「売文」の倫理、「投書」の不気味

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 ものを書いて、それを売ることでおカネを頂戴する。売文業という言い方は今では流行らなくなったけれども、しかしあれほど読んで字の如し、あっけらかんとわかりやすいもの言いというのもちょっとない。文章を売るなりわい。なるほどその通り。書いてなんぼ、のゼニカネの現実ではある。

 だが、いくらカネになったところで、誰も読み手のないような場に書きたいとはどんなひねた売文業者でもまず思わないだろう。売り渡した文章をなるべくなら多くの人に読んでもらいたいと思う。思うが、しかしと同時に、あんまり妙な読まれ方されたくねぇな、という感情も正直言ってある。

 この場合の「妙」とは、ひと口で言えば、書き手であるこっち側があらかじめ予測できていないような文脈でその書いたものが解釈されてしまう、ということであり、しかもその解釈がこっち側に対する悪意や嫌悪感や憎悪といったネガティヴな感情につながるようなものになる、ということである。

 なんとまぁあつかましいこった、と我ながら思う。思ってあきれる。そんな妙な読まれ方されるような書き方しかできないおまえのそのハンパな腕はなんなんだ、という立場だってある。何より、妙な読まれ方をされたからと言って、いったん売り渡した代金の額が変わるわけじゃない。いや、ものによっては妙な読まれ方をされた方が商売になる、という現実もあったりする。だから、敢えて妙な読まれ方を組織するような手癖を身につけることだってあるし、そういう可能性を予測すること自体がすでになりわいという現実の内側にあることでもある。なのに、個としての売文業者というのは、一度も会ったこともない、会うこともない不特定多数の読み手たちそれぞれに対して、できるだけ妙な読み方されたくない、嫌われたくない、なめらかにわかってもらいたい、という世にもクソあつかましい意識をうっかりと抱え込んでしまうものらしい。少なくとも署名原稿ってのは絶対にそうだ。

 しかし、いずれそれが商売ならば、何にせよまずカネにするのが第一。たとえどんなゴミでもクズでも、おまえの書いたものを買い上げてやろうという人間がいればそこで商売は成立し得る。そこから先、買い上げたものがゴミだったと気づこうが、結果として読み手があろうがなかろうが、またどんな奇妙キテレツな読み方をされようが、いったん売っちまったものなど知ったこっちゃない、という態度だって商売人の選択肢としてはありだろう。もちろん、そんな態度で商売を繰り返してれば普通は商売人としての信用がガタ落ちになるわけだが、それでも、しょせんある期間だけの臨時営業、あるいは極端な話、とにかく今回だけうまくやればいい、後は野となれ山となれ、二度とこの稼業に手を染めることもない一発商売と割り切ってしまえば、その後の信用なんざいくら落ちても構わない、てな具合に考える人間だって世の中にはいる。あるいはまた、ゴミだからこそ商売になると踏む玄人の論理だって当たり前にあるから、それがゴミであると百も承知で買う人間も出てくるし、それを書き手がわかってないまま商売だけがどんどん成り立ってゆく場合もある。

 なりわいというのはその程度には“なんでもあり”。今さら家田荘子のひとりやふたり、売文の世界に棲息していたからといって驚くには当たらない。いや、稼業違いの素人連が驚くのは別にいいとしても、他でもないその売文の現実で日々仕事をしている人間たちまでが驚き、しかもその驚いてみせることが何かおのれの誠実さの表明のように思い込んでいるらしいブリっ子の当て込みなんざ、ったくシャレにもならない。ふだんは業界内論理で見て見ぬふりしておいて、いざコトがバレるといっせいに正義派ぶる、ってのは永田町方面の住人と五十歩百歩。うすうすささやかれてた段階で何も動こうとせずこうなるまでほったらかしてた、その理由をこそ静かに考え、ほどこうとすることが必要だと思う。

 もしもそういう手癖の商売人たちに行き合い、何かのはずみで「でも、結構いい商売になりましてね」てな具合にうそぶかれたとしても、僕は「あ、そう、あんたそういうスジで動いてる人なんだな」とひとまずにっこり笑うことにしている。ただし、こやつは敵だ、次に会う時からは徹底的に喧嘩腰だぞ、と深く心に決めた上でのことだが。


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 しかし、そういうゼニカネの現実から全く遊離したふりをしながら、しかし確実にある役割を担ってゼニカネの現実の舞台に平然と登らされる「書く」という行為もある。たとえば、投書だ。

 新聞の投書欄に掲載される文章が僕の感覚からすればあまりに平板で不気味なものが多かったので、一時期、半ば気まぐれでスクラップしてみたことがある。ちょうど湾岸戦争の頃だった。年齢と職業が明記されるのがこの国の新聞投書の特徴だが、その頃はそれが編集方針だったのか、ティーンエイジャーの投書がよく掲載されていて、またそれが大人のそれよりも一段と平板で、書く主体とことばとの摩擦というか抵抗値が限りなくゼロに近いような不気味さだったのを覚えている。

「私たちは戦争をしては反省している。それなのに、いつまでたっても戦争がやめられないらしい。イラク問題への不安、戦争のこわさを友だち同士で初めて話し合った。みな思うことは同じで、ボタン数個でいとも簡単に滅びる世界に、おそろしいほど大きな不安を抱いていたことを知った。


 今、大人たちの進めているものは、何か違う方向に向かっていると思う。みなをこわがらせ不安にさせ、だれ一人願っていない戦争をする。領土欲しさに、資源ほしさに戦争をする。考えてみると、それは大きな大きな間違いだ。


 もし今天変地異が起きたら、あなたが一番大切にするのは自分の命だろう。そうだ、人間は命が一番大切なのだ。領土や資源は二の次三の次なのだ。われわれは、その二の次三の次のために一番大切なかけがえのない命を消してゆく。しかも大量に……。


 自分が命を何よりも大切にするように、他の人だってめいめい自分の命を大切にしているのだ。殺し合い、戦争をすることは、そのことが全く分かっていない証(あかし)である。実におろかだ。人間の内輪の領土争いなどで、今を使ってほしくない。地球全体、生物全体が危ないという今を。」

 十四歳の中学生からの投書ということだ。論理のずさんさを指摘しても始まらないし、そのつもりもない。けれども、固有名詞を持った十四歳の中学生がこのような文章をつづり、しかもそれを新聞に投書しようと思う、その欲望が立ち上がり、うごめき、実際に掲載されて後になおどのように変形してゆくのか、そのありようの一部始終を、できれば知り尽くしたいと思う。

 だが、どうやら投書欄の担当記者たちにそういう疑念は宿らないものらしい。当時は湾岸戦争がらみの投書が殺到したらしく、珍しく彼ら担当記者たちの匿名座談会があり、その中で投書の採用基準についてこんな発言が行なわれている。ランダムに拾おう。

「私の場合、これはこの人にしか書けないというものを採りたい。すでに他のメディアに出ている意見や解説、論文の趣旨をなぞったようなのは避けたい。自分で考え、第三者に分からせる力のあるもの、この基準に合えば、と思う。」

「それと、新聞の投書欄だからニュース性。いまの世の中にものを言って読者に共感を広げ、興味をひく、という要素が大事だ。」

「大事なことは、生活者としての自分のスタンスではないか。」

「投稿は、商品の宣伝文とは違う。ものを書く人間の良心にかけて、ものを二重売りするようなことはやめてもらいたい。」

 主張そのものの独自性、題材の普遍性、そしてゼニカネ抜きの無償性……あまりにわかりやす過ぎる。だが、仮りにそんな条件を満たす言葉が実際に存在したとして、果たしてそれがどんなにグロテスクなものになるのか、本当に彼らは考え及ばないのだろうか。

 彼ら投書欄の担当記者たちが本当にこのような世界観で仕事をしているのだとしたら、それは理想の「書く」こと、どこにもいない究極の「書き手」を探し続けているのだと言うしかない。それは、この国のジャーナリズムがまるごと夢見る「読者」の壮大で空虚な最大公約数だと僕は思う。そして、その最大公約数の内側に宿る言葉は、どこかでゼニカネの現実を、そういう水準の手ざわりを執念深く憎み続け、その分ないがしろにしているらしい。なるほど、ゼニカネから遠いほど純粋である、というこの妄想は、昨今の政治改革の論調にも濃厚に漂っている。

 ちなみに、僕の家でとっている新聞は朝日と日経である。死んだオヤジがとっていたから、という以上の理由はない。

*1:『宝島30』「書生の本領」連載原稿のひとつ。