ドブ板通りの生き字引――藤原 晃さん

*1
*2


 夕暮れ時、メインゲートの前には三々五々、何人かずつのグループになった女の子たちがどこからともなく集まり始めていた。

 いずれも歳恰好からして十七、八から二十歳そこそこといったところ。学生と言われれば学生に見えるし、家事手伝いと言われればそうとも思える。ひとりずつていねいに尋ねて回れば、まず半分以上がポシェットやハンドバックから学生証を取り出してくるのだろう。その程度には、どこにでもいるような女の子たちだ。

 目立って派手というわけでもない。服装や化粧の具合などは、たとえば芝浦あたりのディスコに出没する連中、世に言う「イケイケ」の方がはるかにとんでもない。そんなのに比べたら、今、ここにたむろしつつある彼女たちは、むしろ地味と言ってもいい。身につけているアクセサリーの類にしたって、あからさまな光りものというわけでもない。肩で風切って歩く、あたりを睥睨する、何か昂揚した気分に頬染めながら舞台を闊歩するように歩道を歩く、そんな身ぶりはまず見られない。

 ただ、なのにやはりどこかちぐはぐな印象ではある。仲間うちで肩寄せあいくすくすと忍び笑いする背中に、買物帰りのオバちゃんたちやくたびれた営業のアンちゃんたちの行き交うまわりと比べて、“違い”をきわだたせる線が一本引かれてしまうのが見える。

 横須賀。アメリカ海軍基地メインゲート前。給料日の夕方。“FREET ACTIVITIES”の白い文字が、静かによそよそしさを放つ異国の建材の上に浮かび上がる。

●●

「昔はあんた、“ドブイタ”とか“ホンチョウ”って言っただけで、顔しかめられたもんだけどね。横須賀の中でも違う人種の集まった場所みたいに思われてたからさ。よっぽど何かないと、地元の人は寄り付かなかったもんだよ。実際、地元の人間はあまりいなかったんだよ。男も女も流れ者ばっかし。店で働いてる女の子たちはどういうわけか佐世保とか長崎とか、九州の子が多かったなぁ……」

 メインゲート前、いかにも植民地めいた無国籍な印象のスーベニールショップやバイクショップの間に、取り残されたように建つ小さなバー「テネシー」。店長の藤原晃さんは、仕込みの手をひと休みさせ、散らかったカウンターの向こうに腰を下ろす。

 藤原さんは、ここでもう三十年以上店を開いている。朝鮮戦争からこっち急激に膨れ上がり、ベトナム戦争当時などは通りいっぱいに戦地帰りの米兵たちが歩いていたこのドブ板通り界隈も、営業している店は今やもう数軒だけ。何回か店の場所は変わったけれども、藤原さんとその店「テネシー」は、アメリカ軍と共に生きてきた街、ドブ板通りの有為転変をずっと見つめてきた。“アメリカ”に魅かれて集まってくる若い女の子たちの姿も、藤原さんの眼から見れば別にとりたてて珍しいものでもない。

「あたしら、“ヤンキーぼけ”って言ってんだけどね。ちょっといい呼び方でしょ。いや、ああいう子たちってのは昔っからいるよ。どういうんだかねぇ、女の子ってなァさ、ほんと何考えてんだかわかんないねぇ」

 米兵相手の水商売をずっとやってきた藤原さんにして、この“アメリカ”のまわりに蝟集する女の子たちの内実はわからないと言う。

「ここのところずっと、ほら、イラクフセインがまた核を隠してるとかなんとかで、空母がずっと出動してたんだよ。一ヵ月くらいだな。で、その船が途中パタヤとか二ヵ所くらいに寄って、この間帰ってきたんだ。交代に別の船が出ていったんだけどね。帰ってきた船には兵隊が一万人くらい乗ってて、これは今度来年の一月くらいまでいるはずだ。だから今日の給料日あたりは夜中まで大変じゃないかな。ゲートの前んとこの“ヤンキーぼけ”のねえちゃんたちは、その兵隊狙って来てるんだよ」

●●●
 地名で言えば、神奈川県横須賀市本町とその界隈。通称は「ドブ板通り」。だが、今や「ドブ板通り」と言っても、地元の人以外にはわからなくなっている。まして、かつてその地名がはらんでいたある独特の匂いや雰囲気、果ては言い知れずゾクッとするヤバいものの予感といったものは、その場所へ足運び、五感をゆっくりとそこの速度に同調させようとしたところで、きれいに舗装され、観光地のペイブメント風に整えられた敷石の上にさえ、もう微かな痕跡ぐらいしか残していない。

「でも、バブルが崩壊したとかなんとかで世間はガタッと景気悪いけど、ここはまあまあ首くくらない程度に商売できるよ。おまけにさ、そのうち日本人相手の商売がダメになったら、日本人向けのいい女の子たちがこっちに頭下げて働かせてくれってくるんじゃないの。もう実際そんなの何人か来てて、ここんところうちの店でも使ってんだよ」

 「テネシー」の女の子たちは、みなアルバイトである。いろんな子がいる。いろんな事情がある。長年店をやっていると、親子二代にわたって店で使ったなんてこともある。そんな女の子たちに対する面倒見の良さは、この界隈でも有名だ。

 と、若い兵隊がひとり、店のアクリルドアを開けて入ってきた。カウンターに座る。ビールを注文する。藤原さんは慣れた英語で値段を言い、現金と引き換えに品物を渡す。

「掛け売りもするけど、相手を選んでやんないと回収できないからね。そりゃ兵隊にはタチの悪いのもいっぱいいるから、そんなのには絶対掛けはやんない。性質がおとなしくてこっちの言うことよく聞くのに限るね。できれば下士官なんかが確かだな」

 僕に向かったこれは日本語だ。声をひそめるということはない。もちろん眼の前の兵隊は日本語がわからないという前提で話しているのだが、そのチャンネルを切り換えるようなあまりなメリハリの利き具合に、ちょっと面喰う。

 渡された缶ビールをグイッと飲んだその兵隊は、ひとりごとのように何かブツブツ言う。どうやら今晩泊まる宿がないと言っているらしい。給料日で外泊許可でももらっているのだろう。基地の外でゆっくり羽根を伸ばしたいのに、みんな思いは一緒と見えて、ほうぼう探し回ってもどこもホテルは満室だったようだ。藤原さんは最初まるで聞こえないような顔をしていたが、と、隅の方から電話帳を引っ張り出してめくり始めた。

    ゆーあろーん、おあ、うぃずがある? おんりい、みぃ?
     「おまえ一人だけか? それとも女連れか?」

 旅館の番頭のような調子で短く尋ねる。一瞬躊躇した兵隊は、しかし「自分だけだ」と答える。それを聞いた藤原さんは、ピンク電話のダイヤルを回してどこかと交渉を始めた。いくらかのやりとりの後、兵隊に向いて首を横に振って見せる。やはり部屋はないらしい。ほとほとまいった、という風に肩をすくめた彼は、残りのビールを一気に飲み干すとふらふらとまた表へ出ていった。

[

「古いなじみの白人専門の汚ないホテルがあってさ、そこにオヤジは昔のハウス(かつてあった売春を目的とした連れ込み宿)時代からの知り合いなんだけど、給料日の今頃からじゃちょっと部屋なんかないよ。そりゃ別にいいんだけど……」

 彼の残した空き缶を片づけながら、藤原さんはここで初めてちょっと声をひそめた。

「でもさ、驚いたよ、なんでも一週間くらい前から東京の女の子が部屋をみィんなおさえちゃってるんだってさぁ。今日のためにだよ。いやぁ、ほんッとにどうなっちゃってんだろうねぇ」

●●●●
 今ではドブ板通りの主のような藤原さんも、もちろん最初からここの水になじんでいたわけではない。

「最初はさぁ、キャバレーのボーイしてたのよ。朝鮮戦争の後のことだな。そのうち雇われマスターみたいになって、店を何軒か預けられて切り盛りしてたわけ。その頃のキャバレーったら、今と違ってほんとに大きなもんでさ。何十人もホステスがいて、そいでもって朝早くから店やってんだよ。戦争だなんだで船が出たり入ったりひっきりなしでさ。上陸したい兵隊たちはお天道様が出てようがそんなの一切お構いなし。だから、店の中には飯炊きのバアさんがいてさ、時分どきになったらメシ作って待ってて、で、女の子たちは交代でどんどんそのメシ食って、そいでまた商売するんだよ。兵隊も戦争帰りならこっちも戦争みたいなもんさ」

 もとは生粋の横須賀っ子。父親は海軍の水上機乗りだった。迷わず海軍を志望し、戦争末期に予科練に。だが、すぐに敗戦。復員は早かったけれども、横須賀には軍艦旗掲げた連合艦隊と入れ替わったアメリカ軍の艦船がひしめき、ロクに仕事もない。その日暮らしのような仕事を拾っていたある日、軍港のまわりをブラブラしていたら、とある小さなアメリカの軍艦の水兵から呼び止められた。

「ゴミを捨てるのを手伝えってんだ。そんなのなんでもないから手伝ってやると、小遣いくれてさ、明日も来いなんて言う。片言くらいの英語は話せたからね。そうかと思ってまた翌日行くと、仕事を手伝って小遣いもらう。食い物もくれる。そのうち、おまえこの
船に乗らないか、って言い出した。ボーイみたいなもんだ。他に仕事もないしありがたい、ってんでその船に乗ることにしたんだ」

 その船は掃海艇だった。それに乗り組んだことが、藤原さんのその後の人生を大きく変えることになる。

●●●●●
  まだ朝鮮戦争の始まる前のことだった。横須賀に停泊していたアメリカの小さな掃海艇に拾われた藤原さんは、結局そのままその船を仕事場にして、日本の沿岸をまわることになった。

「ちいちゃな船だったよ。そうだな、三百トンくらい。そこに三十人から三十五人ばっか乗ってた。結局七、八年ばかり乗ってたことになるのかなぁ。仕事はね、掃海だから機雷の掃除だよな。ほら、湾岸戦争のあと、日本の自衛隊が向こう行ってやった仕事、ちょうどあんなんだよ。戦争中に日本のまいたのもあったし、自分たちの飛行機だかなんだかから落としたのもあったろうし、そんなのきれいにしなきゃ危なくて船が動けないわけさ。ただ、そんな掃海の仕事すんのは兵隊で、こっちは仕事ったって皿洗いみたいなもんだからさ。のんびりやってたよ。でも、その間ずっと日本中の港まわったよ。小倉も行ったし姫路も行ったし、瀬戸内海の方は結構長い間回ってたな。でも、実際に機雷にぶつかったりしたことは一度もなかった」

 働いていたと言っても、アメリカ海軍に正式に雇われていたというわけでもなく、それぞれの軍艦が現地でプライベートに雇う雑役夫といったものだったらしい。だから身分証明書は兵隊のものではなかったし、給料も正式なものではなく、乗組員たちがチップというか心付というか、そんなものを集めては箱に入れて、給料日に藤原さんに渡していたという。

「当時まだドルは三百六十円か。俺、結構頑張って働いたからね。ほんともうかった。みんな早く起きて仕事してるじゃない。そんな時に熱いコーヒーでも沸かしてさ、サンドイッチのひとつもパッパッと作ってさ、そうやってサービスするのが仕事みたいなもんだったから、こりゃ要領ひとつの世界だな、と思ったね」

 向いてたんだろうな、と藤原さん自身そのことを認める。気配り、心配り、そんな気働きで異国の水兵たちの気持ちを掌握してゆく。まともにやっていたのでは身体がもたない。なにせ三十人からの乗組員だ。洗濯物ひとつとってもそれなりの量になる。それを全部引き受けていたのでは、何かあっても保証も何もない身のこと、いくらもらっても引き合わない。

「だからさ、兵隊が、もっと肉食いたい、なんて言うじゃない。そんな時は割とホイホイ焼いて食わしてやるのさ。食わしてやれば兵隊は喜ぶ。俺も喜ばれてもうけになる。そんなの、品物は俺のもんじゃない。向こうさんの肉、向こうさんの品物でしょ。でもって、当時はアメリカも気前がいい時だから、そんな食糧の補給なんていくらでもきくわけよ。誰もそんなに損するわけじゃなくて、みんなそれぞれに喜んで、ね、こんないいことないじゃない」

 ただし、そうやって船内で覚えた料理の腕も、そのままでは外の世界では通用しない。

「そりゃそうだよ。そういうのは缶詰コックってんだけどね。船はなんでも缶詰で、半分調理済のものが乗っかってるわけだから技術なんかなくても見よう見まねでなんとかなる。本があってね。こんくらいのまっ黒いの。ま、マニュアルなんだな。肉は何グラム、何は何グラムってその通りにやればちゃんとできる。だからコックったって芋をつぶしたり、フライポテト作ったり、卵ちょっと使って何か作ったり、パン焼いたり、大体そんなもんだよ。腕なんかなくてもいいの」

それでも、後に陸に上がって店を手伝うようになった時、この経験は多少は役に立った。

「焼飯ね、フライライス、あれが人気があってね。向こうの長っ細い米なんだけど、あれがちょうどいいんだな。あれ作って出してさ、今も喜ばれてるよ」

○●
 基地の風景というのがあるように、基地に根ざした稼業の意識というのもある。それは、その基地の主がどこの国の軍隊だろうが、軍隊である以上基本的な仕掛けは変わらないようなものだ。まぁ、これが空軍と海軍とではまた違いはあるのかも知れないけれども、同じ海軍である以上、それがスービックだろうがサセボだろうがヨコスカだろうが、星条旗の下、ガルグレーに塗った軍艦のたまる場所であるならば、そこに生きるなりわいの質というのは奇妙に共通してくる。

 風景は国境を越え、そしてその風景の中に宿る稼業の意識もまたそんなボーダーを越えたある世界性を持つ。酒があって、女がいて、安っぽく泥臭く、それでいてどこかひとつ屈折したアメリカ幻想も織り込まれていて、何にせよ無国籍な、たとえば近未来のSF映画のような実に不思議な眺めがそこに平然と繰り広げられる。そしてそれは、かつて確かにこの国の中にはらまれていた「軍隊」の記憶をベースに立ち上がったものだった。

「俺だけじゃない。他にもそんな日本人っていたよ。掃海艇なんかだと普通そんなのを二人ずつ乗せてたりしたんだ。フィリピン人みたいなのもいたなぁ。でも、俺は二人乗せられると儲けが半分になるからさ、俺一人でも十分だ、きちんとやってける、ってことを身をもって示さなきゃならなかったんだよな。で、こっちの船のキャプテンの給料が当時、吉田茂首相よりもよかったんだけど、俺はある時、そのキャプテンより儲けがあったりしたんだよ、ほんとに」

 藤原さんにとっての「戦後」は、だから焼跡と闇市でもない。フェンスの向こう、そんな焼跡も闇市もひとまずよそ事としてすますことのできる場所の、他でもないアメリカ軍の掃海艇と共にあった。

「正式には、アメリカ第七太平洋艦隊第七管区第三掃海艇隊、とかってんだ。いや、船内の仕事ばかりじゃない。通訳もやらされたよ。ほら、何かあると海上保安庁の船なんか寄ってくるじゃない。で、スピーカーでいろいろ言うんわけだ、日本語で。こっちのキャプテンなんかよくわからないから俺が呼ばれて、なんでしょうか、って日本語でやり返すわけ。重宝がられたよ。また、向こうも向こうでこっちを二世かなんかと思ってたんだろうなぁ。ちょっと威張っちゃったりして、結構いいこともあったんだよ」

 だが、そのうちに朝鮮戦争が始まった。瀬戸内海の小豆島あたりにいた藤原さんの船も、そのまま動員されて朝鮮半島へと出動させられる。

「そんなの、こっちはもうどうしようもないわけだよ。もう船乗っかっちゃってんだから。いやだったって始まらない。いきなり朝鮮に持ってかれて、そこはもう戦場さ。結局、今の北朝鮮の元山の港の沖で触雷してさ、仲間の掃海艇が二隻やられたんだ。そこにも俺みたいに日本人が乗っててさ。二人死んじゃった。当時は新聞記者なんて書かれたけど、あれは新聞記者ってでも書かなけりゃ、普通の日本人が戦争に参加したことになってマズいってことだったんだな。いきなりだよ。二隻。で、俺の船はうまく回避して助かった。ところがそれがあとで軍法会議モンでさ。というのは、こっちの船のキャプテンは戦争の経験がなかったわけだ。それを古参の、ふだんは呑んだくれてばかりのどうしようもない兵隊が指揮して触雷を回避したんだな。それが味方の船を見捨てたなんてことになったみたいなんだ」

 一九五一年二月二日。真冬の寒い日だったという。

「まあね、こっちも食えないから乗ってたわけでさ。そんな保証がどうのって問題でもなかったんだよな。でも、死んだ日本人の後始末は俺がしてあげたんだよ。ひとりは名前はエダってったかなぁ。確かひとりは神戸の人で、もうひとりは小倉だか門司だかの人だったなぁ。もうそんくらいしか覚えてないよ」

○●●
 戦争が終わった時、従軍章をもらった。

「戦艦ミズーリまでもらいに行ったよ。ほら、東京湾で重光外相だかが降伏調印したデカい船ね」

 部隊の司令官だかが、故郷のオハイオに連れて帰って大学に通わせてやろう、と言ってくれた。保証人にもなってやる、推薦で留学させてやる、というわけだ。けれども、藤原さんは横須賀を選んだ。アメリカには渡らず、もう一度横須賀の街に腰を落ち着けること
にした。

「(朝鮮の)動乱が終わって、掃海艇も何も日本の自衛隊にそっくり渡す、ってことになったんだ。で、三尉待遇だかなんだかで迎えてくれるなんて話になったんだけど、書類出してレントゲン撮ったら、胸んところやられててよ。軽い肺浸潤ってやつだ。で、まずい抗生物質飲まされて人生パー」

 水商売の経験はなかった。けれども、船での経験でなんとかやってけそうな予感はあった。米兵相手のキャバレーを何軒も経営している人に拾われ、カウンターの向こうでの人生が始まる。その後ベトナム戦争の時期をくぐり、日本とアメリカの間に横たわるさまざまな距離を一定の眼の高さで眺め、そして横須賀の基地とそのまわりの有為転変を見つめてきた藤原さんは、今でも同じように夕方店にやってきては、女の子を使い、世話をし、やってくる米兵の相手をして、自分の居場所に静かに頑張っている。

「二、三年前のことだけど、逗子の駅だったなぁ。あそこは電車の切り換えがあるもんで、必ずおばさんが五、六人入ってきて掃除するんだ。あれ、って見たら、かつてうちにいた女の子よ。もう本町(ドブ板通り)では稼げなくなったからそんな仕事やってんのさ。なんだかねぇ、俺もトシとったんだなぁ、ってその時はほんと思ったよ。だから、この商売もいつまでも続けられるもんじゃないけど、せめてもう四、五年、身体が続く限りは店に出ていたいと思うんだよ」

*1: こういう本にして聞き書きをもとにまとめた仕事をしたことがあって、その時におつきあいができた御仁であった。

*2:思い出した、神奈川新聞のなんとかいうねえちゃん記者が同じくこの藤原さんの店「テネシー」に出入りしていたとかで、こちとらが版元探して本にするよう動いているのを聞きつけて、目を三角にしてクレームつけてきたっけか。「われわれプロの世界には「抜く/抜かれる」というのがあるんですッm9( ー`дー´)ビシッ!」(大意、でもほぼこんな感じ)とガンギマったキメぜりふかましてきたっけか。もちろん、「しらんがな(´・ω・`)」一択でつっぱねたんだが、四谷のヤソ大出たねえちゃんという触れ込みだったけど、その後さて、どういう新聞記者人生送らさったものなんだか(どうでもいい)