「観光」と〈おはなし〉の間――「五寸釘の寅吉」をめぐって

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 五寸釘の寅吉、の譚である。

 「五寸釘の寅吉」、本名西川寅吉。明治時代の犯罪者で、何度も脱獄を繰り返したことで知られる。特に北海道の樺戸や空知の集治監から数度にわたって脱獄したことで、「有名」になった。単に全国的にメディアを介して知られるようになっていた、ということとどもに、最後に収監されていた網走刑務所とその周辺では、地元の〈おはなし〉のひとつとしても、少し前まで語り継がれていた。

 今やかつて彼が収監されていた当の網走監獄の博物館が、「監獄秘話」のひとつとして彼のエピソードを紹介しているどころか、館の入り口には竹箒に“赤いべべ”姿の彼の人形が観光客をお出迎えし、格好の記念撮影スポットになっているし、あまつさえ「五寸釘虎吉せんべい」まで売店で売られていて「ミュージアムグッズ」の一環にもなっている。そのような〈おはなし〉が〈いま・ここ〉でどのような文脈で語り直され、使い回される、そのひとつの事例としても興味深いものだ。

 かつての「罪人」を「監獄」のプロモーション素材として、敢えて言えば「観光」の資源として扱うようになっていることについては、ひとまず大いに評価したい。かのアルカトラス島の監獄などを例に出すまでもなく、「罪人」「監獄」というのは常ならざる存在と場所という意味で、いまや堂々と「観光」の枠組みで活用されるものだし、また敢えて言えば、積極的にそうされるべきもの、なのだ。そして、民俗学者の眼から見れば、「罪人」も「監獄」ももともとそのような視線にさらされてきた経緯は言うまでもない。日本語を母語とする広がりの中でのこの「観光」というもの言い自体にまつわっている、まるで土産物屋の絵はがきのようなのっぺりとした手ざわりや、色褪せた色調とはまた違う、もっと闊達で広がりのある内実を、新たに同じその「観光」に込めてゆくためにも、この「五寸釘の寅吉」の持ち回られ方というのはひとつの事例として興味深いものだ。

 とは言え、歴史的事実としての虎吉がどうであったか、という視点から“だけ”、その「観光」を介した今日の「五寸釘の寅吉」の語られ方を検証、批判する、というのは、少なくとも民俗学者にとっては興味をそそるものにはならない。「史実」もまた「観光」の一環である。いや、そうあっさり言ってしまうのがいらぬ誤解を招くのならば、「史実」もまた「観光」という〈いま・ここ〉の文脈において常に解釈され直し続けるものであり、その限りでの〈リアル〉もまた常に編み直されることで立ち上がり続ける、という方向にほどいておこう。そういう意味での〈リアル〉をいかに、同時代の視線に向けて「歴史」の理解に役立つように、そして同時にビジネスとしても有効なように再編成してゆくのか、というのが、民俗学の視線から見た「観光」のひとつの実践になってくる。そういう視点、構え方を前提にしてのみ、「観光」というもの言いの間口も奥行きも、いまあるものとはまた違う、いくらかでも闊達な相貌を見せてくれるはずだ。


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 かつて、五寸釘の虎吉はそれなりに有名人だった。実際に存在した、明治開化期の「怪盗」として。

 有名になってゆくその始まりは明治三二年、「近世實話 五寸釘寅吉」と題されて『都新聞』に半年あまり、一四三回にわたって連載された続きものの主人公から。鈴木金輔が口述、伊原青々園が『都新聞』記者として筆記したもの、とされている。(1)連載終了後に、青々園はそれらをもとに読みものとして「五寸釘の寅吉」を世に出し、〈書かれたもの〉としては、まずはこれが下敷きとなって「五寸釘寅吉譚」が広まってゆくことになる。
 と同時に、それらテキストとして流布されると共に、その他のメディア――芝居や講談、見世物まで含めた当時の情報環境における〈それ以外〉――によっても「上演」が行われている。初発からそのような同時代の情報環境で縦横に持ち回られる素材として、敢えていまどきのもの言いを弄するならば「メディア・ミックス」として、「五寸釘の寅吉」はプロモートされていったのだ。(2)

 明治一七年、三好屋という質屋に盗みに入って逃走する際に五寸釘を踏み抜いたまま二里半あまりも逃げたのが由来の通り名。普請中の家の足場から飛び降りた際に踏み抜き、その五寸釘が足の甲まで貫いた、という描写もまた、彼の「異能」を際だたせる定型のディテールとして併せて語られている。

 「一丈五尺の足場より飛降りる機會五寸釘を踏抜きて寅吉のハッと思ひしが焦眉の急に引抜く隙もあらばこそ其儘件の板片を引摺りて一散走りに駈出したり、踏抜きたる五寸釘は足の裏を貫きて其の端は甲の上へ突出て血潮のダラダラ流れ出づれば足を踏出す毎に苦痛の堪え難きを不敵の寅吉は事ともせずに(…)」(3)

 その生涯についても、これらある規模以上に〈おはなし〉として拡散した事例の常として、資料によってかなりの異同があるが、ごくざっと概略を記すとこんな感じになる。

 生年は文久二年(1862年)(4)、三重県多気郡上御糸村に生まれたが、14歳のとき賭博のもつれで殺された叔父の仇討ちで博徒の親分の家に殴り込みをかけ、傷害放火で無期徒刑となって三重監獄に服役。だが、たちまち同監を二度にわたって脱獄、さらに押送された秋田監獄も脱獄、いかさま常習の博徒として全国を股に歩き廻った。その間静岡で博奕のけんかで殺人を犯し、遂に北海道送りとなった。そして、北海道へ送られてから、何度も脱獄を繰り返すようになる。

 その「脱獄」「破獄」が後の「五寸釘寅吉」譚の重要な属性になるのだが、ただ、それまでの犯歴や生活史については正直、詳細の不明な部分が多い。事実として彼の前科がどれくらいあり、それらがどのような犯罪だったのか、多くの資料はそれほど「譚」のディテールとしてあまり重要視していない。「泥棒」「盗賊」という漠然としたくくり方ですませていて、人を殺したり傷つけたり、あるいは博奕を稼業とする博徒であったり、といった要素について強調されることはないと言っていい。事実、果たして盗賊なのか博徒なのか、その生身の実態についての表現はさまざまだ。(5)

 語られる際に焦点が当てられるのは、まず「五寸釘」の通り名の由来であり、それは先に触れたような「五寸釘」を「踏み抜いた」というつながりを軸にした定型が、ほぼできている。そしてもうひとつは「脱獄」のディテールである。たとえば、こんな具合だ。

石狩川に張り渡された篭渡しのケーブルを猿の如く伝って対岸へ逃げのびた」
「一丈八尺の高塀を飛び越えた時は、獄衣を水にぬらし、それを力一杯塀に叩きつけるとピシャリと塀に吸い付く。その吸着力を利用してヒョイと乗り越えたとある。」(6)

 このあたりの描写は、彼の出自(後述)とも複合して、より〈リアル〉なものとして受け取られていったはずだ。

 樺戸で三度脱獄、そのたびに釧路、凾館でつかまり、三度目に脱獄の後、内地に逃走、福岡で捕まって空知集治監へ。ここも脱走したがすぐにつかまり、釧路集治監へ。その後釧路の施設が網走へと移動する時に網走へ。このあたりのディテールはテキストによって錯綜していて、明治二六年、逃走中に埼玉で捕縛されたのが最後、という説もあったりする。いずれにせよ、それ以降は改心したのか、あるいは寄る年波で若い頃のように身体が動かなくなったからか、その説明の仕方はともかく、集治監でも「他囚ノ亀鑑トナルヘキモノ」と言われるようになったという。そして、模範囚として過ごした後に、大正一三年九月三日に、なんと釈放。
 だが、当初のテキストで伊原青々園は、寅吉は処刑された、と日付まで付して、はっきりと書いていた。

 「当地の裁判所にて死刑の宣告を申渡され流石大悪徒の五寸釘寅吉も天の網の免るるに由なく終に空しく絞罪臺の露と消えたるは實に明治二十六年九月十三日の事なりけり」(7)

 まただからこそ、あの寅吉が生きていた、ということで、彼の釈放はニュースとして報じられることになったようだ。事前に評判になっていたので騒がれるのをいやがったのか、刑務所側が寅吉の釈放の時期をずらしたという説まである。

 その他、吉沢商店制作で無声映画にもなっている。主演は森三之助。今なら当然、マンガや劇画、テレビドラマやVシネマの素材として重宝されていただろう。また、昭和八年の中央公論では「泥棒哲学」と題される長めのインタヴューも受けている。(8) いずれにせよ、「犯罪」を介して当時の有名人であったことは間違いない。


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 だが、「観光」の文脈で今日、改めて語られ直されている「五寸釘の寅吉」からは、しかしかつての〈おはなし〉に含まれていた重要なディテールが抜け落ちている。

 それはそれら〈おはなし〉を読み取る世間の側の解釈格子が時代の移り変わり、情報環境の変動に伴って変っていったゆえの、解釈の水準の違いから生じるものというだけでなく、それらの違いによってかつての〈おはなし〉の側に確かに含まれていたディテールさえもが意識されなくなってゆく、わかりやすく言えば「見えないもの」になってゆくということだ。

 たとえば、彼はいわゆる「新平民」であった、という部分。これなどは、そういう「見えないもの」にされていったディテールの代表的なものだ。

 初出の『都新聞』版のテキストでも、この寅吉の出自については、彼を犯罪へと向わせてゆく「理由」の大きなひとつとして、繰り返しほのめかされている。

 「二見屋の娘小雪に見惚れて茫然店前に立停まりたる雪駄直の少年は何者ぞ、此れなん伊勢國多気郡佐田村の新平民西川寅吉とて成長の後に至り「五寸釘」といふ綽名を取りたる即ち本篇乃主人公なりしなれ」(9)

 「叔父さん口惜しい、如何して先ァ己は穢多の家へ生れたかと思ふと天道様が怨めしい、幾ら貧乏でも素人の子なら自分の心がけ一つで如何んな出世も出来るんだに穢多といふ肩書が付いちゃ一生涯日陰の身の上だ(…)」(10)

 「現在肌身を許して其の胤さへ宿したる遊人寅吉は穢多非人と世間に卑まるる新平民にして吾が身は其の穢多村へ連込まれたりと始めて聞いた小雪は魂消るばかりに仰天せしが(…)」(11)

 彼のもとの稼業は、雪駄直しである。その境遇の不遇ぶりに嫌気がさし、自分の持った道具箱一式を川に投げ捨てるところから、この「実話」は始まる。

 これは明らかに、黙阿弥の『鋳掛松』が下敷きになってのイメージである。そしてそれは講談や浪曲など、当時の情報環境における多様な芸能、民衆表現へと移植され、近代黎明期に膨大に生まれた根無しの民=細民たちが「身ひとつ」という「個」の意識をたよりに、世間に対峙してゆこうと決心するモメントとして、その後もさまざまなメディア、さまざまな局面、場面において縦横に使い回されてゆくものである。これらは、それまでの身分制度が明治になって立身出世という新しい社会的上昇機構が備わった分、それまで以上に抑圧として具体化してゆく過程の中での、ある〈リアル〉へと収斂してゆく〈おはなし〉の仕掛けであることがわかる。

 だが、当然ながら現在、「観光」の脈絡で「展示」される寅吉からは、そのような出自背景は全く消されている。展示として消されていると共に、こちら側、見る側の〈いま・ここ〉の世間の感覚からもなかったことにされている。それらは「展示」する側の意図や思惑による一方的な作為だけによるものではなく、観客も含めた常に相互性の中にある。そしてそれは時代の推移と共に意識すらされないままの共犯関係へと、構造的なものになってゆく。

 後には、寅吉は伊賀の忍者の末裔だ、といった噂も流れていた。サンカであり、忍者である“かも知れない”ような「五寸釘の寅吉」。彼が実際にどのような生をくぐってきたのか、とは別に、〈おはなし〉の水準においての彼はそのように整えられてゆくものであり、そしてその過程では、初発のテキストにはらまれていたある種のディテールまでもが、後のその〈おはなし〉の側から「見えないもの」にされてゆく。

 「新平民」であること、と、「サンカ」「忍者」といった、後に付与されてくるディテールとの間の相互の関係というのは、実にそういうものだった。(12)それらは、「新平民」「サンカ」「忍者」の間がかつての情報環境とその内側に生きる当時の世間からどのよう〈いま・ここ〉として認識されていたのか、とは別に、いったん〈おはなし〉の水準に引き寄せられたところで編集され、異なる関連づけられ方をされてゆく過程でもある。「歴史」とは、そこにはらまれる本質的に隠された作用の中には、このような過程から生じるものも間違いなく存在している。


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 昭和二年時に撮られたという、彼のブロマイドが残っている。先の平岡論文でも引用紹介されているし、その他の資料にも転載されて、比較的知られているものだ。

 もとは山谷一郎が地元の古老が持っていたものを発見したものとされているが、この画像が興味深いものなので再度、取り上げてみよう。

 「雪外居士」と称していたらしい。なりは僧形、袈裟を身につけている。そして、何よりも彼の前にはテーブル掛けの掛けられたテーブルが。向って右手には花瓶とおぼしきものも見えている。どう見ても「講演」「演説」、いや、これは正しく「浪曲」「浪花節」が創出してきた近代「マニフェスト」のフォーマットである。

 「大阪 高木興行部専属」とある。「五寸釘寅吉劇団」を結成して全国をまわっていた、その興行組織だったのか。少なくともこの時期、大阪の興行組織に所属していたことは確からしい。

 北海道行刑資料館にある寅吉の自筆とされる手紙には、彼が刑務所を出る時に関係を持った興行関係者に宛てた名前があって、「本間」となっている。これは、後に道内の興行関係を仕切る有力者のひとりになった本間興行の本間誠一と思われる。大正一三年九月三日とされているから、彼の「釈放」の日付と一応、一致はしている。また、興行を生業とする者たちの巡回ルートからすると、季節的に北海道での興行があり得た時期ではある。普通は地元の興行師に優先権がありそうに思われるが、ただ、すでに明治末年から全国区の「タマ」だったわけで、彼が出所するとの報を聞いて興行師たちの争奪戦が繰り広げられた、という話も伝わっている。

 朝倉喬司によれば、実際に彼を手に入れたのは、やはり地元の興行師だったようだ。

「シャバへ出た彼は、道内・野付牛の興行師・大川一郎に拾われた。大川は網走刑務所長宛に「脚本は同刑務所保安課の許可を受けて上演する」「興業収入の多少にかかわらず一日十円ずつ免囚保護費として上納する」等の内容の一札を入れた上で「五寸釘寅吉劇団」を結成した。」(13)

 この大川は、元は新派の役者だったらしい。大正年間に連鎖劇をひっさげて道内を巡業、大人気を博したという。(14) その後、地元で興行師になっていたのだろう。また、戦前から戦後にかけて北見地方の興行関係についての資料には、前述の本間誠一の名前も頻繁に出てくる。大川もまた、本間の配下に連なる興行師のひとりだったのか。(15)

 テーブル掛けには「贈 大阪黒門市場有志中」と記されている。大阪の黒門市場に贔屓筋がいたということだろう。先のインタヴューでは北関東をまわっていたというから、内地も広く巡業していたらしいが、そのような場合の興行がどのように仕切られていたのかはわからない。ちなみに、このような彼のブロマイドは「泥棒除け」として、彼の上演会場で彼の口演の合間などに客席で売られていたという。

 この寅吉のブロマイドにおける姿は、舞台のしつらえや衣装なども含めて、まず間違いなく当時の浪曲浪花節に典型的な上演の形式にのっとっている。同時にそれは広い意味での「雄弁」の脈絡も持ったものだったからと言える。

 「個」で、不特定多数の「観客」「聴衆」の前に立って、何かものを言う、表明する、というもの言いの作法が、近代の過程でどのようにわれわれ日本人に宿っていったのか、というとりとめない問いに対して、浪曲とその周辺に凝集していった要素については一定の寄与ができるものだ。何より、それらが互いに連関づけて考察され、語られることさえ乏しかったこと自体、現実に対して解釈の格子として作用してきた「学問」の間尺でしかそれらの問いが造形させてこなかった不自由について、改めて気づいてゆくことと同伴の過程になってゆく。 だが、だからと言って寅吉の上演が浪曲そのものだったということには、そのままつながるわけでもない。現在まで、寅吉が実際にどのような上演を行っていたのかについて、ほぼ唯一の記録と言っていい山谷の聞き書きによれば、比較的淡々とした説法のような講演だったようだ。語り手は「五寸釘寅吉劇団」の上演を実際に見た、という人。大正一四年の春、網走の一松座という劇場だった由。

 「会場へ行って見て驚いた。道東の小漁港網走には映画の常設館と、色物と言われる浪曲津軽民謡、芝居などを興業するという劇場は定員八百人のところへ、千人も入ったため二階席がミシミシと不気味な音をたてはじめたので、下に居る者が二階が落ちるといって騒ぎだすという超満員。」

「さて、幕が開くと最初は手品、落語、手踊り等があり最後に舞台に浪花節語りのような台が出され、その後ろに小柄なおじいさんが立っている(…)」

 当時の色物主体にさまざまな芸が雑居した、旅回りでは定番のオムニバスの演芸一座だったようだ。「劇団」という言い方からすると、芝居だけをする集団と思いがちだが、「劇団」というもの言い自体が新しく、またある意味ハイカラで上品なイメージを持っていたはずだから、敢えて使っていたという事情もありそうに思う。実態としてはそれまでになじんだもの言いの「一座」というのに、ほぼ等しい内実だったろう。(16)


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 「犯罪」に携わった者、そのように常ならざる存在になった人間がうっかりと「見られる」存在になり、そのことによってある種の芸能の属性をはらんで〈おはなし〉と化してゆくことは、何も寅吉だけでなく、近代の情報環境が整えられてゆく過程で必然的に起ってきている。 たとえば、出所後の寅吉が再度注目を集めた頃、東京市内の掏摸の親分として有名だった仕立屋銀次も、改めて名を取り沙汰されるようになっていた。明治四二年に検挙されて服役、出所した後に新聞などに聞き書きが連載されているあるいは、。尾佐竹猛らによって明治文化研究会が作られる時期でもあった、ということを言い添えてもいいし、新講談などを経由して、いわゆる「大衆小説」が確固とした〈おはなし〉のジャンルとしてその形を整え始めていたことを想起してもらえば、もっとわかりやすいだろう。

 「明治」が、そしてある程度「江戸」もまた一定の時間をおいて「歴史」の側に織り込まれつつある時期に、ジャーナリズムとそれを支える情報環境の変貌の中で、その時代を生きた生身の人間たちの「語り」が、広く世間の関心を惹くようになっていた。

 「犯罪」とはこのように「見世物」としての本質を、うっかりと見せてしまう。いまならば、さしずめテレビのワイドショー系の番組がその役割を肩代わりしているとも言えるのかも知れないが、そういう脈絡でのお手軽な批評も、ここではひとまず禁欲しておこう。まずは世に知られるようになった犯罪者はそのまま「見世物」になり得るものであり、その肝心要のところは、何よりその「本人」が自分の「体験」として語る、ということにあった、そのことだ。(17)

 もっとも、いたずらに話を混乱させるつもりはないが、この五寸釘寅吉が「ホンモノ」であったという保証は、実はどこにもない。事実、年齢の合わない「本人」がいくらでもこのような口演をしてまわっていた、それが少し前までの浪曲に代表されるような、これら民衆芸能の世界だった。そのような何でもあり、いい加減であやしげな当たり前の中で、〈おはなし〉は成り立っていたし、そこに根ざした〈リアル〉もまた当時の〈いま・ここ〉を構成していた。

 そのような事情は「観光」の脈絡においても同様だし、もう少し広げて言うならば博物館など文化施設の「展示」においても関わってくる。「観光」として示そうとする側、あらかじめ「展示」する側がこういう風に見てほしい、理解してもらいたい、といった文脈においてのみ、観客はそれらの展示に接するわけではない。まして、そのあらかじめ設定された文脈が、「教育」や「福祉」や、あるいはそれらの背後に横たわる「良識」なども含めて、すでにそれ以上の何らかの前提から枠がはめられていることをそのまま自省なしに表出しているようでは、当の「展示」の現前よりも先に、観客はそのはめられている枠、大文字のもの言い=イデオロギーをこそ先に察知し、それ以上の解釈を発動させてゆくことを自ら制御してしまう。「展示」される素材やテキストが本来はらんでいる多様な解釈、闊達な読まれ方の可能性は、そのようなからくりの中であらかじめ制限される。

 いま、「観光」施設としての網走監獄の正門前に立ち、「五寸釘寅吉せんべい」のパッケージに描かれた彼、寅吉のたたずまいからは、「新平民」であり「サンカ」や「忍者」だった“かも知れない”という、かつての〈おはなし〉を成り立たせていた〈リアル〉の水準に至るディテールは、さて、どのように読み取られる得るようになっているだろうか。

*1:例によって註が未掲載のままになっているのは申し訳なし。そのうちに何とか……