

 もういいよね、そういうの、という感覚も、もちろんかなりの程度共有されてきていた。だがその、もういいよね、という感覚は、信頼できる言葉をつむぐためにあったはずの学問という作法までいきなりなかったことにする方へ、性急に向かってしまった。だから、突然飼い主のいなくなった犬のような心細さの言葉だけが、この時代、この原っぱには漂っている。それでも生きている以上、生身の体験は日々それぞれに蓄積されてゆくけれど、それは言葉以前のまま放ったらかされ、手もと足もとで使い回せる 経験 にはならない。時間や空間や、人の世のあらゆる文脈から浮いたまま、きちんと形になれないままのいじけた“自分”は膨大に押しあいへしあいし、漠然としたふてくされ気分を力なく呼吸する。

 この息苦しいまでの“自分”の難民収容所にもまれながら、あぁ、もう「戦後」が始まっているんだなぁ、と僕は思う。

 どこにも爆弾は落ちなかった。誰も突然見知らぬ戦場に連れてゆかれたりはしなかったし、遺骨になって帰ってきたりもしなかった。けれどもここ十年あまり、意識のある次元に対する容赦ない絨毯爆撃に歴史はずたずたに分断され、自分のつむいだ言葉に責任を負わない死人に等しい態度が、今やそこここに転がっている。眼の前に広がる原っぱはそのまま、確かな言葉をつむぐ作法をまるで忘れた結果の広大な焼跡だ。

 それでも、焼跡に芽吹くものもある。個々の意志とは別に、言葉を切実なものにしながら自分を作るしかないタチの人間も、本当に不幸なことにいてしまう。だとしたら、その学問の作法と言葉とをもう一度いきいきさせることに責任ある立場の学生だって、おぼろにかすんだ大文字の「学生」の中にもう含まれていたって構わない、と僕は思う。現代思想おたくやただの優等生でなく、ゆったりと大きな手を広げて、自分の足もとから確かな言葉をつむいでゆける作法を身につけたいと願い、そしてそこへまっすぐ大股で歩いてゆく健康な知性。そういう「書生」であることをひとまず自分に課してみよう、という人が、まずこの焼跡の学生の中から、もう自発的に生まれなければならない。そのように思い、その思いを整えながら具体的に自分の暮らしを鍛え直してゆくことからしか、言葉は確かに力を宿し得るということを、そして、学問は確かに世の中の役に立つということを、もう一度この社会の 常識 にしてゆくことはできない。だから、この先、僕はそれをやる。

今日の国家があらゆる犠牲を忍んでも、優秀なる次代国民を養成しつつある本旨は、一言をもってこれを表するならば、学問知恵以外に、到底日本をより幸福ならしむる途は無いといふことを信ぜしめたいばかりである。陰邪どん欲は正理と公明の前に、逃避し去るべきものなることを、学ばしめたいからである。不幸にして進路に故障多く、過去五十年の功程は、いまだ誇るべき何物をも彼等に引継ぎ得ないのは事実であるが、さればとて強ひてその不手際を弁疏せんが為に、実社会は永久のかくの如きものなりと、力説せんとするのは愚の極である。果たしてその通りに学問も役に立たず、理論が三文の値も無いものならば、国に高い学校を設けて、有為の秀才を永く実際から遠ざけて置く必要は無かったのである。」

――柳田国男「学生と社会制度」『朝日新聞』1926年7月17日

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*1:休刊直前の『朝日ジャーナル』で始まった連載だった。タイトルは「書生の本領」。巻末には岡崎京子の「オカザキジャーナル」が載っていた。思えばあれはまだどこにも収録されてない。