「正義」から「常識」を、こそ

 全てがワイドショー化した、と言われるオウム真理教がらみの事件報道。鳥瞰的に見れば、テレビの特番の視聴率がうなぎ上りで、スポーツ紙と夕刊紙が飛ぶように売れ、雑誌関係は言われているほどでもなく、単行本に至っては閑古鳥の大合唱、てなところが事件をめぐるメディアの温度差らしいが、しかし、ワイドショー化した、と言われる中にも質は存在している。このような状況だからこそ、そのことを併せて指摘しておかないとまずい。

 たとえば、同じテレビでも、TBSの「スペースJ」や「報道特集」、あるいはテレ朝の「ザ・スクープ」といった番組は、かなり頑張っていたように思う。麻原の住民票をしつこく追いかけて七〇年代半ばの別府にまでたどりついたことなどは、早くからロシアに進出したオウム真理教を追いかけていた蓄積が生かされているはずで、テレビにおける「報道」というのが、新聞「報道」に対するコンプレックスを根強く持っていることを差し引いても、テレビ本来の健康な機動力を生かした仕事だったと思う。それらをも十把ひとからげに「ワイドショー」と片づけてしまうだけというのは、現場の人間に対する同情が薄い。もちろん、このようなメディアの発情に巻き込まれてしまえばテレビはテレビ、同じものにしか見えない、というマスの論理もあるし、またそれこそが最大公約数なのだが、その中での「質」を拾い上げてゆく作業も、言葉の側からしなければなるまい。

 過剰な演出や効果音、ナレーションや繰り返しを避けよ、という意見もある。なるほど一理ある。だが、それは突き詰めれば政見放送のような無味乾燥な映像文法へ回帰するのが正しい「報道」だという逆行をもたらしかねない危うさを含んでいる。ワイドショー化を支える〈こちら側〉の欲望のありようというのは、初発の時点で、それら無味乾燥な「報道」文法への違和感にあった。そのことを棚上げした「ワイドショー」批判は、おそらくことの本質に届くことはない。

 「正義」はある。価値の多様化、相対化にさらされ続けてきた中でも、確実に守られるべき社会生活の最低線というのはある。「正義」という言い方が耳ざわりならば、「常識」でもいい。それも気に入らないというなら「約束ごと」でもありだ。そしてそれは、個人の内面まで規定するものでもない。空中浮揚を信じながら、世間とうまく折り合いをつけてゆく知恵まで全て相対主義でなかったことにしてちゃ、そりゃ世の中いくらでも生きにくいものになっちまうって。