高橋喜一郎 聞書――天体望遠鏡「TS式」製造

 Star Gazer という言葉が英語にはある。文字通りには「星をのぞく人」。だが、転じて、「現実離れした夢ばかり追いかける人間」というような、あまり名誉とは言い難い意味もあったりする。

 白状すれば、僕もその Star Gazer ――言わば天文少年のはしくれだった時期がある。ちょうど小学生から中学生にかけての頃だ。今は亡き日下英明さんの『星座の手帖』なんてのを年がら年中持ち歩き、暇さえあれば開いていた。汚れるのを防ぐため自分でビニール袋を切り開いてカバーをつけたりしていたくらいだから、まぁちょっとした“ライナスの毛布”だったのだろう。

 当時とっていた天文マニア向けの雑誌に並ぶ天体望遠鏡の広告の中に、「高橋製作所」という名前があった。広告は地味で、デザインそのものも武骨で、値段にしても他のメーカーのものより割高の製品ばかりだったけれども、しかしその性能と品質については年かさの天文マニアたちの間で絶大な信頼を受けていた。天文台に据え付けられるようなプロ仕様の大型望遠鏡ならいざ知らず、巷のマニアが個人で使う小型望遠鏡としては世界水準の製品を作っているのだ、と教えられた。今はもう撤退してしまったが、当時は大手の日本光学もご存知「ニコン」ブランドでまだ天体望遠鏡を作っていた頃、それでもちょっとスジの通ったマニアたちはマニア独特の偏屈さと誇りのいりまじった表情で、「タカハシ」を熱烈に支持していた。「愛機は?」「いや、タカハシの十五センチ反赤(反射式赤道儀)でして」なんてことになれば、それはもう猛烈な羨望の眼で見られたものだ。

 もちろん、こっちはたかだか小学生、そんな天体望遠鏡を小遣いで手に入れるなんてことはとてもできない身の上、せいぜいが普及型の小さな屈折望遠鏡を親にしつこくねだり続けてようやく買ってもらい、おそるおそるのぞいて有頂天になるくらいが関の山だったけれども、そこはそれ、良くも悪くも高度経済成長期にものごころついた世代、手に入らないなりにカタログを集めてああでもないこうでもないと想像していた次第。その「タカハシ」のモデルのスペックを暗記しては仲間とその知識をひけらかしあっていたものだ。ここらへん、今のカーマニアと大差ない。

 その世界に冠たる品質を誇る天体望遠鏡メーカー高橋製作所は、しかし会社の大きさとしてはほんの町工場程度、掛け値なしに小さな小さな会社なのだ、ということがすでに当時半ば伝説として誇らしげに語られていた。会社のある場所は東京都下板橋。戦前は工業地帯として栄えた街。もともとは鋳物工場だったけれども、オヤジさんが根っからの天文ファンで自分で自作の望遠鏡を作っていたのがこうじて本業になったのだ、というオチがつくのが常だった。

 この国の町工場の底力。「日本資本主義の二重構造」なんて術語を大学で習ったような記憶がある。だが、その「二重構造」の中にあったそれぞれの生のふくらみや心意気といったものは、まだまだあまりきちんと語られてはいなかったりする。第一、どこにでもあるような小さな鋳物の町工場が、その気になればうっかり世界水準の天体望遠鏡を作ってしまうような技術力を持っているということは、外国から見ればかなり不気味なもののはずだ。

「私の父が鋳物屋の職人だったんです。生まれは芝の方です。一九二一年ですから大正十年ですね。芝には東京における鋳造業者の集まりがあったんですよ。今でもあのあたりには町工場がいくつもありますよ。一の橋とか二の橋のあたりです。で、私が生まれて二年ばかりして震災があって、それで池袋に移ったんです。それから昭和七年ですか、新しく工場を作るってんで、池袋のそばからここ板橋に移ってきたんです」

 天体望遠鏡の「タカハシ」、マニアならまさに垂涎ものの望遠鏡を作るその総本山高橋製作所の会長高橋喜一郎さんは、作業着を羽織った姿でゆっくりと煙草をふかしながら話してくれる。色白の柔和な顔。話が技術のことに関わってくると時折ギラッと鋭い眼つきも走るが、基本的には技術屋さんらしい落ち着いた語り口だ。

 会社は中山道から少し入ったところにある小さなビル。今では工場はまた別のところに移っているので町工場という印象はますます薄くなっていて、とにかく光学機械製造というなにやらハイテクめいたイメージとは全くかけ離れている。看板もごくそっけないものがひとつきり。それも注意して見上げなければ見逃してしまうような小さなものだ。愛想がないったらない。

「そんなわけで家業が鋳物屋だったから、いきおい自分も鋳物の職人になったんです。父は自転車の部品などをよく作ってましたね。継手や、ハンドルとフォークをつなぐポストってやつね。あと、ハンガーとかも盛んにやってました。あたしもずいぶんやらされましたねぇ」

 当時、板橋はすでに一応の工場地帯。光学機器メーカーもいくつかあった。「東京光学、旭ペンタックス、その頃は違う社名ですけど。キャノンもありましたね。このへんは下請けさんが比較的多いんでね。品物作るんでも便利だって事情があったんでしょう」

 だが、それにしても、だ。もともと光学機器と直接縁のなかったはずの町の小さな鋳物工場がどうして天体望遠鏡を作るようになったのか。

「そうですねぇ、そこらへんは話せば少し長くなるんですが、一応会社として言いますと、望遠鏡を作るようになったのは戦後なんです。私が兵隊に行ってましてね。インドネシアの戦地から日本に帰ってきたのが昭和二十二年だったんです」

 入隊したのは「近歩三」といって近衛歩兵第三連隊。二・二六事件の時の叛乱部隊だったせいで、その後最前線ばかり回されて消耗の激しかった部隊だ。ノモンハンから仏印、マレー、シンガポールと点々としている。最後はスマトラ警備に送られた。

「ただ、私は昭和十八年の現役召集ですから大陸のことなんかは知らない。輸送船に乗せられていきなりスマトラです。で、終戦前に今度は部隊がインド洋のアンダマン諸島に送られそうになったもんで、あそこに行くとロクに井戸も出ないし補給もこないしで餓え死にだぞ、ってんで、ちょうどその頃あった憲兵募集に応募してね。それでシンガポールにあった憲兵の教習施設に回されてて助かったんですよ」

 抑留されて復員まで手間取った。憲兵だったこともあったかも知れない。で、帰ってきてみれば日本はもちろん戦後の混乱期真っ只中。

「とにかく食わなきゃいけない。その頃はみんな鍋だの釜だのが非常に不足してたんで、作ればどんどん売れたんです。もともと職人でしょ。それで鍋を作ったんですね。 材料っていうと飛行機の残骸を買ってきてね、そういう古金屋がこのへんにもいっぱいあってですね、そこから、材料入ったから、って連絡がくるんですよ。すると馬車なんか引っ張ってって買ってくる。飛行機の羽根だのね、プロペラだのがあるんです。日本軍のものですよ。しばらくそういう材料があったなぁ。それを斧でもって叩いて小ちゃくして、炉に入れて溶かすんですよね。それを型に入れて鍋を作る。今度はそれを新宿の西口の小津組マーケットに持ってゆきましてね、アンちゃんにショバ割りしてもらって売るんです。主に鍋でしたね。もう作るのが間に合わないくらい売れたですね。半年くらい鍋ばっかり朝から晩まで作ってね、間に合わないから穴があいたやつもできるんですよ。そこへ銀粉とロウソクのロウを溶かしたやつを詰めちゃってね、売っちゃうわけです。悪いことしたなぁ、と思うけどね(笑)」

 必死だったのだ、と言う。なるほど、芸は身を助けるとはよく言ったものだ。

「それでね、その後になって朝鮮戦争が始まった時、今度は双眼鏡がものすごく売れたんですよ。アメリカのGIさんの軍用としてもお土産としてもね。それで一気にこのあたりの光学屋は儲かりました。儲かるからそれまで比較的大きな光学屋の下請けに勤めていた技術者が独立してね、それぞれまた双眼鏡を作り始めたわけですね。で、競争するもんだからすぐにコストを下げる工夫をして安くできるようになったんです。そんなわけで板橋は日本における双眼鏡の最大の産地になっちゃいまして、それは今でもそうですよ。 で、双眼鏡のボディも鋳物ですからそういうところと取引しているうちに、私の個人的な天文のお師匠さんで、これも望遠鏡メーカーとしては老舗なんですが五藤光学という会社に勤めていた人が独立して日本テレスコープという会社を作ったんです。ところが、お酒が過ぎてその人が脳溢血で急死しちゃった。で、そこに製品を作らせていたアメリカのスイフトって会社が、あたしが天文好きだっての知ってたから、あんたやる気があったらひとつまとめてくれねェか、ってそのしかかりになった製品をなんとかしてくれって言ってきた。それで初めて会社として望遠鏡をやり始めたんです。昭和三十四、五年頃ですね」

 戦後の日々、ほとんど誰もがそうだったように、食べることだけを考えて働いてゆくうち、ひょんなことから高橋さんは天体望遠鏡を作るようにはなった。けれども、もともと持っていた天文ファンとしての「趣味」の部分は、戦争前、まだ充分に余裕のあった東京の市民生活の中で育まれたものだ。

 僕たちは「戦前」と「戦後」をまるで違うふたつの時代のようにわけてしまうことにいつしかならされてしまっている。大文字の政治や制度といった水準での歴史は確かにそうなのだろうけれど、しかし、いつ始まっていつ変わっていったのかよくわからない日々の暮らしのこまごました流れという意味では、そのような線で引いたような時代区分はあまりリアルでもなかったりする。むしろ、平和の始めにある達成を見ていた“豊かさ”が、国をあげての総力戦体制で停滞させられた時期をくぐって、敗戦によってもう一度あらたなスタートラインについたという面もあるのだし、少なくともその後、高度経済成長を通して実現されていった暮らしの変貌というのは、つぶさに見て行けば、昭和の始め、中途半端なところで途絶されたこの国の「近代」の夢の敗者復活戦だったんだな、ということもわかってくる。

  “豊かさ”は“趣味”を生む。文化とはそういう“趣味”をさらに時間をかけてある共通の約束ごとにしていった果てに初めて現われる。今、この国の“豊かさ”は果たしてこの先それだけの辛抱をしてゆく覚悟があるだろうか。

「天文は子供の時分から好きでね。池袋に住んでた時でも、遊んでて夜になると銀河がキラキラ見えるんですよ。子供心にも不思議に思ったもんですね」

 小さな頃の記憶をたどりながら、空への想いの始まりを探るように高橋さんは話す。

「その頃は、滝野川にレンズ工場が沢山あったんです。今は違いますが、その頃は赤いベンガラ、つまり酸化鉄ですね。あれを使ってレンズを磨くんですよ。それが飛び散って職人さんの草履の裏にくっついて歩き回るから、レンズ工場のまわりは地面が赤くなってんですよ。そういうところ行っちゃね、おじさんレンズくれよ、レンズくれよ、ってせびるわけ(笑)。そしたら職人さんがオシャカになったやつ、欠けたやつなんかをくれる時あるんですよ。もらってくるともう得意になって何かもの見たりね。そんなことしてたなあ。今でもそうですよ。レンズがあるとついこう何か見ちゃう」

 ガラスの歪みをある論理で整えた不思議な仕掛けを通してのぞかれる世界のみずみずしさ。それは、世界に対する感覚の根っこのようなものとして、幼い高橋さんの中に刻みつけられたらしい。

子供の科学』って雑誌があったんです。で、それに毎月天文の記事が載るんです。秋の十月には天文特集っての必ずやってね、そこでパンフレットみたいなのがおまけにつくんですよ。そこでやたらと望遠鏡が欲しくなってね。なんとか作れないかと思って自分でああでもないこうでもないと工夫したんです。いやあ、ずいぶんやりましたよ。縁日行くと老眼鏡のレンズだけ売ってるでしょ。あれを買ってきてね、あと虫眼鏡の度の強いやつを買ってきてね、組み合わせると一応大きく見えるんですよ。そういったものを初めは何本も作りましたよ」

 ただ、人間には向上心というものがある。そんな程度で最初は喜んでいても、じきに飽きてくる。「これはアマチュアの病気みたいなもんでねえ。必ず、今持ってるものよりも大きな望遠鏡が欲しくなるんですよ」 というわけで、次に手を出したのが通信販売のキット。

「これはものすごく高かった。屈折のレンズで四センチくらいのが私の作った一番大きいものだったんですけど、それでもレンズだけで三円くらいしました。子供の小遣いなんて月に一銭くらいでしょ。働くようになっても月に一円くらい。それも前のレンズだけでしょ。接眼レンズはまた別に三円くらいするしね」

 そのうちに、今度は反射望遠鏡の主鏡を自分で磨くようになる。レンズを組み合わせて使うのは屈折式、それよりも大きな口径が欲しければ、アマチュアではやはり反射鏡とレンズを組み合わせる反射式が有利なのだ。

「当時、木部さんっていう鏡磨きの名人がいまして、これは日本における鏡磨きの第一人者です。京都のそばの浄土宗のお寺の一番偉い人でね、なんか大正天皇の姻戚だったみたいですよ」

 これは僕も聞いたことがある。“木部鏡”の名前は、ある時期まで天文少年たちの必ず身につけておくべき基礎知識のひとつだった。そんな断片の知識や名詞を蓄えて、彼らは彼らのつきあいの作法を作ってゆく。そのような情報量がある一定の水準にないことには、“仲間”として認知されない。“趣味”はその程度には排他性を帯びる。

「さっき言った『子供の科学』とか『科学画報』とかって雑誌の通信欄や広告に、そんな鏡磨きの人の情報なんかが載るんです。それで名前を知りましたね。今でも僕が、木部先生の鏡持ってる、って言うとびっくりされますよ。もちろんまだ使えます。ただ、ガラスが青板ってって昔のガラスでね、温度変化が激しいんですよ。観測しようと思うと昼間から表に出して(気温に)なじまさないと狂っちゃう。
そんなんで十センチの反射鏡を磨いて、それを兵隊に行くまで使ったんです。でも、兵隊に行くったってもともとそんなんでしょ。南方の空ってのは非常に興味がありましたね。だから、歩哨に立っても空ばっかり見ててね。たまに巡察って見回りがくるんですけど、それに見つかっちゃってね。おまえさっきから見てるとまわりを警戒しないで空ばかり見てるのはどういうことだ、って叱られる。そこは海岸べりだったんで敵の潜水艦がよく来てたんですが、それがたまに合図の曳光弾を打ち上げてたんでね、いや、曳光弾が上がったんで方向を見定めるために空見てました、なんてごまかしてね(笑)」


 この国の人々の天文への関心は衰えているわけではない。彗星だの日食だのといったできごとに乗った一時的なブームは別にしても、星と夜空に興味を抱く人たちは確かにいる。とりわけ、カメラの爆発的普及によって今では天体写真を趣味にする人たちが新たに増えた。だから、天体望遠鏡にしてもカメラのマウントがあたりまえで、そのためのモータードライブ装置もビギナー向けのモデルはともかくある程度以上の機種には必ずつけられるほどだ。コンピューターと接続して画像処理できる装置まで、アマチュア向けに用意されているし、そんなこんなでここ十年あまりに限っても、天文ファンの絶対数は間違いなく増えてはいるのだという。だが、それがそのまま高橋さんの会社の作る望遠鏡の売れ行きにつながるわけでもない。

「今は子供さんが減ってるせいもあると思うんですが、売れ行きはやっぱり悪くなったかなぁ。これは今から十年くらい前の統計ですが、天体望遠鏡の市場が四十億円なんて言ってたんです。そこにメーカーが十社以上ひしめいてるわけです。今はそれよりは市場が脹らんでいると言っても、まぁ大体どういう状態か想像がつくでしょう。新規参入する会社なんて、まず考えにくいですよ」

 また、都市化が進み、夜空を見上げても星が見えるほど暗い場所など本当に少なくなった。天文ファンはこれを“光害”と言いならわしてきた。が、今やそんなもの言いすらくすんでしまうくらいに、街路は水銀灯が立ち並び、どんな郊外にも人の住む証しのようにまばゆい光があふれる。

「それは確かに残念なことですね。でもね、見えないからあこがれるって面もあるんですよ。田舎の人ほど、案外星なんか見ていなかったりするんですよ。私は山登りも好きで、今でも会社の新製品のテストなんていうと富士山の五合目あたりまで機材を持っていってやるんですが、それにも必ずついてゆく。で、いつだったか、奥多摩の方のある山に望遠鏡かついで登ってね、山小屋なんかで話してると、地元のオヤジがまるで星のことを知らなかったりするんですよ。いつもあたりまえに見えているものっていうのには人間わざわざ関心持たないものなんだなあ、と思ったことがありますよ」

 会社は小規模ながら、一族も含めて家族のような雰囲気。ちょうど海外出張に出かけるところだという若い社員たちに、「おっ、ご苦労さんご苦労さん。エイズに気をつけろよ」と気さくに声をかける。本当に町工場のオヤジさんという感じなのだ。そして、この先もそういうレンズ道楽、“趣味”の領域に忠実なところはきっと変わらないだろう。

「顕微鏡も買いましたよ。あれは望遠鏡と同じ原理なんです。で、ちょうど学校にちゃんとした生物顕微鏡があったんである日のぞいて見たんですよ。すると、何百倍なんて言ってても学校の生物顕微鏡の方がはるかによく見えるんです。あたり前なんですけどね。ああ、値段の高いものにはかなわないなぁ、というんでね。もう買うのはやめたんです」

 ただ、一台だけ道楽で買ったのがある。ドイツのカール・ツァイス社製の一流品。「でも、自分ではもうのぞきませんね。子供でも孫でも興味あるのがいたらいつか譲ってやろうと思ってます」