火野葦平

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 火野葦平とは、徹頭徹尾「孤独」な作家だった。

 別に、厄介な自意識を持てあまして一人勝手に孤独に陥ってゆくような、俗流文学青年の自閉趣味をさして言うのではない。いや、少なくともものを書こうとするような性癖の人間である限り大なり小なりそのような部分はある。しかし、彼が抱え込んでいた「孤独」とは、そんな自意識過剰気味な内面を自覚するからこそそこにとどまることを潔しとせず、むしろ世間との微細な関係の中で自らの自意識の輪郭を健康に保とうとし続ける、その程度に繊細で自省的であったゆえに大きな時代の流れの中で直面することになった、より荒寥とした内的風景だったと思う。

 火野葦平。本名玉井勝則。明治三十九年十二月三日(戸籍上は翌四十年一月二十五日)北九州若松に生まれる。小倉中学から大正十二年に早稲田第一高等学院へ進み、その後早稲田の英文科に入る。卒論ではポーを扱うつもりだったというが、昭和三年中退して帰郷、家業の港湾荷役業を継ぐ。その年の二月、幹部候補生として福岡歩兵第二十四連隊に入隊し、十二月に伍長で除隊。昭和十二年九月、折からぼっ発した日華事変に伴い再び召集を受ける。直前に小説「糞尿譚」を脱稿、同人誌仲間に託し、また、同じく直前に刷り上がった自費出版の詩集『山上軍艦』を背嚢に詰めての出征だった。小倉歩兵第百十四連隊に所属し、抗州湾敵前上陸作戦に参加した後、中支戦線を転戦。出征中に「糞尿譚」が芥川賞を受賞。そのため報道部に転属になり、上海から徐州作戦に従軍、その体験をもとにつづった「麦と兵隊」がベストセラーになり、その後も「土と兵隊」「花と兵隊」の俗に言う「兵隊三部作」を始め、「海南島記」「広東進軍抄」など戦地での体験をもとにした作品を次々と発表する。
 一旦帰還するが、太平洋戦争では再び白紙徴用で報道部勤務を命ぜられ、フィリピンからインパール、インド、ビルマなどを従軍して回った。これらの経歴によって敗戦後、昭和二十三年六月から二十五年十月まで、彼は文筆家追放処分を受けることになる。処分が解けた後、戦前にも増して多忙な流行作家となってゆくのだが、紙幅が限られている。ここは彼の最後の作品となった『革命前後』のことを書こう。「戦後五十年」などとひとくくりにされ、歴史的経験としての「戦争」が平板な大文字のもの言いの向こう側に押し流されようとする今だからこそ、書いておく必要があると思うからだ。

 ここで言われている「革命」とは、敗戦に際して九州の軍部の一部で構想されていたという「九州革命政府」につながるものだ。彼は宣伝担当大臣として名前を連ねていた。昭和二十年、九州への米軍上陸に備えて組織された西部軍報道部に徴用されていた彼は、ここで敗戦を迎えることになるのだが、その間の混乱の中での身辺のさまざまな動きが作品として記述されてゆく。ここに登場する主人公で、元軍曹にして人気作家の報道部員辻昌介とは、明らかに火野自身である。

 たとえば、こんな場面がある。すでに有名人だった辻は、敗戦後の騒然とした駅で復員してきた兵隊たちの一群に発見される。彼らの同伴者というそれまで通りの自覚の下、「敗戦によっておこるあらゆるものの価値転換、そのまっさきは恐らく軍隊と兵隊とであろう。しかし、兵隊に何の罪があるのか。兵隊よ、胸を張れ、と叫びたかった」と優しい眼差しを注いでいた彼は、相手が兵隊なので気を許していたが、兵隊たちは「辻さん、あなた、敗戦の責任を感じとるでしょうな?」と、つっかかって来た。

「もちろん、感じとるでしょう。感じずに居られるわけがない。あんたはわしら兵隊の王様で、あんたほどええ目に会うた人はないからね。わしら兵隊は一銭五厘のハガキでなんぼでも集められる消耗品じゃったが、あんたは報道班員とやらで、戦地で文章書いて大金儲け、『麦と兵隊』の印税で家を建てたとか、山林を買うたとか、大層景気のええ話じゃ。そんなとき、わしら食うや食わずで泥ンコ生活、わしの弟はレイテ島で戦死してしもうた。あんたが、いつ『銭と兵隊』を書くとかとわしら考えとったんじゃ。(…)わしら、あんたに騙されて戦うたようなもんじゃ。あんたの書いたものを愛読はしたけんど、今から考えてみりゃぁ、ええころかげんのことばっかり書いて、人のええわしら兵隊をペテンにかけとった。あんたが勝つ勝ついうもんじゃから、わしらほんとうかと思うて、一所懸命にやって来たんじゃが、ヘン、こんなことになってしもうて。あんた、この責任をどうするつもりですか。あんた、兵隊の服を着とったけんど、軍閥の手先じゃったとでしょう。どうですか」

 辻は大きな衝撃を受ける。自分の善意でつむいできた言葉が、世間の側でどのように読まれ、どのような視線をも組織し得ていたのか、その振幅を具体的に思い知る。

「戦争中からさっきの兵隊と同じことを考えていた兵隊があったかも知れないのだ。いや、あったにちがいないのだ。しかし、昌介自身はあくまでも庶民として、兵隊と同じ位置に立ち、一切の思考や言動の根拠をつねに兵隊の場においていたつもりだった。馬鹿だ。大甘のうぬぼれだったのである。」

 また、朝鮮部落の人々が、敗戦後掌を返したように態度が変わるのに直面し、「人間と人間とのつながりははたしてそういうものであろうか」と、実に素朴にとまどってもいる。 このような挿話から“侵略戦争に無自覚であった文学者”を発見するのはたやすい。だが、その“無自覚”の陰には、仲間思いで北九州の文学青年たちを糾合する中心となったり、また家業玉井組の若親分として働きながら組合結成にも尽力したり、というこの国の散文的知性本来の向日性に富んだ明朗さがあったことを見逃すわけにはいかない。そしてそれは彼を時代の寵児にし、同時にその「孤独」をより深いものにもしていった両刃の剣でもあった。“火野葦平”玉井勝則は、その明朗さゆえに「孤独」だったのだ。

 この『革命前後』の脱稿後まもない昭和三十五年一月二十四日早朝、彼は急逝する。死因は当初、心筋梗塞と発表されたが、それが自殺だったことが明らかにされたのは、さらに十二年後、遺族たちの手によって後に「ヘルスメモ」と呼ばれることになる断片が公表
されてからだった。

*1:朝日新聞社『二十世紀の千人』掲載原稿のひとつ