「歴史」をほどく耳――解説・平岡正明『耳の快楽』

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 初対面は品川駅の構内、京急デパートの一角にある喫茶店だった。慶応の学園祭でのDJ形式の講演会の評を、仲間うちに向けた小さなニューズレターに書いた。それをどこからか手に入れた『サンデー毎日』の牢名主Y氏が、会ったことないんだろ、だったら紹介してあげよう、と打ち合わせの場所に連れてってくれたのが最初だった。*2

 入り口に背を向けてビニール貼りの狭い椅子に座っていたら、十五分ばかり遅れて入ってきた平岡正明は、Yさんと仕事がらみの対話をかわした後、型通りの紹介を受けて名乗った僕にこう言った。

「あ、なんだ、岡庭昇かと思った」

 その日はその後、浜松町の貿易センタービルの展望フロアに行き、さびしげなカップルとうらぶれた白人の老旅行者がぽつりぽつりいる程度の人影まばらな回廊をゆっくり歩きながら、知性が現実の具体性を喪失して記号の空中楼閣に舞い上がり始める時の視線の高さは地上何メートルくらいなのか、といったとりとめのない話をした。ダシにされたのは吉本隆明だ。びっしりと細密画のように描き込まれた都市の風景に、汐留の操車場跡が頑固な皮膚病のように間の抜けた広がりを見せていた。首都高の羽田線は例によって上り渋滞で、赤いテールランプが薄暮の中、点滅しながら列を作っていた。眼下のビルの屋上に並んだ空調機器の排気口からは、水蒸気だか煙だかわからない白いもやが、静脈注射の際針先からシリンダーに逆流した血液のような妙な質感を伴って、とろんとこちらに向かって広がりながら昇っていた。その昔、吉本に「君は声でトクをしている」と言われたという伝説のある落ち着いたバリトンで言ってよこしたこんな断片が、耳の底に残っている。

「昔ね、アジ演説やってた頃、果たして人間の声帯ってのはコードが出せないものか、と真剣に考えてた。一度にヒョロロロ~ッって和音が出たら圧勝できるのになぁ、不便なもんだなぁ、なんてな」


 その肉声で和音を出すことまで考えていた頃の平岡正明の、語ることについての姿勢は明確なものだ。

 詩ではなく、劇ではなく、散文ではなく、呪文ではなく、言語をもってする最高の表現形態はアジテーションである。(…)煽動はなるべく舌先三寸で空中に消えていくのがのぞましい。文書化されたアジは、敵の手に落ちることよりも、紙とインキがもったいないという理由で、つつしみぶかくあれ。 (「煽動ほど愉しい商売はねぇ」)

 徹底した上演主義、生身の交通と官能に足つけた現場主義だ。ジャズ・コンボを「思考の速度およびコミュニケーションを電撃的なすばしっこさにまでたかめるための組織的な訓練」の場としてとらえたその姿勢は、たとえば、寺山修司の「記述されない詩」という発想などにも通底している。声の復権。発言する身分への憧憬。六〇年代サブカルチュアを貫くそのような「現場」への視線は、さらには当時の小劇場運動やルポルタージュ、その他芸術運動まで含み込んだ広大な戦線の、ある大前提でもあった。

 だが、その語るということについて、自覚的に修練しようと務めていったのは、いつ頃からなのだろう。

 これまで、平岡正明の語りを書物に仕立てたものは二冊ある。ひとつは『一番電車まで』(一九七七年 ブロンズ社)もうひとつは『クロスオーバー音楽塾』(一九七八年 講談社)だ。前者は、目黒のジャズ喫茶「ちゃばん」を、後者は四谷のスナック「ホワイト」をそれぞれ舞台にしたDJをもとに編んである。いずれも週一回、水曜日の深夜から数時間にわたって繰り広げられた上演だという。

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 平岡正明の経歴の中で、この頃はジャズから民族音楽や歌謡曲の方へと関心を広げていた時期にあたる。と同時に、極真空手にのめり込んでいた時期でもある。そして、空手の経験を媒介項にして、それまで漠然としたあった「場」とそれを支える生身の身体技術への執着が、一気にその輪郭をはっきりさせてゆくことになる。

 文体が変わり始める。“書かれたもの”という意味での資料と自分との距離感もまた、そのテキストが定着されるその時にはらんでいた速度や奥行きを含めた領域にまで踏み込んでほどかれ、改めて確認されてゆく。『一番電車まで』の序文「言文行みな一致」は、『現代詩手帖』一九七六年六月号に掲載された原稿の再録だが、そんな彼自身の表現への方法意識が新たな軸によって整理、統合されてゆく清新なマニフェストだ。

 俺はエネルギー変換の方法をつかみかけている。現在の低い文と低い武が結合されてはかなわないが、そう遠くない将来、とほうもない精力を身につけそうな予感がする。

 「単行本半分くらいの情報量と理論内容を、片手でもてるだけの資料にもとづいて、三、四時間のうちに吐きだせるようになったのは進歩だ。文の道も最終的には鉛筆一本と紙だけで十分、というところにまでこぎつけたい」と言い切った彼は、アジテーションを言語による最高の表現形態と直感した地点から発して、凝縮した発話に必要な意識の筋力を増し、贅肉をそぎ落とし、表現としても主体としてもあるシンプルな方向を目指してゆく過程の中で、「場」に就く知性の必要最低条件をきれいに、方法的にとらえていった。三波春夫の「俵星玄蕃」を下敷きにした赤色革命浪曲のネタなどは、この頃すでにかたちになっている。原型はそれより数年前、『歌入り水滸伝』(音楽之友社)の中の一章、三波春夫を論じた「お客さまは神さまです」にみられるのだが、それをひとつの上演されるべき芸として自家薬篭中のものにする契機はこの頃のDJの経験にあったはずだ。

 おれはジャズになった。ジャズとは、生き方であるが、しかし楽器を使って演奏する表現行為であるという一点はおさえておきたいものの、(……)連続ディスクジョッキーを通じて、何回かはおれはジャズになった。その内実こそ、いまこの店で眼の前にいる、あの男やこの女といった具体的な三十人ほどの聴衆に響いたものがこれからとんでもない遠い距離にとどくぞという確信と、おれの触手が世界に触っているという感覚である。(「正明スピークス!」)

 語り、発話することについての方法的自覚は、耳についてのある獰猛さに規定されている。

 知性には眼に就くものと、耳に就くものとがある。視覚と聴覚。そのいずれに、世界を編み上げ組み立ててゆく主要な役割を担わせるのかということは、個々の自覚的な選択というよりもむしろそれ以前、その個人の主体形成の過程やその背後に横たわっている「歴史」が規定している。

 実際、異様な耳である。かたちがではない。その感覚がだ。
 
 竹中労が、生前よくこう言っていたという。

「平岡ね、あいつの書くものはほんと野暮なんだけど、しかしあの耳だけはとてもかなわねえ」

 そのすさまじいまでの解像力は、レコードを介したDJの経験についての記述に端的に現われる。こうだ。

  針を下ろしてレコード面にタッチするかどうかという何分の一秒かの刹那に、針先、指先、腕、ボディと溝の震動が伝わってきて、ワーッと世界が震動して見えることがD・Jをやっていると、ある。


 針圧は二グラムがいい。おれは二グラムで地球の重量を図っているという気分にされる数値だ。テープはそれができなかった。文字どおり頭が出ないのだ。カウンターの三桁の数字を見、巻き戻して曲の頭ダシの状態にしておいて再生ボタンを押しても、認識の火をつけるマッチの頭の数秒がない。スイッチは他人なのである。音盤にPUを下ろし、針先が溝にタッチするときのその反力が指先に体感され、指先の、いわば指紋感覚といえる微小な体感が全身に伝わってこそ、俺自身が精密なフィードバック機構をもった再生装置になるのだ。ジャケットから袋をとりだし、袋からレコードを出してターンテーブルにのせ、袋をわきに置き、ジャケットを一瞥してから聴かせる人の見えるところに立て、おもむろに狙ったトラックに針を下ろすという一連の、身についた手順が、ある種の予知行為なのである。


 針仕事をしている婦人が障子に飛ぶ鳥の影がさすのを見て来客を予知するという記述が夢野久作にある。シーンと静まった神経に人間の潜在的能力が浮上している、といった説明だったと記憶しているが、その作品が『ドグラ・マグラ』だったか『押絵の奇蹟』だったか、引用したい個所を見つけられないが、DJで、音盤にPUを下ろすときのダイヤモンド針の向こうに音楽の世界観を予知である自分自身の経験には、一心不乱に針仕事をして無我の状態になっている昔の日本の主婦と同じ精神状態があると思っている。ただ、自分の場合にはそういう状態に入れるのはカラテの後だった。連続DJを行なったのは『一番電車まで』のときも『クロスオーバー音楽塾』のときも道場帰りだった。汗を出し切って、六根が清浄になっている状態に、コーヒーと音楽が沁みこむのである。(「神話装置オイルダンプ・アーム」)

 以前から恋い焦がれ続けていた古いオイルダンプ・アームがあった。六〇年代のジャズ喫茶の音を復元したい、というのがその理由だった。ようやく手に入った。似合いのシリコンオイルを仕立て、ウエイトを誂えてやって、ああでもないこうでもないと微調整し、なだめすかし、最も能力を発揮できる状態にもっていった。実家から引き取ってきた母親の遺品に段ボール箱がひとつまぎれこんでいた。中には古いレコードやテープがあった。長唄、清元、新内、筝曲。それらのレコードをこのアームを調整し、試聴するのに使った。中に、六〇年代初めの一族の宴会の模様を遊び半分に録音したテープもあった。古いテープレコーダーを修理しながらそのテープもほどいた。そんな作業を重ねてゆくうち、彼は新たな「歴史」に眼を開いてゆく。耳と声。眼と文字。それらが微細なアームの重さを司る指先の感覚に励まされながら、薄紙を静かにはがすようにある確かな経験、深い「現在」の確信が、彼の生身に舞い降り始める。

 半田鏝であちこちつつきながらテープを聴き、肉親の声で25センチLPの江戸浄瑠璃を校正し、浄瑠璃歌詞を理解するために本を読み、理解が進むとまたレコードをかけてオイルダンプアームの調整をするという繰り返しのうちに俺の前に出てきたのは――江戸である。


 オイルダンプ・アームで探査する江戸は、だんぜんいい。三味線のアタックがパイプアームとはちがって聴こえ、張ってある猫の皮が張られて口惜しいとビーンと雑音成分の余韻をもって訴えるほど生々しい。ダイヤモンドの針が音溝にかくれた猫の皮の悲鳴をひろって、おい、俺は猫に化けて出られる筋合はないぞと言いたいくらいだ。そして、音と音の間が静かで、パイプアームでレコードをかけたときのざわつきがとれて、江戸の夜の静かさを感じる。

 とてもかなわない、と思う。そんじょそこらの書き手が書いたものなら単なる修辞、タチの悪い小手先のコピーライティングと片づけられかねない、ある意味では危うい言葉の水準が、静かな確信に裏打ちされてよどみなく、官能のうねりに従いながらつづられてゆく。言葉に“力”が宿る。その背後を、生身の感覚をある方向にとぎすましてゆくような修練を含み込んだ、ゆったりとした過程が支えている。「江戸」を――いや、ここはもう少し慎重に言わねばなるまい。少なくとも「江戸」とひとまず彼が名づけたようなある「歴史」の領域を、このように眼前の「現在」に引きずり出すやり口は、文庫の巾、文字の領分に縛られた想像力のありかにのみとどまっていては、まず出てこないはずだ。

 彼の自宅にあるオーディオ・システムは、ジャズ喫茶でも今どきちょっと聴けないようなとんでもなくいい音を出すという。実際耳にした人間たちの話だ。僕はラジカセとカセットテープに蹂躙された世代の人間だし、個人的にもそんな耳の持ち合わせのない野暮天だから、実際に聴いても、はぁそんなものか、としか思えないこと請け合いだが、しかし、それだけの音に仕上げるまでの感覚の確かさというのは、間違いなくある才能であり技術である。民俗学者としてそのことくらいは身にしみている。そしてそれは、感覚であるがゆえに生身のものであり、生身のものである限り、言葉をつづり、語りを組織する際にも当たり前に通底してゆくものである。だから、平岡正明の語りについて、僕はまずその背後に横たわる“力”を信じることができる。その“力”を言葉に宿らせるための方法の確かさについて、これは間違いないものだ、と言い切ることができる。

 問題はある。DJならばいいが、対談の場では相手に対する気遣いのあまり、時に失速することもある。とりわけ、対手と初対面だったりして感情の共有が未だなされていないような条件では、その傾向が強い。本質的に不特定多数の、それも大量の人間に向かう語りの人ではない。そしてまた、本質的にダイアローグの人ではない。ある限られた親密さを前提とした語りの人であり、そしてモノローグの人、滔々と流れる語りの人なのだ。象徴的な意味で、寄席の間口の話芸の人と言い換えてもいい。だから彼自身認めているように、ソロで朗々と語るのが本領である。その意味で、ラジオのDJというのは、彼の語りを発動するについてかなりいいセッティングだろう。

 本書の第三夜「浪曲ロシア革命論」のもとになったDJについての、僕の評を紹介しておこう。

「これがジャズなんですよ。形式やテクニックも大事だけど、やはりジャズってのは根性だ。演奏そのものの中に革命を内包していなければジャズはジャズじゃないんだ」


 コルトレーンを回しながらこのアジだ。これはすでにことばの最も豊かな意味において古典芸能である。思想を支える芸がある。芸を雷管にしておのれの思想を現在の切羽で起爆させようという構えがある。「平岡正明の日露交渉二〇〇年伝」と銘打たれたこの番組、週末土曜日の夜明け四時半から、しかも一時間ずつ二週にわたるいうおよそ最悪の条件。勧進元FM東京の侠気に敬意を払いつつも、若い世代のほとんどが平岡正明を知らない現在、このセッティングはやはり絶望的に無力だ。しかし、名人芸の貫禄はあらゆる悪条件を超える。かつて森秀人は平岡を「左翼思想を遊びにまで堕落させた元凶」と評した。だが、今となってはそういう“遊び”、つまり芸を含み込めないスイング音痴の思想がその後歳を重ね世に棲む過程に伴うべき“伝達を志す芸”の修業を怠り、その結果この国の左翼が世間はおろか下部構造からも疎外されたズレたオヤジとポストモダン馬鹿ばかりになっちまったスカを、他ならぬ眼前の事実として我々は知っている。


 いきなりアラン・ローマックスが出てくる。録音機背負って野の歌を録音して回った北米の民俗学史上有名な男。日本で言えば町田佳声だ。第一週はそのローマックス録音の鉄道工夫の労働歌から発して橋本克彦の十八番東北本線の線路搗き歌、そして「戦友」から東家楽燕の浪曲『召集令』をくぐって最後は三波春夫俵星玄蕃』で、おお、そこには冬の宮に殺到する赤軍がァ~、という平岡贔屓にとってはすでに定番「革命的浪曲論」の一席。第二週は『ボルガの舟歌』を皮切りにイデオロギーを超えた今世紀ジャズの世界戦略を語り、歴史の不均衡発展の法則を軸にロシア革命浪曲をつむぎ合わせ、しかし平岡はサビ抜きの文明論者ではないからなおそこに今世紀始めの日露関係において「レーニン内田良平が一致した」政治思想としてのパラドクスを見据え、ご存じの通りのロシアの現在、資本主義という名の近代があらゆる壁を超えてつけあがる混乱を「希望ではない、とてつもなく深い絶望ゆえに革命が起こる」と裏返しに語ってゆく。


 「僕はロシアが好きです。現在の政治状況がどうだろうと、レーニンドストエフスキーをわずか十年か二十年ほどの間に出すほどの国がそう簡単にグズグズいくわけがないです。ロシアの中の神聖な革命家はステンカ・ラージンやプガチョフに見出だされます。ロシア人よ、そこにお戻りなさい」と結ぶ幕切れに、ロシアだけではない、この国にも左翼経由のキリッとした民族主義を立ち上がらせよ、というアジを聴いた。 (『ミュージックマガジン』24-2 1992.2)

 平岡正明については八〇年代半ばこのかた、どこで何を語ったところでもうすでにどこかで耳にしたことのあるようなエピソードと語り口の連鎖であることをさして、煮詰まっている、面白くない、進歩がない、などと言われることが少なくない。若い世代はもちろん、彼の書いたものを同時代に読んできた人間たちの間ですらそうだ。だが、『長谷川伸論』以降の平岡正明は、先に述べたような過程で「歴史」に覚醒し、沈潜していった分、そんな表層の「現在」の速度からは引きはがされたところにいる。だから、彼の中にある語りを構成する要素の引き出しというのは、おそらくその頃からこっち、もうむやみと増えることはなくなっている。それをさして停滞であると言うのは構わない。いや、世間並みの視線の側からすれば、それはなるほどもっともなことかも知れない。だが、にしても、そのような引き出しの上限の中で、官能の錐を揉み込むように、自らに宿った「歴史」に見合った語りの純化へ動き始めた知性のあり方について、全く眼を閉じてしまうのもあまりにもったいない話かも知れない。

 その頃からこっち、何度も彼はこう言っている。

 郷愁(ノスタルジー) とは、けっして回復されることのない青春の全体性を回復しようとする灼けつくような願望である。

 これを単なる後ろ向きの懐古主義、オヤジの自閉とだけとらえるのは不遜である。最低限穏やかに言ってそれは、自分の居場所や足つける場所についての位相を見失い、とりとめない「現在」に行き暮れた若い世代にとって、まだ十分摂取できる豊かさについてその可能性を考慮しない不幸につながる。

 だから言う。平岡正明とは耳の人である。耳を軸足にしながら「現在」に「歴史」の奥行きを与えようとする知性である。くれぐれも、表層の「現在」の速度にのみ依拠せず、静かに、そして方法的に読まれんことを。

*1:解説と追悼文はわれながら悪くないものを書いてきているなぁ、と思う。中でもこれは気に入っているひとつ。……200826

*2:「Y氏」とは、吉田俊平さん。毎日新聞で「どこにもない本」の書評という、まあ、ちょっとカッコつけて言うならパスティーシュ的なコラムを書いていた時、それを見て「この本はどこにあるんだ」と尋ねてきて、いやいや、実はこれシャレで、という事情説明をしたら電話口の向こうで「はぁぁぁぁ??!」と大きな声と共に破顔一笑、いやぁ、うまくだまされたなぁ、ぜひいちど顔を見たい、わびを聞きたいから会いに来い、と慫慂されて、それ以来、毎日新聞サンデー毎日ではずいぶん仕事をさせてもらうことになった。ああいうタイプの新聞記者もその後、もう跡を絶った。

*3:『クロスオーバー音楽塾』はアマゾンにも書影なし……