うまく「オヤジ」になってゆくための知恵

 

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 高校でも大学でも、あるいは予備校なんかでも一向に構わないんだけど、そういう「学校」を出て働き始めて、数年たってからクラス会でも開いたとするでしょ。そういう時、女の子たちが呆れたような会話を交わすのにこれまで何回も出くわしてる。

 彼女たちが何に呆れるかっていうと、かつて同じクラスなりゼミなりにいたはずの男の子たちが、わずか数年の間にものの見事に「オヤジ」の匂いを発散し初めていることに、なんだよね。

 もちろん、彼女たちにしたところで彼らと同じような場所に働いて、食ってることには変わりないわけ。また、そういう今どきの職場社会で悪い意味での立身出世神話に苛まれたら、女の子だって簡単に「オヤジ」化してゆくことだってある。とりわけ、偏差値的世界観の刷り込みがあからさまになって以降の世代なら、たとえどんなことについてでもいい、まわりから頭ひとつ、偏差値のポイントひとつ抜きん出ることによって初めてようやく人並みの「思いやり」とか「やさしさ」とかをまわりに対して投げかけることができる、っていう人間関係のありようが、今やジェンダーの違いを超えたところで普遍的になっちまってる面もあるし。

 逆に言えば、まわりに比べて自分が何らかの点で優越的に「違う」ということが確認されない状態では葛藤ばっかり堆積して、それを回避するために無意識のうちにどんどん尖鋭な戦闘マシンと化しちゃうんだよね。まして、偏差値的世界観の中でのある種の能力の高さを獲得しているいわゆる優等生と呼ばれる層に属する連中なら、こういう人間関係のありようの方がむしろ常態でしょ。場のありようが学校に近いところでやってける若いひとり身の間ならまだいいけど、そりゃトシとってくりゃ辛くなるよね。言わば、「学校」の偏差値的世界観の中を効率良く泳ぎ回るための高度に自動化されたモビルスーツをバッチリ装着しちゃってる分、生身の「思いやり」や「やさしさ」や「ぬくもり」や、あるいは「友情」や「愛情」なんてのを欲する心性が過剰に肥大化しちゃってて、でもモビルスーツを脱いだところで獲得されるそういう関係ってのは本音じゃコワいし、何よりそんな関係のための生身の技術の蓄積ってのが乏しいわけでしょ。うっかり本気でつきあうと相手を壊しちゃうしかない、という不幸なジレンマがあって、それを「傷つけあう」とかってもの言いでまた「恋愛」や「友情」の物語に回収してって、でも、そういうつきあいをしたい、しなきゃいけないらしいっていうプレッシャーだけはどんどん脹らんで。そう考えりゃ少し前から立ち上がってきた「恋愛」ブームなんて、そこらへんの構造的ジレンマを前提にした右往左往としか思えないんだけど。

 とは言え、女の子たちが「オヤジ」と表現されるある違和感をどこかで抱え込んでることにはまた別の説明が必要なわけさ。で、その違和感を、ついこの間まで同じ学校という場の中である程度同じ価値観を共有していたはずの男の子たちが発散している。このことについての彼女たちの茫然自失っていうか、あきらめっていうか、そういう感覚って結構根深いんだと思う。と同時に、同世代の男の子がそういう風に「オヤジ」になってくことの意味や内実ってのを彼女たちもうまく考えられないから、いきなり階段を十段くらいスッ飛ばして「ほんとにいい男がいないのよね」にもなっちゃう。そのクラス会にたむろするかつての仲間だったはずの若オヤジたちって、個々の選択とは別に世の中全体の枠組みとしてはやっぱり、将来あんたたちのダンナになるはずの連中だったりするんだよ、ダンナになってつきあってかなきゃなんないかも知れない男なんだよ、ってことなんだけど。

 今でもこの国の男たちは平然と「オヤジ」になってゆく。そのことはそうそう変わりゃしない。もちろん、仕事の現実の中でそこに適応してゆこうとした時に、ある慣習的な領域に身を合わせてかなきゃならないことはいくらでもあるだろうし、そのことが結果的に「オヤジ」の身ぶりにならざるを得ないことだってあるだろう。でも、だからと言ってそのことにまるで無自覚なまま、単なる若オヤジになっちまうってのはまた別のことだし、何よりこれまでの「オヤジ」問題とは少しズレたところに新たな弊害を生み出したりする。

 温泉に行った時、浴衣が妙に板についている。仲間や彼女と食事をした後、レジで財布からカネを取り出す身ぶりがどこか背中丸めた卑屈な具合になる。傍若無人に年下の部下を怒鳴ることなどさすがにもうしない代わりに、結局自分にはねかえってくるしかないひと通りものわかりよさげに振る舞うことの葛藤をうまく始末できずに、時に甘えたようにすねたりする。三十代そこそこでこういう連中って、珍しくないでしょ。でも、これって今やほとんど絶滅種になりかかってるかつての天然モンの「オヤジ」とは、また違う種類の「オヤジ」だよね。

 「オヤジ」の身ぶりをただこわいもの、カッコ悪いものとしてうしろめたいままほったらかしとくから、ちゃんと正面から自覚もできないんだと思う。自覚しないから方法として使い回す可能性も開けない。で、それって自分自身だけでできることじゃなくて、結局はまわりとの関係で自覚してゆくしかないんだよね。クラス会でオヤジ化した男の子に気づいちまったんなら、呆れ顔でひそひそ話することから一歩踏み込んで関わってみる。関わられた方は頭かいたり茶化したりして流さず、その呆れ顔の内実を計測しようとする。うまく「オヤジ」になってゆくことと、この国の中でうまくオトナになってゆくことの間をこの先、うまく折り合わせるためには、それくらいの手間はかけてみなきゃ。

*1:『宝島30』連載原稿