京都学派の頽廃

 有為転変が常態のこの売文業界に、一見細々と、しかし時代の趨勢とは別に必ず一定の政治力を行使し続ける「京都学派」という一派がある。もちろん、歴史的に見ればまた別の意味を持つのだが、しかし昨今ではそのような重々しい思想上の立場を共有したある徒党というよりも、あらゆる社会現象に対して何かもっともらしいことを言い、書き、世を渡ってゆく際の、言わば商売上の共同銘柄とでも考えた方が自然だ。今や天皇、いや皇太后よろしく破れ御簾の奥にこもったまま、「リベラルな知識人」という古色蒼然のシンボル操作に腐心するのが余生らしい鶴見俊輔は別格としても、なお表に姿を現わす中では“一刀斎”森毅あたりはその営業部長格か。京都弁のやんごとない遊び人という装いで「ええかげんでええやないですか」主義の無責任をたれ流し、しかしその実保身についてはすれっからし。だが、たかだかこの程度の手口でも、メディアの紙誌面で“なんとなくリベラルな雰囲気”を醸し出すのには重宝した時期が、ついこの間までは確かにあった。

 しかし、時代は変わる。一一月二六日付の『週刊読書人』に載った中野翠井上章一の対談などは、彼ら“いまどきの京都学派”の頽廃がきれいに出ていて興味深い。話題は宮武外骨をめぐってなのだが、「反骨のジャーナリスト」だの「権力にたてつく自由人」だのといった外骨評価の定型から逃れようと、「権力というものをからかう快感みたいなものにとりつかれちゃったというか、そういうことをするのが好きだったんだろうなと思う」と歯切れいい江戸前の論陣を張る中野に対して、井上は例によってのらりくらりの若年寄りぶりで定型の評価から一歩も出ようともせず、どちらが学者だかわからない有様。こういうモラトリアムぶりが武器になり、そして商品にもなった虫のいい状況はもう終わってるのだが、さすが京都の伝統芸能、永年倣い覚えた手癖はなかなか抜けないらしい。

(鴻)