『全共闘白書・資料編』への疑念

 いろいろと物議も醸した『全共闘白書』(新潮社)の、そのもとになったアンケートの全てをまとめたものが出た。『全共闘白書・資料編』と銘打ってあるが、版元は今度は新潮社でなく、「プロジェクト猪」名義での自費出版という形になっている。母数五千人弱に対して回答率一割強で、質問項目は七三項目。どんなアンケート調査でもそうだろうが、敢えて回答を寄せてくる人間の質とか、個々の動機や文脈などの変数を真剣に考慮すればするほど、その資料から「量」としての意味はどんどん剥奪されてゆく。故に、この資料集も、そのような人間たちの意識の「質」を示す資料としてのみ、何か意味を持つはずだ。

 だが、それにしても、同じ「全共闘」でもこれは相当に特殊な人たちでは、という印象は拭い難い。なるほど、今の職業や家庭環境など、私生活にまつわる境遇とそれについての価値判断などはさまざまだが、たとえば「嫌いな文化人・言論人」には栗本慎一郎、桝添要一、西部邁と答え、「注目する紙誌」に『週刊金曜日』をあげる、まるでどこかで申し合わせたようなその“右へならえ”具合には、予期はしていてもやはり鼻白む。意識は万年青年の現状不満分子という、昔ながらの貧乏書生ルサンチマンがプンプン臭うのだ。

 かつて『きけわだつみの声』も、同じ軍人でも戦争末期に学徒出陣によって駆り出された、その意味では間違いなく当時の社会ではエリートである、文字で自分の体験や感情を表現することに手慣れた者たちによる記録だったにも関わらず、そのことの意味がその後広く読まれてゆく過程ではどんどん忘れられてゆき、「心ならずも戦争に行かされた若者」という被害者意識だけを助長する媒介にもなったように、この資料もまた「全共闘」の、あるいは「団塊の世代」の意識を正当化しながら代表するように読まれてゆく危険性は高い。ここで沈黙した者たちの意識を逆に透視する読み方こそが望まれるだろう。(光)