皇室方面にとっての「事実」とは何か?

 なんてこたぁないやな。

 できごと自身は、確かにこれまでならばあまりあり得なかったような脈絡で起こりつつあるらしい。けれども、それらのできごと相互をうまく関係づけ、何か納得いくように説明してゆくための解釈の枠組みってのが、悲しいかな未だ古色蒼然たるままだったりするから、できごとのたたずまいから何か直観的に感じる居心地の悪さとか収まりの悪さといった皮膚感覚の領域は放り出されたまま。なんかヘンだよなぁ、違うみたいなんだけどなぁ、とそれぞれがそれぞれの手癖でそれぞれの意識の片隅で思いながら、それでも仕方ないからみんなしてその手持ちの古色蒼然の解釈の枠組みを眼の前のできごとにおっかなびっくり押しつけてみるしかひとまず手がなくて、そうやって絞り出されてくる単語の断片や、解釈の片っ端みたいなものをためつすがめつしてはひと通りの“騒ぎ”だけが推移している、まぁそんな感じだな、こりゃ。

 問題はきっといくつかの水準にわけられる。けれども、最も前提として横たわっているのは、できごと自身に内在しているはずの“問い”を素朴に引き出し受け止めるための仕掛けがメディアの舞台にはまだできていないらしいこと、これだ。

 はっきり言うよ。「皇室」やら「天皇」やらがまず最初に持ち出され、それが「報道」やら「ジャーナリズム」やらとくっついて、しかもそこに「襲撃」だの「脅迫」だのという単語までつるんで来た日にゃ、そりゃもうあんた、古色蒼然、お決まりお約束の方向にしか“世間の解釈”は向かわないってもんだ。

 だって、そういう“世間の解釈”ってのは、メディアの現場の誰もが大好きらしい、あの個々人の「理性的」で「論理的」な「検証」なんかとはまるで違う水準で発動されてくものだし。で、そういう“世間の解釈”を立ち上げてくための情報や経験はこれまでの「五五年体制」の現実の内側で蓄積されてきたものなんだし。だから、そんな「五五年体制」が、もはや政治の水準だけでなくメディアの言語空間においても否応なしに大きく変わりつつある、変わらざるを得ない過渡期の現在であれ、そこで起こっている眼の前のできごとについて何か脈絡をつけ、理解しやすいように整理してゆく時のその世間の意識の動き方というのは、そうそう急には変わりようがなかったりするし。第一、その前提になるべき「五五年体制」がおかしくなる前と後とで何がどのように変わりつつあるのか、しかもそれがメディアの言語空間においてどのように深刻に影響を及ぼしているのかさえも、まだ誰も自前の言葉でうまく説明できていねぇんだから、こりゃもうその“世間の解釈”がどんどん自在勝手にうごめいてって、いかに実際のできごとから遊離した妙なものになっちまってたとしても、どうにも仕方ないようなもんだ。

 少なくとも、メディアの舞台の上でこういうお約束の文法に従って事態が進んできて、それでもなお「右翼」とか「ファシズム」とかいうもの言いを全く想定しないで何か確かな立場を作って頑張れる、そんな頼もしい言葉の作法は、残念ながら今のところまだほとんど作り上げられていない。

 だから、ひとまず話は簡単だ。あの宝島社を「襲撃」したのはとにかく「皇室」や「天皇」を好きな「右翼」方面で、そういう人たちにとっては未だ「皇室」や「天皇」は批判しちゃいけない存在としてあって、なんだか知らないけどやっぱりそういう批判をしたらそれなりの仕打ちってのは受けるものらしくて、もちろんそれはうっとうしいし今どきやっぱりよくないことだし、もしかしたら新聞や雑誌のエラい人たちの言うように「ファシズム」に近づくことかも知れないけれど、でも、事実無根の批判を無責任にやっちゃう新聞や雑誌の人たちだって悪いところがあるんだから仕方ない面はあるんだし、第一、今の皇室を見ているとそうまでして批判しなきゃいけないような問題があるとは思えないし、批判は必要だけれどやっぱりそれなりの約束ごとは守らなきゃいけないし、「皇室」なんだから最低限の尊敬ってのはしなきゃいけないのよね――そういう具合に“世間の解釈”はひと通り落ち着いてゆく。

 でも、ぜんッぜん違うよな。いくらなんでもそんなもんじゃない。ここ一連のできごと自身が懸命にさし示しているはずの“問い”ってのは、そんな“世間の解釈”とはまるで違うところにある。


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 「どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います。今までに私の配慮が充分でなかったり、どのようなことでも、私の言葉が人を傷つけておりましたら、許して頂きたいと思います。しかし、事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます。批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません。幾つかの事例についてだけでも、関係者の説明がなされ、人々の納得を得られれば幸せに思います。」

 倒れる直前、皇后が宮内記者会の「最近目立っている皇室批判記事についてどう思われますか」という質問に対して文書で回答した文章だ。

 つくづくすげェ日本語だと思う。いや、皮肉じゃなしに、あの派手な負け戦以来すでに半世紀近く、この国の民主主義ってのはこういう風にまるで違うものに姿を変えてやがったんだな、というこの上ない証拠物件として、近年ちょっとないほどの感動モンであった。 だが、感動ばかりしちゃいられない。敵はまさにこの文章の中に姿を隠している。

 「批判の許されない社会であってはならない」。しかし、「事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であってはならない」。つまり、タテマエとしては文句はいくらつけてもいいが、素人が気分次第に好き勝手に文句つけることは許しませんわよ、ってことだ。 冗ッ談じゃねぇや!

 じゃあ、たとえば一番簡単な話としてだよ、「事実に基づいた批判」って言うけど、じゃああんた、その皇室の内側の「事実」って一体どこの誰が、どういう手続きを踏んだら間違いなく確かめられるっていうんだ?

 たとえば、今回の一連の報道の中で、宮内庁サイドからの「反論」の過程で登場してきた書き手たち――森村桂でも曽野綾子でもいいのだが、彼ら彼女らはみな一様に、報道のこの部分が事実でない、この部分が事実だ、という具合にいちいち腑分けしてゆくことで批判がより精密なものになり正当なものになる、という信仰に従っているらしい。だが、彼ら彼女らが“自分だけが知っている”という手つきで得意げに披露して見せた皇室の内部の「事実」なるものも、結局は宮内庁の職員を経由してリリースされた素材でしかないわけだから、杓子定規に言えば、それが本当に「事実」であるかどうかの確認を何らかの方法でとらなきゃならないことになる。“ウラを取る”ってのはそういうことだよな。で、この「事実」のウラを彼ら彼女らは一体どうやってとれるってんだろう。今どきそういう文脈で「事実」を金科玉条にしたいってのなら、そこまでやるのがスジってもんだろう。それとも、ゴルゴ13級の凄腕のデータマンでも雇ってるのだろうか。

 こういう具合に、今あるなんとなく当たり前の民主主義の徳目となっている「事実に基づいた批判」をそのままとにかく無上のものとして鵜呑みに信奉する姿勢が、個々人の立場の違いや能力の違い、あるいは置かれた社会的脈絡や諸々の家庭の事情といった具体的な現実を支える微細な、しかしいっちゃん切実な差異をまるで無視したままのっぺりとした大文字=イデオロギーとして流通してゆけばしてゆくほど、今本当に求められている、眼前の現実に対する解釈の枠組みをひとまず眼前に起こっているできごとに即して役に立つよう変えてゆく作業からはどんどん遠くなってゆく。言いたかないけど、別に皇后じゃなくても誰であれ、「事実に基づいた批判」てなもの言いを今どき何の留保もなく脳天気に持ち出して居丈高になる、その姿勢そのものがメディアの言語空間の「五五年体制」を最も悪いかたちで温存させてゆくことになる。そしてもちろん、その一方で、できごとだけはそれとは関係なくどんどん勝手に起こって転がってゆくから、言葉と現実との間の亀裂はますます深刻なものになってゆく。でまた、その亀裂をなんとか埋めるための跳躍力を言葉が獲得しようとする動きがたまにメディアの舞台に現われてきたりすると、またぞろ「事実に基づいた批判」のお題目が四方八方から引っ張り出されて、言葉の「五五年体制」をちょいと水増しした程度に過ぎない“世間の解釈”の内側にみるみる溺れさせられてゆく。どうかしたら、他でもないメディアの現場の側が、皇后だか皇室だか宮内庁だか知らないけど、とにかくそっち側と手に手を取ってその公開処刑に正義ヅラして加担してたりするってんだから、ったく、シャレにもならねぇ。

 今や皇室をめぐる話題ってのは、この国に住む人間にとって、ほとんど誰もが同じ条件で何かものを言える素材になっている。やっぱりこれはもう究極の芸能ネタ、誰もが基本的に素人のままおおっぴらに発言できる珍しい話題なのだ。で、そういう究極の芸能人という立場にとっての「事実」とは果してどういうものなのか――もちろん、こうなるともはやことは皇室だけの問題では全然なかったりする。