●N調教師、72歳。
この仕事を始めて、もう50年くらいになるかな。
最初は18の時かな、群馬県の高崎で修行しました。高崎の大島厩舎というところでしたね。*1生まれも群馬。家はサラリーマンで馬とは関係なかったんだけど、競馬が好きだから競馬場に遊びに行ってたら、馬乗りにならないか、と声かけられたんですよ。ええ、身体が小さかったんでね。
それで修行をして免許をとって、最初は高崎で乗ってた。十年くらい乗ってたかなあ。その頃一緒に乗ってた連中も、探せばまだいるかも知れませんね。まあ、高崎にはそれ以来、全然行ってないからわからんけど。その後、新潟に移ってそこに十年くらいいた。今の新潟競馬場に移る前の、関屋の競馬場ですね。馬も一緒に連れて行って自分で乗って競馬やってました。
それから、北海道へ行きました。昭和38年年頃だったと思います。鈴木厩舎です。鈴木ゴンさんのところだね。*2それからしばらくして、高知も行った。それは当時、高知でノリヤクが一度に十何人クビになったんで、ノリヤクが足らなくなった。ええ、その頃のことですから、まあ、八百長とかそういうのでしょう(苦笑)。それで、乗りに来てくれ、と言われたんで試験を受けに行ったんですよ。平場だけじゃなくて、繋駕も受けたんですが、そしたらそれは落ちて、平場の方だけがうかったけどね。浦和にも行ったことあるよ。競馬にも乗った。確か、三回乗って二回勝ったはずだよ。おれがいた頃は競馬場のまわりに家なんかなんもなかったけど、今はもう、住宅ばかりになってわかんなくなっちゃった。
減量がきつくなって乗れなくなってからは、ずっと厩務員してました。自分で馬持ってみたりね。そうそう、ウマヌシベットウ。昔はみんなそんなんだったからね。実際、そのころは厩務員の方が調教師なんかよりカネになったからねえ。道営記念なんかとったら、馬主も御祝儀も百万くらいくれたから、ほんとに調教師より羽振りよかったよ。もっとも、全部使っちゃったけどねえ。
九州にはね、ほんの二、三年前にやってきたんだ。そう、(同じ北海道にいた)小笠原さんに誘われたんだ。ほら、道営競馬は成績悪いとウマヤ減らされるでしょ。減らされて、六頭やそこらじゃ調教師も商売ならんからね。
最初、北海道にいる時さ、中津に二頭馬をよこしてやったんだね。市長が、馬が足らないから助けてくれ、馬入れてくれ入れてくれ、って言うんでさ。そうか、馬がいないんじゃかわいそうだから、ってんであいた馬を少し回してあげたんだ。そしたら、感謝状までくれたんだよ。その後、調騎会の天狗山(調教師席)に大きな掲示が出てね。中津で調教師の募集もかかったのさ。地全協から当時、中津の競馬事務所に出向で来ていた上田さんが募集したんですよね。中津は九州競馬になってよくなるぞ、と言われたからねえ。それに北海道は冬の間は競馬休みでしょ。九州は温かいし、食い物もうまいし、何より定年がないらしいぞ、っていうから、思い切ってこっちに来たんですよ。道営の方の定年一年前にこっちに来ちゃったから、実は退職金は一銭ももらえなかったんですよ。ほんとは(道営の調教師会長だった)手島さんも来るはずだったんだよ。ばんえいの馬を冬場だけ中津に持ってくるとかって話まであった。そう、年齢制限ないから、っていうんで、みんな定年前の人が北海道から移ってきたんですよね。
印象に残った馬ねえ。もう名前は忘れちゃったなあ。新潟につれていった馬が二十連勝してね。サラでB級までいった。自分で乗っててもありゃあ気持ちよかった。あと、厩務員してた頃は結構いい馬してたからね。道営記念もなんぼもとった。ダイゴホシホマレ、ブリットホマレでね。あれは最後、岩見沢で乗馬になったと思うけど、強かったなあ
馬の仕事をずっとやってきてて、まあよかったね。北海道へ行って競馬していた時くらいが一番よかったかな。中津では25馬房もらってやってたけど、最後は馬主も預託料よこさなくなったから赤字赤字でねえ。中津では正直、あまりいいことなかったなあ(笑)。でも、北海道から連れてきた馬はだいたい最後まで面倒見てやったよ。
●O調教師
大正十五年の生まれです。まあ、ここじゃ一番年上じゃろうなあ。満州でオヤジが馬持っとったからね。そいで一緒にくっついて行ったんですよ。わしが学校卒業してからすぐ行ったですよ。それでそこで修行した。
初めは下乗りですわね。奉天ではシナ人も使うてました。奉天は日本人が経営しとった競馬場でした。お客さんは日本人もおるしシナ人もおるし、朝鮮人もロシア人もおりましたよ。そりゃもう盛んでしたよ。満州で一番の競馬場ですから。一周二千メートルくらいかな。国営競馬よりも大きかったです。そこで乗ったですよ。騎手もいろんなのがいましたよ。シナ人朝鮮人ロシア人みんないました。ロシアはオンナが多かったな。終戦まで乗ったよ。確か終戦の二、三カ月前に競馬やめたかなあ。満州も爆撃がきたからね。ほてからちょっとやめた。すぐ終戦になったからね。でも、終戦間際になっても客は来てたね。そのへんは内地とは違うとったな。逆に内地のノリヤクが乗りに来とったもん。馬は内地の馬もおったし、そりゃひどいのもおったよ。客はそりゃうんと入りよったですよ。まあ、空襲ったって一回や二回やったはずですよ。食べ物とかも内地よりは豊かやったですしね。
兵役ですか? わしゃ甲種合格で兵隊行くはずやったところを、散弾銃で足をブチ抜いたんですわ。ガンを撃ちに行って暴発してね。右足の親指のところ今でも骨がないんですよ。その時、ほんとにうるさかってねえ、憲兵まで出てきて、非国民じゃ、って言われてねえ。自分でわざとやったんやないか、と疑われたんですわ。で、徴兵が一年延期になったんですが、それでも傷も治って8月の16日に入隊するところやったんですけど、終戦で助かりました。
で、昭和22年に引き上げてきた。抑留やなしに、手続きとかで時間食うたんです。それでまた競馬ができるぞ、というんで、最初は春木で乗ったんですよ。春木が復活して、それから福井の小松で乗って、帰ってきて紀三井寺で乗って、とにかくそのへんみんな復活した競馬に乗ってまわったんですよ。ああ、また競馬ができるぞお、言うてねえ。二十歳そこそこですよ。
当時の春木はそれはそれはメチャクチャでしたよ(笑)。速歩が多かったですよ。あたしダクもキャンタも乗ったですよ。繋駕は乗らなかったですね。目方が増え出してからちょっと休んで、それでも48キロくらいだったんですが、わしゃだんだん増えて乗れんようになった。乗れない間はやめたりしてた。7、8年やめてから、佐賀でオヤジがまた馬持っとったんで九州来たんです。昭和36,7年頃ですか。一生懸命に減食して乗ってましたよ。鳥栖やなしに、まだ市内にあった頃ですね、競馬場が。それから昭和38年か40年くらいに中津にやってきて、初めて腰を落ち着けたんです。
オヤジは佐賀でずっと競馬してて、40年くらいまでやったんかなあ。それから馬主やめてしもうてね。
わたしは中津でも乗ってましたよ。あの時はまだこの耶馬渓線が通ってた頃で、汽車を横目で見ながら乗ってました。調教師になったのは39年だったな。景気はよかったですよ。52,3年頃が一番よかったかな。馬券も売れたし賞金もよかったからねえ。
オヤジが馬好きで馬主やりよったからね。馬主も今はもうさっぱりやからね。昔で言うウマヌシベットウかな。調教師になった時は預かり馬ばっかりになってましたけどね。この厩舎団地が48年にでけたと思うけど、それまでは全部外厩に飼ってたんですね。
記憶に残る馬というと、サラのケイワジムニーかなあ。*3 ミスウイロー、ラッキータカラ……オープンもだいぶ勝ってたからねえ。二十何連勝した馬もやってたよ。オープンまで無傷ですよ。安い馬でねえ。二十何万で買った馬ですよ。抽選馬。自分で仕入れるんやなしに、預かり馬が多かったですよ。
定年がないです。ほんとはもう定年なんやけど、それが中津のええとこやったですね。今後はもうあんた、なんもすることないから。年金いくらかもらいよるけど、大したことないからなあ。ふた月で十万とかじゃなんもならんですよ。家内がおるよ。コドモはみんなあんた独立して、馬関係じゃない。
そりゃよかったよ。ええ目もずいぶんしたし。