「団塊の世代」と「全共闘」⑪――前衛、ということ

 

●前衛、ということ

――今だとサヨクとかプロ市民とか、とにかく状況の変化について行けないオヤジ世代の思考回路の典型みたいに言われて、それがまたさっきから出ているように「団塊の世代」と直結されてくるわけですけど、これはまあ、いまの若い衆に特徴的なんですが、いまを生きている自分たちの〈いま・ここ〉と当時の団塊なら団塊がちょうど自分たちくらいの年代の頃との間に、具体的にどういう違いがあって、その中で生きていたということはどういう意識を持っていたんだ、ってことについての想像力をどう持ったらいいのか、それがいまひとつよくわかんないみたいですね。それはそういう意味で自分の見聞や体験から発した社会や歴史というパースペクティヴを、学校教育はもちろん、ジャーナリズムも含めたメディアとその環境がうまく持ってこれなかったツケでもあるんですが、そんな中でも特にインテリや知識人といった存在についての感覚が、もう本当にぼやけてしまっている、これが実はかなり大きいように思っています。


 これまでの話に即していえば、それはたとえば「前衛」の問題にもつながってくる。とにかく、自分の自意識や認識を形成してきた背景についての認識が持てない。本を読み、音楽を聴き、いまどきのことだから早くからパソコンもいじってインターネットにも接して、内面は確かにあるのに、その内面がどういう社会的条件によって形成されてきたのか、なんてことについてはほとんど考える材料を与えられないままできている。そこでうっかりとお手軽に何か理由を見つけようとした時に、水増しされた「サヨク」ぶり、というのが手っ取り早い、と。プロ市民的なるもの、というものがここまで蔓延してしまった理由というのは、案外そういうところがあるように思っています。

 前衛論というのは、少し詳しく言えば私たちより上、六○年安保の世代の話なんだよね。

 六〇年安保の世代では、そもそも共産党が前衛であるのかどうか、ならば他の勢力がそうなのか、といった議論が起きていたわけでさ。ところが、俺たち団塊の世代全共闘ではそれが起きない。だって、その頃にはもう、前衛は存在していない、そんなものはない、ということになっていたんだからさ。

――革命を指導する前衛、っていう発想自体が、団塊全共闘の時にはもう後退していた、と。六〇年安保からわずか十年足らずで。インテリとその予備軍である学生、って存在が大衆化の進展で呑み込まれ始めて、インテリの自意識自体が溶解し始めた時期ですね。


 でも、今の若い衆にとっちゃ、六十年と七十年どころか、全学連全共闘の違いってのも、もうほとんどわからなくなっててごっちゃになってますよ。とにかくゲバ棒ヘルメットで学生運動やってたのはみんな「全学連」「全共闘」でひとくくりで、しかも、それをまた全部「左翼」で片づけてたりしますし。

 全学連というのは自治会単位の組織だったから、原則的には全員加入だったんだよね。だから、学生であるということはそのまま、少なくとも形の上では全学連、ってことだったんだ。活動的な人と非活動的な人という違いはあってもさ。

 その次に出てきたのが全共闘なんだけど、これはさらにアトマイズ(個人化)されていて、「おれは全共闘だ」といえばその時点で彼は全共闘になってしまう。これはさっき大月君の言ったように大衆社会化とシンクロしていて、たとえクラス単位だろうと個人単位だろうと、「全共闘だ」と宣言すればそれで成り立ってしまったんだよ。だからどっちにしても、もう前衛なんてものは出てきようがわけだ。これはいわゆる欲望主義、個人主義ともつながってくることなんだよ。俺は他人に干渉はされたくない。前衛党からの指導も受けたくない。組織の意向で動くのではなく、俺は俺のやりたいようにやる、そういうことだよ。

――それってさっきも出てましたけど、要するに、個人のわがまま、ですよね。それまでは組織の政治に良くも悪くも包含されることになっていたそのわがままを、おおっぴらに押し通していいんだ、ということになった。まさに個人の自由、自分の感情を持つことは圧倒的に正しい、という覚醒ですか。「組織」は常に「悪」で、それに対抗する「個人」は常に「正義」、という発想の全面化。それ以降、七〇年代からずっと半ば、高度成長期以降、わがニッポンの現代常民にとってのフォークロア、と化してる発想でもありますが。

 まあ、そうだよね。だけど、決定的に政治というものがわかっていない。組織なしでは政治はあり得ないのに、そこがわかってなかったんだからそりゃどうしようもないよね。

 ただね、前衛という言葉はいまの言葉に置き換えると、実は、ぴったり来る言葉がないんだよ。「エリート」でもないし「カリスマ」でもない。だって、マルクス主義からすれば、エリートの指示には必ずしも従わなくていいけど、前衛の統制には従わなくてはならない。言わば、軍隊の指揮官だよね。下に対しては命令をするが同時に責任もあり、組織に対しての義務もある。それが本来の前衛だったんだよ。

――ああ、知識人の理想型としての前衛、ですね。呉智英さん流に言えば「士大夫」にまで通じるような、でしょうけど。


 でも、左翼思想を理解しようとする時に、軍事やそれを支えるテクノロジーについての認識がきれいさっぱり欠落したまま、ってのも今や珍しくないですからね。革命しよう、世の中いっぺんひっくり返してガラガラポンしちまえ、っていう組織が本気で武装闘争まで考えていて、だとしたらそれは当然、軍隊とパラレルのはずで、あっちの武装をこっちに一気に奪っちまえ、なんてのもあったわけじゃないですか。思想として見ても、いわば同時代的な想像力としてのマルクス主義ってのは、ごく粗っぽく言えば帝国主義と双子みたいなところもあるはずなのに、そういう発想自体がいつの間にかどんどん後退してった。前衛、ってもの言いのかつて持っていた手ざわりも同様にわからなくなっていったんだなあ、と思いますね。

 六○年安保の世代だと上の方はまだ戦争体験を引きずっているから、軍隊組織が皮膚感覚というか、“匂い”としてもわかっていたんだよ。軍隊もわかるし、共産党コミンテルンの位置づけもわかる。場合によっては旧制中学、高校の組織のあり方や、それに伴うエリート意識がまだしっかり残っていた。共産党にも当時、それが生きていたから、宮本顕治はじめ委員長、および幹部候補生は基本的に東大でなければならなかったわけでさ。

 よく言われることだけど、共産党ほど東大閥の強い政党はないよ。宮本が東大経済部、不破が理学部、今の志位和夫は工学部で、トップはずっと東大が握り、次に譲る時も、これは禅譲なのかもしれないけど、とにかく東大以外には指名しないんだから。戦前の場合は、マルクス主義の文献を読んで意識を目覚めさせるとなると必然的に東大ということになったんだよ。例外的に慶應出身の野坂参三は中央委員会議長を長く勤めたけど、実は公安のスパイだった。つまり、組織としての共産党というのは東大、京大もしくは準東大によって統括された組織だってことだよ。まあ、今となってはそれも単に、学歴社会の優等生、くらいの意識しか持っていないと思うけどね。

 学歴社会のなかの優等生ならば学歴社会のなかだけで指導していればいいんだけど、でも、前衛と言うのは本来そんなもんじゃない。おおげさに言えば、社会全体の指揮官でなければならない、ということだったんだ。それは本人の自覚というか意識の問題でもあって、たとえば、勤めている会社を定年退職してしまえばもう組織を介して命令する権利がない、と思ったらそれはもう前衛なんかじゃない。共産党的に言えば生きている限り現役なわけで、前衛にリタイヤなんてのはあり得ないんだよ。

――生涯一前衛(笑) 趣味は革命、と正しく言い放ったのは平岡正明御大でしたが。
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 君もほんとに平岡が好きだなあ(笑)

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 でも、その趣味と革命を結びつける、ってこと自体が当時、新鮮だったりしたんだけどさ。それくらい革命ってのはマジメなものだった。そこに個人の感情は優先される余地はひとまずなかったんだ。

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 そういう意味でも、前衛と言う概念自体がもうわからなくなっているんだよ。社会をある方向に動かしてゆくための責任ある指導層、戦前なら軍隊の指揮官ということにもなるけれど、とにかくそういう前衛というのも、六○年代後半からの個人主義肯定という流れのなかで失われていった。つまり「前衛」というものがなくなる。すると社会の前衛だったはずの知識人は、その使命として最低限の理を学び、民衆を啓蒙してゆかなければならないという義務があった立場上、何か別の背景が必要になってくる。ここで共産党の問題、または共産党に変わるべき選択肢の問題が重要になっていった、ってことなんだよ。

――存在理由がなくなったインテリ、知識人が、新たな存在理由を求めてゆこうとした時の葛藤が起こった、と。党がもうアテにならないんだから、何か別のものを、というわけですか。

 そう。党がなくなっちまえば、彼ら知識人は自分たちのアイデンティティが保てなくなるわけで、当時、転向論がしつこく問われていた理由も、突きつめればそのへんなんだよね。単に、それまで偉そうに言っていた全共闘が転向した、日和った、といった云々ではなくて、そういう知識人という存在理由の問題なわけで、そうなるとかなり根源的なレベルの話になる。

――『思想の科学』の「転向論」なんて、今から見るとどうしてここまで肩肘張って延々と議論していたのかよくわからない部分もありますよ。ああ、左翼辞めるのって当時はそんなに大変なことだったのか、やっぱりカルトみたいなもんかなあ、とか素朴に思ってしまう。

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 そういう意味では、私たちにはその「転向」が重かった最後の世代としての記憶が、まだあるんだよ。たとえば、共産党が獄中で十八年頑張ったというのは、ある種の神話、伝説として団塊の世代まではギリギリで継承されている。だから、党に対してなかなか反対できない、党というのは当時、まだそれだけのご威光を持っていたんだよ。それが一九六○年頃までの状況で、だからこそ、あの吉本隆明花田清輝の論争なども出てくる。

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 だから、当時のそういう状況でなお個人としての主張をしようとするのは、ものすごいエネルギーを必要としたことだと思うよ。良くも悪くもそれだけ突出していなければならない、つまり、キチガイに近くなければとても個人を主張なんかできない、そういう時代だったってことだよ。「個人」や「欲望」だけを主張するなら、それこそ金子光晴(詩人/一八九五│一九七五)や永井荷風みたいに、おれはとにかく女が好きだ、だから政治なんかに興味はないんだ、とでも言わない限り、普通はちょっと無理だった。つまり、個人の欲望を主張すること自体、かなりの覚悟が必要だったんだよね。ところが七○年安保、全共闘の状況では、それが覚悟なき個人主義、欲望肯定主義になってきた。自然に、だらーっと、ありのままに主張できるようになったんだよ。

 

――生きているだけでそれだけで尊重されるべき個人、個性、ってことになったんですね。人格の陶冶とか、そういうのも死語になってゆく、と。戦後憲法が「個人」の自由を尊重するようになった、とよく言われますけど、それが本当に現実のものになってゆくためには、やっぱり高度成長の「豊かさ」が必要だったってことですよ。

 思えば、それ以前の知識人、言い換えればそういう個人を自ら努力して作ってくるのが当たり前だったような世代のインテリってのは、やっぱり今からするとヘンなのがいっぱいいたよね。
 村上一郎(文芸評論家・歌人/一九二○│七五)がね、三島由紀夫(小説家/一九二五│七○)が自衛隊に立てこもったとき、ニュースを聞いて市ケ谷に駆けつけたんだよ。駆けつけるだけならほかにもやったやつがいたけれど、彼は警備の警官に「三島君に会わせてくれたまえ」と詰め寄って、「僕はあやしいものじゃない」とポケットからなんと、帝国海軍の身分証明書を出して見せた。


――うわあ、それはまた……まあ、村上一郎だったらそれくらいやりそうですけど、でも、やっぱりそれは当時としてもヘンなおっさん扱いだったでしょうね。

 だって、当時もう戦後二十何年も経っているわけだよ。なのに、「僕を信じろ」と言って、そしてかつての軍隊の証明書を見せる、っていうのは、そりゃあやっぱり尋常じゃないよ。まあ、「ヘンなおっさん」という代わりに、当時の状況の中で突出して「個」であった一例、ということもできると思うけどさ。

 別に村上だけじゃないよ。雑誌『試行』の同人だと何より吉本隆明がそうだし、谷川雁(詩人・評論家/一九二三│九五)なんかもそう。やっぱり普通じゃなかった。知識人というのが当時、ある意味異様な存在になり始めてた、それくらいまわりとの落差が生まれ始めてたんだと思うよ。

 谷川は、大月君も知ってるようにもともと筑豊の三池なんかでオルグをやって、サークル村の活動をやっていた当時のいわばスター革命家だったわけだけど、三池闘争が失速して六〇年安保も決着がつくと、急にリアリズムに走って、テック(のちのラボ教育センター)という子供向けの語学教育機関を始めたんだよね。ところが、社員として雇っていた平岡正明らと喧嘩してしまうんだよね。


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――はい、谷川雁の熱烈なシンパだった平岡さんがテックに拾われて、社内で谷川流に組合闘争を組織したら当の社長の谷川雁に思いっきり弾圧された、と。なんて野郎だ許せねえ、となった、一部では有名なひと幕ですね(苦笑)

 谷川にしたら、英語塾の経営という選択は当時のその状況だと圧倒的に現実的だったわけだよ。だって、自分も食ってゆけるし、仲間も何とか食わせなきゃならない、という現実に対処して一念発起、商売をはじめたわけでさ。そうなれば労務管理もしなければならないし、会社の営利のために労働組合とも戦うことだって出てくる。そりゃあ経営者なんだから当たり前だよね。それに対して平岡たちみたいに、雁は変節した、と批判の声をあげる連中はいたけど、でもさ、それは無理な要求なんだよ。原始共同体やユートピアをいきなり若い者に求めたって、そんなもの出来ないに決まってるじゃないか。工作者として有能なオルガナイザーだった谷川だって、立場が経営者になったらリアリズムに忠誠を誓うよ。


毛沢東という「神」

 ただ、私はかねがね谷川に、聞きたいと思っていたことがあるんだよ。

 「ひとつのこだまが投身する/村のかなしい人達のさけびが/そして老いぼれた木と縄が/かすかなあらしを汲みあげるとき/ひとすじの苦しい光のように/同志毛は立っている」

 これは彼の「毛沢東」という有名な詩の一節なんだけど、確か『谷川雁詩集』(思潮社)の中に入っているはずだ。二十歳の頃、この詩を読んだとき、まさに異様な感じを受けたんだよね。

 たとえばロシア革命についてだったら、アグネス・スメドレーの『偉大なる道――朱徳の生涯とその時代』(岩波書店)やスノーの『中国の赤い星』などは実によく出来た作品で、その人間ドラマはさながら『水滸伝』の如く、半分は創作と知りつつも興奮させられたものだった。たとえば朱徳周恩来がドイツの秘密基地で出会うシーンなんか、そりゃもう映画のように美しいシーンに仕上がってる。政治にも、五十年百年に一回というようなロマンチックな歴史的瞬間というのはあり得るのだ、そしてそこに自分は、前衛として加われないまでも現認できるとすれば、それはそれで幸せである、というところくらいまでは、まあ、二十歳の頭でもわかった。そこまでは私も認めるよ。確かに感動した。

 

 でもね、あの谷川の詩の「同志毛は立っている」は、おいおい、いくらなんでも、これはないだろう、と思った。

毛沢東              谷川雁


  いなづまが愛している丘 
  夜明けのかめに



  あおじろい水をくむ
  そのかおは岩石のようだ 
  かれの背になだれているもの
  死刑場の雪の美しさ


  きょうという日をみたし
  熔岩のなやみをみたし


  あすはまだ深みで鳴っているが
  同志毛のみみはじっと垂れている


  ひとつのこだまが投身する
  村のかなしい人達のさけびが


  そして老いぼれた木と縄が
  かすかなあらしを汲みあげるとき


  ひとすじの苦しい光のように
  同志毛は立っている

 延安には神が住んでいる。紅軍が長征を行い、終着地として到達した聖地、そこに毛沢東がいた。その毛沢東は神だった――そこまで言ってそう表現してしまうのは、やっぱり当時の私の感覚としても異様だったよ。で、その異様さも含めて左翼思想というのはあったってことなんだ。でも、いったい今のこの状況のもとで、この詩をどう思うのか、ぜひ谷川に聞きたかったけれど、思えば彼ももう亡くなってもう久しいよね。

――実は雁さんとは生前、二回ほど行きあってるんですよ。黒姫山の山荘に隠遁してからですが、一度は雑誌『マージナル』のエクスカーションで同人その他で連れ立って話を聞きに行った時に、酒が入ったこともあって例によって一緒に行った朝倉喬司さんが雁さんとちょっと険悪な雰囲気になって、こりゃいかん、ってんであたしが止めようと立ち上がったらどういうはずみかそのあたしが悪者にされちゃって、とばっちり食って夜中に歩いて山から降りて帰る羽目に、というオチがついてましたが。

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 もう一度は、NHKの教育テレビの特集番組でインタヴューに行きました。この時は番組って縛りもあったせいか、結構落ち着いて話をうかがうことができましたね。結局、それからあまり間もなく亡くなりましたから、まとまって雁さんに話を聞く機会を持てた最後だったんじゃないかと思いますけど、人となりの印象は、ああ、こりゃやっぱりタダモンじゃないなあ、でしたね。人たらし、っていうのか、とにかく人の気をそらさない。妙にダンディでね、あれは染めてたんだと思いますけど髪なんかも黒々してて、で、人の話を聞くのが実にうまい。でも、いったんことが起こった時の身のこなしというか、それこそ朝倉さんと一触即発になった瞬間、ビール瓶をさかさに持ってパッと立ち上がった時には、うわ、やっぱりこりゃ筑豊でもまれてきた御仁だわ、と(笑)。単なるインテリ、知識人ってことだけじゃなくて、そういう身体、実存にきっちり裏打ちされてることを身をもって感じましたね。



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 何より、あの人砲兵だったくらいですから、長身でガタイだっていいじゃないですか。谷川健一も大男ですけど、なんなんでしょうね、あの三兄弟の血統って。個人的には、軍馬の扱いなんかについても、いろいろおもしろい話が聞けましたけど、とにかくまあ、そういうとんでもない突出した「個性」ってことは確かに実感しましたね。


 少し自分の話をさせてもらうと、母のすぐ上の兄、つまり叔父がバリバリの共産党員だったんですよ。徴兵がイヤなので航空心理学をやれば逃れられる、というんで東大の心理を出て共同通信に勤めてたんだけど、レッドパージにひっかかって除名されて会社もクビになって、それから後はずっとシナ語の翻訳とかやりながら生活していたんですが、この叔父があたしをかわいがってくれましてね。毛沢東全集、なんてのも学生時代、遊びに行った叔父の家の本棚でなんとなく眺めていた。もっとも、実際に手に取って読むことは当時はなかったんですけど。なんか触れたらいけないもの、うっかり影響受けたらまずいもの、って感覚がどこかにあったのかな、とか今になって思います。


 晩年、北京放送に呼ばれて向こうで何年か、日本語放送に関わる仕事をして、結局向こうで身体をこわして帰国、そのまま帰らぬ人になったんですが、いちばん身近なインテリの処世、って意味じゃ、この叔父のたたずまいが自分にとっちゃわかりやすかったですね。


 対して、うちのオヤジは早稲田出てましたけど、単なるラグビーバカで、大卒のくせに蔵書なんてほとんどなかった。ラグビーで製鐵会社に入っていわゆるホワイトカラーの渡世で高度成長期の第一線を戦っていたんですから、考えたらこの叔父なんかとそりが合うわけがなさそうなのに、不思議と親戚なんかの集まりじゃウマが合ってたようで、もちろんそれは大人同士の微妙な配慮も互いにあってのことだったんでしょうけど、でも、一杯やりながら毛沢東のことなどを互いに冗談めかして言い合う姿は、よく覚えています。

 だってさ、大月君の好きなあの平岡正明だって、息子に延安という名前を付けて、「のぶやす」と読ませてんだよ。毛沢東、ってのはそれくらい、左翼とはあまり関係ないところでも英雄みたいに受け止められていたし、またロシア革命や紅軍の長征はある意味、物語として意外な広がりを日本人の間に持っていたんだと思うよ。

――そう言えば、あたしの大学院時代の先生は、息子さんに「礼人」ってつけてましたけどね(苦笑) 音読みしたら「レーニン」なわけで。なんかそのへんは、角栄ブームの時に「角栄」ってつけたりするのとあまり変わらないような。そういう意味では、フォークロアとしての左翼、っていうのは、これから考えるべきテーマのひとつではあるでしょうね。