叩く側の誠意、叩かれる側の貫禄

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 ここしばらく、右へならえして左翼叩きが始まっている――。

 なんて、すでにどこかの新聞の囲み記事なんかで誰かが必要以上に深刻ぶって言ってるかも知れないけど、そりゃ違う。勘違いだ。正直に言おう。それは“叩き”というほど元気の良いものでもなくて、すでに長い間意味のない、ありていに言って世の中の大勢から相手にされないようになっちまってたものを、もうおおっぴらにバカにしていいってことになっただけなもんだから、せいぜいがいじめ、ないしは気まぐれな虐待に等しいありさま。水に落ちた犬どころではなく、絶対に噛み返したりしない歯抜けになった犬を、通りすがりにいたぶってるようなものだ。で、たかがその程度なものだから、いたぶる方もあまり心晴れ晴れとはならなくて、あまりの手ごたえのなさに、まわりでは「今さらどうでもいいじゃん、そんな犬」という気分すらどんより醗酵し始めている始末。ほらほら、きっとみんないじめにくるに違いないぞ、と自意識過剰気味に妙に身を堅くして歯をくいしばってたりしたいたぶられる方は拍子抜けして、なおのこと救われなかったりする。

 まぁ、そりゃあね、いじめにせよ虐待にせよ、正面きって「やっぱおまえらおかしいじゃん」とやられる局面が現実のものになるのが遅過ぎたくらいのものだと思うし、せっかくだから、やるならもっときちんといじめて役に立つことばにしろ、と真剣に思う。そこらへんは僕もほとんど同情的にはなれないのだが、しかしそれにしても、昨今ここぞとばかりに居丈高に左翼いじめ、左翼虐待気分に乗る側の問題というのもやっぱり根深くあるよなぁ、と思ってしまう。叩く側の誠意ってのもあれば、叩かれる側の貫禄ってのもまたあるわけで、どちらもそれを抜きにしたままのことばの応酬、うっぷん晴らしなんて、どんなに「論争」ぶってみせようとも、やっぱタチの悪いものにしかならない。

 あらかじめお断りしておきますと、僕はそんな大層な大文字の思想的立場なんて持ち合わせておりません。ただ、やっぱりそういうある時代の文脈に乗ったところで発言され考えられてきて、なおどういう理由からかそのままほぼ文脈抜きにリレーされてきたものって、やっぱりもう一度それぞれもとの文脈に即して考慮しようとしないことには、本当の意味での知恵にはならないだろう、とまぁ、ひらたく言えばそういうことなんですが。

 あたりまえを支えていたものさしが変わってしまえば、それは確かにそれまでのあたりまえだって全然あたりまえじゃなくなるわけ、そういうのを見れば馬鹿馬鹿しくなったり茶化したくなったりするというのもよくわかる。それはやっていいのだ。思いっきり笑って馬鹿にしていい。いいのだが、しかしそのあたりまえじゃなくなったものがついこの間まであたりまえだった理由ってのは一体何なのか、それをあたりまえにしていた眼に見えない雰囲気や空気というのはいったいどういうもので、どういう仕組みでできあがったものなのか、という部分を同時にしっかりことばにして共有財産にしておかねば、これから先、生きてゆく上で何の役にも立たない。たかだかその程度のあたりまえに過ぎないものだったってことが、どうして自前でほどけなかったのか、どうしてきちんとわからせられなかったのか、という問題はどこにいたって残るんだから。

 今の、なんだか知らないけどたまたまソ連がわやくちゃになったりなんだりで出現したに過ぎないポッと出のあたりまえに、ただなんとなく乗っかったままの左翼いたぶり気分は、きっとまた次のあたりまえがやってきた時に、まるで応用のきかないものにしかならないだろう。あたりまえとあたりまえの狭間を波乗りしてやりすごすことが世渡りだ、とばかりに開き直るのならそれはそれだが、たかだか波乗りに過ぎない程度のものを正義と錯覚して吹け上がるのはあまりうまくないし、第一、そういうのはもういい加減うっとうしいじゃないか。

 もちろん、その程度の図に乗った左翼いたぶり気分に一律に首うなだれて、それでも「だからといって資本主義が勝ったわけじゃな」とかなんとかボソボソ言い訳めいたもの言いをして後ろ向きに黄昏るばかり、なんてのはもっとどうしようもない。「進歩的知識人の犯罪」なんてのはさすがに悪くない企画だと思うし、ひとまずその心意気に僕はエールを送るのだけれど、でも、どうしてそれをこれまできちんとやらなかったのか、やれなかったのか、という問題も別にあるのだ。歯も牙もしっかりあって、どういう根拠でだかはわからないけどそれなりに元気だってあった頃の犬に向かってしっかり喧嘩をしかけることをしないまま、今になって「ほォらみろ」っていうだけじゃ、じゃあどうしてこうなるまでその犬をそのままに放っておいたのさ、ということだってあるのだ。

 この際乱暴なことを言うが、ありがてえ、長生きはするもんだ、こりゃもう一度革命ができるぜ、と腕まくりする左翼がただの一人も出てこないのはどうしてなんだろう。それをしも“革命”と呼ぶのかどうかはもちろんまた別なのだが、要するに世の中を住み良い方向に変えてゆくということについては似たようなもんでェ、とひとまずずさんな太っ腹を見せるのも、今のこの国のことばをめぐるあまりに息苦しいありさまを見ていると、ひとつあっていい選択肢、敢えて演じてみる価値もある身振りだと思う。だって、よく知らないけど、少なくともこの国で報道されてる限りじゃ今のロシアって食いものがなくて、人々はおおむね困っているらしくて、このままじゃまずいと思っていて、っていう状況なんでしょ。だったら、ほら、革命っきゃないじゃん、なんてうっかり言い出すのがただのひとりもいないのって、やっぱりなんか妙だよなぁ、と僕は思うのだが。

*1:朝日ジャーナル』、「書生の本領」連載原稿。