どうして「現場」へ行きたがる?――キャスターたちの「現場」

 阪神大震災の報道を見ていて思ったことはいくつかあるが、まず不思議だったのは、どうしてニュースキャスターたちが先を争って現地へ行かねばならないのだろう、ということだった。いきなり「温泉場のようです」と馬鹿な第一声をやった筑紫哲也を初めとして、鳥越俊太郎木村太郎宮崎緑から蓮舫に至るまで、こういう時に現地へ行っていないと何か糾弾されるかのような形相でまなじり決して乗り込んでいたのは異様な喜劇だった。

 すでに報道のシステムが動いているところで、彼らがわざわざ現地へ飛んだところで別に報道の質がいきなり高いものになるものでもない。絵を撮るのはカメラマンなのだし、音を拾うのは音声の役目、もしもレポートが必要ならばカンが良くて身体の動く現役の放送記者が行けばまず十分だろう。何より、生中継でない限り絵は編集される。キャスターはきちんとスタジオでアンカーの職責を果たせば、それで何ひとつ天下に恥じるところなどないはず。それなのに、彼らキャスターがいちいち無理をして英雄気取りで現地へ出かけて行くのは、自分も「現場」にいるということを絵にして示したいからとしか思えない。

 そこに、こういう時に「現場」性を敢えて示しておかないことには自信を持ってテレビの枠の中に収まっていられない、彼らの不安が見える。それは、活字の世界からやってきた筑紫や鳥越といったキャスターにより顕著なのかも知れないし、さらに言えば、活字による報道の世界観を無意識のうちに優越させた、テレビの報道現場自体の屈折した心情のようにも思う。とは言え、強行軍のとんぼ帰りで被災者の手を握って帰っただけの筑紫に、村山首相のおざなりな“視察”を笑う資格などあるはずがない。その意味では、終始頑としてスタジオから動かなかった久米宏の見識は、意識的なものだったかどうかはともかく、さすがにテレビ独自の「現場」性を存分に使い回してきたこの人らしいものだった。(蜜)