競馬とメディア、新たな時代と局面

 競馬がメディアの舞台に登る機会が、とにかく飛躍的に増えた。中央競馬だけでもない。先日など、ある競走馬が全休日の大井競馬場から逃げ出して首都高速を数キロ走って大捕物を繰り広げたことが報道されたが、その後、その逃げた馬がレースに出走する日には何を思ったのか多くのファンが殺到する始末。ワイドショーまで含めた報道陣まで大挙押しかけ、四歳未出走という下級条件のレースでしかも五着入線の馬についての記者会見まで行なわれたのだから、いやはや、これはもう笑えない。少なくとも、競馬とそのまわりのできごとはそのように世間の関心を喚起するようなものなっているのだ。

 昨年からは、『毎日新聞』を始めとした一般の日刊紙も競馬欄を設けるようになり、レース予想をするようになった。これは確かに大きな変化だ。けれども、レース予想が紙面のほとんどを占める構造から逃れられない限り、馬を日常的に飼養管理し、調教している厩舎の現場と関わらざるを得ないわけで、その厩舎を免許制度で管理して事実上報道を統制しているJRAの機嫌を損ねるようなことはしにくい。その他のメディアはというと、いわゆる競馬新聞と呼ばれる専門紙は言うまでもなくレース予想だけが使命だし、スポーツ紙や夕刊紙も基本的に同様だ。

 ならば雑誌はどうか。ここ十年あまりの競馬ブームに乗っていくつも月刊誌、隔週誌が創刊され、それなりの市場を獲得しているが、やはりレース予想が軸になって誌面が構成されていることには変わりない。それまで一、二の専門誌しかなかった週刊誌の領域にも、フジ・産経グループ系の『ギャロップ』が進出、豊富な資金力と斬新な造りとでコンビニなどを中心に大きく部数を伸ばしているが、これもレース以外の部分も含めた競馬界全体を視野に入れたクリティークには乏しい。テレビ・ラジオの電波メディアも「ファンのために」という大義名分をタテにしたレース予想報道に終始している。まして、中央競馬の全場全レースの中継を事実上の目的として農水省が設立したグリーンチャンネルに至っては、そのようなクリティークの役割などは最初から望むべくもない。

 つまるところ、かつて大橋巨泉が嘆いたような「この国に、健全な競馬ジャーナリズムは存在しない」という事態は、これだけ競馬が日常に浸透するようになっても何も変わっていない。他の領域ならば、良くも悪くも介在してくるはずの「報道」の正義が、こと競馬に関してはメディアの現場に驚くほど希薄なのだ。

 それは、何か問題が起こった時の不透明さに端的に表れる。たとえば、調教師の名義貸しの問題がある。これは簡単に言えば、馬主資格を持たない馬主に名義を貸して馬を持たせることで、競馬法で禁止されている。中央競馬では数年前から一部の調教師のこの名義貸しが問題になり、事実それによって処分もされたけれども、ある調教師がその処分を不服として抗議の姿勢を見せたとたん、この問題はたとえ短信としてでもメディアの舞台に全く登らなくなってしまった。水面下ではいろいろ懐柔の手立てがとられたり、交渉が行なわれたりしたと言われていたが、少なくともそれらの経緯を知る手立てはない。

 先日、『日刊スポーツ』が、くすぶり続けていたこの名義貸しの問題を改めて一面で大々的に報道した。他のスポーツ紙、日刊紙はほとんど扱っていない段階での報道で、いわゆる「抜いた」という形になった。これはきわめて珍しいことで、しかも、複数の調教師がからむ大きな規模の事件になり得ることを明確に指摘していたために、その後JRA側も無視できない展開になったことはひとまずお手柄だったと思う。同紙はそれ以降も住専から資金融資をしてもらっていた馬主を特定して所有馬の名前をあげて報道したり、なかなか挑発的だけれども、ただ、その後聞こえてくるところでは、それらの報道に関わった『日刊スポーツ』の記者やトラックマンたちがトレセンなどの現場で微妙に孤立させられているともいう。彼らの一部が他のメディアで署名原稿を書いてこの問題についてのアピールを続けていることも響いているのだろう。このような、悪い意味での記者クラブ的構造の弊害は、なにも政治や警察報道の領域だけのことではない。