「大学」という場所のいまどき(往復書簡) ③

拝復

 お元気そうで何よりです。

 いわゆる「おたく」の属性として語られる自閉の問題ですが、自閉それ自体はプラスともマイナスとも言えない、その「自閉」という「手段」=「道具」をフルに活用して達成するべき「目的」が見えない事態こそが問題なのだ、という貴兄の問題整理、なるほど、とうなずけるところはあります。確かに、自閉の現実から一足飛びに、何か開かれた望ましい状態に達し得ると妄想することは、性急な行動や見当違いの逸走につながり易い分、いらぬ怪我を引き起こすのが関の山。また、そのような早上がりの「体験」主義を相対化しながらゆるやかな寛解へと向かえないような「批評」などもはや抑圧でしかない、というのも同時代の真実だと思います。

 とは言え、どこかであり余る能力を抱え込んだことでそのように自閉してゆかざるを得なかった同世代の「おたく」たちを横眼で見てきた経験から言えば、そのように自閉できるまでのある種の能力に恵まれていることについて、羨望の感覚はやはりあります。と同時に、〈これから先〉についての彼らの構えがそのような「自閉」を活用する「目的」の欠落感といった方向にのみ傾いてゆくと、どんな文脈であれおのれの「自閉」を活用できるということ一発で妙な方向へ将棋倒しを起こすんじゃないか、という危惧も小生にはあります。高級官僚や医師や弁護士や、その他八〇年代にある極相を呈した偏差値的世界観の中の勝者たちが、自覚のあるなしとはひとまず別に、半ば自動的に配属されていった先の仕事の現場で、そのような事態はこの先かなり切実な問題になってくるはず、と小生が以前から推測していることは貴兄もご存じでしょう。自閉のありようについて、そこへ至る過程や時代的背景なども含めて言葉にし、自覚しようとする過程をないがしろにしたまま、なまじ中途半端に「目的」を与えられてしまうことのヤバさというのもこのような状況ではあるかも知れない、と思ったりするのですが、まぁ、この問題はまた改めての話題にさせてもらった方がいいでしょうね。


 宿題は、「学校」以外も含めた小生の人間関係の記憶、でしたね。

 深呼吸のひとつもして、すでに変色してしまった記憶の層をいくつか掘り返してみましょう。たとえば、駄菓子屋にたむろしている近所の同じ年頃の子供たちの姿があったりします。

 昭和四〇年頃、神戸の東のはずれあたり、国鉄の線路ぎわに鼻先を詰めたような小さな家並みの広がる場所でした。野坂昭如さんがかつてよく描いていた彼の幼少時の神戸というのが、ちょうどそのあたりです。今ではもう見事に風景が変わってしまい、線路は高架線になり、ご多分に漏れず大小のマンションが建ち並んでいますが、その頃は祖母に連れられて貨物列車が通り過ぎたりするのを眺めるくらいの牧歌的な余裕はまだありました。

 小生は、それまで小遣い銭というものをもらったことがありませんでした。それがある日、何かのはずみで十円を拾ったと思って下さい。近所の牛乳屋の冷蔵ケースの足もとあたりだった、と記憶しています。その十円で、おそらく小学校の帰りか何かだったのでしょう、近所の子供たちが立ち寄る駄菓子屋に足を向けたわけです。それまで小生は、「汚い」「バイキンがついてるかも知れない」といった理由でこのような駄菓子屋や縁日といった場所で売られる食べものから遠ざけられていました。我々の世代の親たちには案外ありがちな「衛生」思想だったように思いますが、そのように遠ざけられていた分、近所の子供たちが口にしている駄菓子は当時の小生にとってちょっと特別な意味もはらんでいたようです。

 せせこましい店先で、ガラスのフタのついた木箱に群がる彼らは、確かに近所の遊び友だちではありましたが、ふだん小学校で見るのとまるで違う表情、違う身振りの生きものでした。こわい店番のバアさんもいました。初めて自分のものになった十円玉を握りしめ、色とりどりの駄菓子に囲まれ、「ものを買う」ということが何をどうすることなのか、まるでわかりませんでした。どれもこれも「欲しい」ことは間違いないのだけれども、これが欲しい、という意思表示をこのような他人の視線の中で他でもない「自分」の口からはっきりする、そういう訓練をあまりしてこなかった小生は、ほとんど呆然とそこに立ち尽くしていたのだと思います。

 そんな小生に向かって、このバアさんは冷徹にこう言い放ちました。

 「自分の欲しいもん自分で決められんような子は、あかんで」

 生まれた東京から神戸へ、関西文化圏へ、という「引っ越し」の経験がもたらした違和感もまだあったでしょう。また、兄弟のいないひとりっ子という小生個人の事情もあったでしょう。ただ、それらの事情を考慮してもなお、それはゼニカネのリアリズムの充満するナマの現場に直面した最初の体験だったわけで、その場の呆然と立ち尽くした感覚というのは、それから後もそういう言わば「原っぱ」的な「仲間」のありようから一歩外れたところにいざるを得ないような身の置き方をする際、思わず反芻されてしまうものとして記憶の層に繰り返し刷り込まれていったように思います。