いま、この国で「ちゃんとする」ことの難儀


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 行くべき先が見つからない。

 自分が今の仕事を続けて5年なり10年なりたった時、こういう風になっていたい、というお手本というか目標というか、そんな目指すべき到達点が見えにくくなっている。

 たとえば、「ちゃんとしたい」という欲望がある。ここ1年ばかり、悪い熱から醒めたような季節に静かに浸透してきている“気分”があるとしたら、そのかなりの部分はこの「ちゃんとしたい」というもの言いに収斂されるある種の渇きに規定されている。

 野放図なまでに膨れ上がりもした自我拡大の幻想は今やみじめにしぼみ、もともと何の目算があったわけでもない、ただ漠然と熱気球が膨張するに任すようなものだっただけに、膨れ上がる前、もとあったかたちもよくわからないまま、その分、しぼみながらの目指すべきかたちを見つけようとした時には同じく漠然とした大文字の、あまり切実でもなさそうなあるべき姿しかないという道理。それをひと口にくくってしまえるもの言いが「ちゃんとする」なのだ。

 だが、確かにもうそろそろうわついてないで「ちゃんとする」のが利口な季節なのだとして、その「ちゃんとした」状態の時の自分というのが一体どのようなものかが、具体的なイメージとして見えていない。見えないならば何か仮りにでも雛型を置いて、それを一応の目標にしながら自分の道筋を見つけてゆくしかないのだが、その雛型からして身近に発見できない。だからいずれにせよ、いざ自分が具体的にどうすればその「ちゃんとする」に近づいてゆくことができるのかを考えると、確かなプランは立たないまま。その不安を解消しようとジタバタすると、不安を支えるだけの「自分」があいまいなものである以上、これまたあまり意味のない「自己啓発」や「自己投資」に身を預けてみたり、何も言っていないに等しい大文字の能書きだけで寄り集う「社会運動」に吸い寄せられたり、あるいはそのはっきりしない自分の不安と同じ程度に漠然としたもの言いしかない「宗教、のようなもの」にハマってみたりする。で、どんなジタバタに進んでゆくにせよ、眼つきはどれもほぼ同じ、問題となっている「自分」の不在という状況は相変わらずなのだ。

 それでも、その「ちゃんとする」ことが今は大切なんだということが自分はわかっている、と思い込んでいる分、その「ちゃんとする」のもの言いは、これまでそれだけは確かなもののように持ち続けてきた意味なく他人との間に障壁を築いてひよわなままの自我が傷つかないですむ装置につながってゆけるから、意識の連続性に決定的な断層を入れずにすむ仕掛けだけは意味だうまく作動してしまう。たとえば、今の段階でなお80年型の消費志向の強い意識を保持している“イケイケ”と呼ばれる若い女たちの身ぶりに対して、男よりもむしろ同世代のある種の女たちから最も忌み嫌う雰囲気が発されていること、あるいはまた、少し前までなら得意満面、衒気にてらてら輝いていたはずの「マーケッター」だの「トレンドウォッチャー」だのと称する広告業界系天気予報屋たちに対して、どこか冷ややかな嘲笑の視線が公然と浴びせられるようになってきたことなどは、一見、80年代に膨張、蔓延した極端な相対主義を前提にした高度消費社会に対する現状肯定の気分と、そこから発する「自分」の内実の蒸発現象に対する健康な批判力が回復されてきたかのように見えてはいても、それに対する確実な「ちゃんとする」の具体像が未だ芽吹いてこない現状では純度の低い単なる排除の論理、あまり積極的に評価できるものでもない。

 その論理はそのまま、その延長線上に「ちゃんとする」の無条件の絶対化を簡単に招く。たとえば、今や良くも悪くも日常化したエコロジーPKOがらみで持ち出される大ざっぱな国連主義、あるいはポスト冷戦の現実に対するユートピア主義といったもの言いがここ半年ばかりの間に何か白っぽい清潔感をまつわらせ、決して高電圧ではないのだけれども確かにそれには抗い難い、という諦め感覚の供給源になってきたことを考えると、先の参議院選挙での日本新党の躍進なども含めて、ああ、そんな漠然とした「ちゃんとする」を基準にした輪郭のはっきりしない淫靡な“常識”主義の形成が始まっているのかもしれないなぁ、と思う。80年代を通じてある程度の足場を築いてきたいわゆる新保守主義系のもの言いなども、この“常識”主義の中に呑み込まれてゆく限りこの先もはやあまり成果は期待できないだろう。どんな立場にせよ、この“常識”主義が形を変えたナショナリズムの代償物としての役割を果すようになる事態まで含めてことばにし、筋道立ててものを考える場に引きずり出す腕力がないことには、本当に「ちゃんとする」ことの内実を作ってゆくことは遠いままだ。

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 「ちゃんとしたい」、だが具体的にはどうしたらいいのかわからない、という事態は、しかし、これまでこの社会が曲がりなりにも共有してきた「ちゃんとする」のイメージが軒並み棚落ちしていったのがここ10年ばかりだったことを考えてみれば、別に何の不思議もない当たり前の帰結だ。問題はここから先、これまでと違う「ちゃんとする」の最大公約数をどうやって編み直してゆくか、ということだ。

 とりわけ、女たちについてその問いは切実なものとしてある。これまでこの社会は世間に出て当たり前に働いてゆく女たちの自己イメージを正面から作ってはこなかったわけだから、既成のものとしてそんな「ちゃんとした」女の雛型なりイメージなりが確固としたものとしてあるわけがない。仮りにわずかでもあってたとしたら、それはいわゆる水商売の場の身ぶりや意識だと思うのだが、しかしひと昔前までの妙な「キャリアウーマン」幻想に舞い上がれた頃ならいざ知らず、今やそれをそのまま企業社会に持ち込むこともできないってことぐらい概ねわかり始めている。僕に言わせればあの「キャリアウーマン」ってのは、「ちゃんとしたい」という欲望を抱えてどうしようと考えた末、それまでこの社会で形成されてきた水商売の身ぶりと意識を雛型にしながら「ちゃんとする」ことにある具体的な輪郭を与えようとした堅気の女たち、ってことだ。仕事バリバリの女の人で、若い頃はニュースキャスターみたいな身ぶりだったのが、三十路を過ぎてそろそろ更年期などが近づいてくるとなんだかほとんどオヤジ化してくるという転変はよくある。で、それもなんだかちょっとねぇ、ということになった以上、今のおおむね30代前半から下の世代、言い換えれば雇均法(男女雇用機会均等法)以降の世代の女たちは、その今までどこにもなかった「ちゃんとした」女性像をこれから少しずつ作ってゆくしかないのだ。

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 この水準になると、問題は基本的に男の場合と全く変わらなくなる。「社会進出」に伴うリスクとはそんなものだ。仕事の関係の中で出会い、つきあわざるを得ない自分よりも年上の、経験も積んだ「大人」たちの中で、5年後、10年後の自分を重ね合わせて、よしやるぞ、と元気が出るような存在があまりいない。ああはなりたくないなぁ、とか、頑張ってやってもあの程度かぁ、というため息がせいぜい。じゃあもっと違うかたちの5年後、10年後というやつを自分を先例としてやってのけよう、という気になっていいはずなのだが、とてもそんな腰の上がり方はできない。条件さえ恵まれていれば、「趣味」なり「レジャー」なりという私的な世界を代償にしながらやり過ごす知恵くらいはつくけれども、そしてそれは昨今のこの国の企業社会が「余暇の充実」てな能書きでイチ押ししてきていることではあるけれども、結果として、自分と社会をつないでゆくその最も手近な端末のひとつである仕事に対する腰の引け方をなしくずしに許容するようになっていることについての功罪は、これから先、長い時間をかけて検証し、微調整してゆかねばならない問題だ。それは敢えてやや大文字で言えば、資本主義の活力とは社会のどの部分にどのように宿ってきたのか、ということであり、その活力をこの先保証しなくてもやっていけるのか、いけるとしてそれはどのような資本主義になり得るのか、またやっていけないのだとしたらどうその活力を奪還してゆくのか、その拠点はどのような場所になり得るのか、などの本質的な問いにつながってゆく。

 「立身出世」という大文字の物語がまだ作動できるだけの状況があり、事実何らかの具体的なイメージがその物語にまつわって立ち上がってきた頃ならまだしも、「立身出世」の果てにあるのが過労死であったり、結婚しないかも知れない症候群だったり、熟年離婚だったり、家庭内暴力だったりするということが良くも悪くも見えてくると、たとえ、そんなのはレアケースだ、必ず自分もそうなるわけではない、という理性の働き方ができたところで、「立身出世」の持っていた輝かしさを取り戻すことにはまずつながりにくい。そんなもんなんだなぁ、とつぶやき続け、くぐり抜けるべき通過儀礼のようなあれこれの冠婚葬祭や、昇進や、仕事の上での毀誉褒貶などを淡々とシャワーのように浴びながらそれなりに歳を食って責任が生じてきても、客観的な社会的地位とは別に意識だけはずっと“その他おおぜい”にとどまり続けるという分裂が、この国の「ちゃんとした」社会人たちの最大公約数になり続けているらしい。

*1:教員養成セミナー』掲載原稿。浅羽通明との往復書簡など、この時期こんな媒体での仕事が断続的に続いていた。以前、他の版元にいた担当編集者がたまたまそこに移ったのが縁で、だったと思う。水商売のおねえちゃんについてる客が、おねえちゃんが店を移ると共にそっちにシマを変えるようなものだ。そういうつきあい方がまだ、編集者と書き手の間に「そういうもの」として成り立っていた、そういう時代だった。……240223