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●H調教師
最初に騎手免許もろたんが、昭和27年の10月。八幡競馬場の時代ですね。今はもう、みんな忘れとるだろうけど、八幡に競馬場があったんですよ、本城ってところに。折尾の方に近いところです。電車でおりるところは陣原ですか。そこで免許をとりました。
家は、親が満州の方に行っちょったもんですから、そっちに一緒に行っちょったんですよ。仕事ですか。やっぱり競馬しよったと思うんですよ。おじいちゃんも馬の仕事しよったと聞きますからね。確か、営口に最初おったと思いますよ。オヤジはシベリアに抑留されたもんやけ、ばあさんとわたしとうちの弟と三人で内地帰るようなことになったんです。そいで、母親の実家のある佐賀の方に帰ったんですが、オヤジは二、三年向こうにおったと思いますよ。生きて帰っただけよかったですが、亡くなったのも早かったですけどね。確か六十八やったかな。とにかく、いろんなところで苦労しよったですよ。
佐賀に戻ってきた時が小学校の二年生の終わり頃、そこで(小学校)三年生から六年生まで行って、中学は小倉から行ったんです。ええ、オヤジの実家が小倉やったもんですし、じいさんに加勢もせんならんし、で。学校は八幡の折尾中学に入ったんですが、当時はもう、勉強すんな、ちゅうてからろくに行かせてくれんのですから。馬の世話するのにアタマいるかぁ、ちゅうて。それに一番下やからいじめられてね。まあ、ちゃんと三年で卒業はしたんですが、卒業式には証書だけとりに来てくれちゅうて取りには行ったんですよ。その年の10月には騎手の免許おりたんです。だから、学校ちゅうのは、正味行ったんは四年くらいですかね。あとはずうっと馬の仕事ばっかりですよ。それこそ寝藁あげから、桶洗いとか全部。桶ったって当時は木桶ですから、汚れがなかなかとれんのですよ。それをやらんことには許してくれん。それに、当時はウマヌシベットウですから、全部自分で外して自分で洗うてやってましたよ。八幡あたりの競馬場やと、今の騎手とは全然なりようが違いますからね。そりゃもう叩かれて叩かれて、風呂たきから全部させられよりました。なにしろ、自分が一番小さくて下がおらんのやもん。身の回りのこと全部ですよ。
自分が免許をとったら、親は一時、競馬をやめて、佐賀に帰ってたんですね。あたしは八幡でずっと乗ってました。福間にも競馬場があったんですけど、その福間と八幡と行ったり来たりして競馬して、そのうち八幡が先になくなったんで福間にみんな移動しました。福間には何年いたかなあ、確か、三年くらいいたと思うですよ。他の競馬場にもあちこち行きましたよ。(山口の)小月にも行ったし、大阪の園田にも行きました。小林さんちゅう先生のところに免許の試験受けに行ったし、姫路でも乗った。ただ、大阪の方は、なんのかんの言って(実戦に)乗せてくれんのですよ、それで、大阪好かん、ちゅうてそれから中津に戻ったんですね。
あれは何年かねえ、二十歳なるならんくらいの頃やと思いますよ。園田行った頃は十代だったでしょうね。とにかく小月に行ったり佐賀に行ったりして競馬しよったんです。当時はまだ兼業免許ちゅうのがあったもんで、それやったんです。そのうち騎手と調教師の免許が別になるというのんで、こっちで調教師の免許とらんか、と言うて呼ばれたわけです。で、試験受けたらすぐ通ったですよ。馬は18頭ぐらいおったもんですからね。ところが、主催者が(騎手を)辞めてもろたら困る、というんですよ。というのも、これでもリーディングとりよったですからね。だから、2月に引っ越して、それでも3月までノリヤクの免許があったもんで乗ってましたよ。で、その4月から調教師の免許もらって正式に開業しました。だもんで、わたしはここじゃ一番長い方じゃと思てます。
●T調教師
市長の気まぐれで生活も何もかもめちゃくちゃされてしもて、どこに恨みもってったらいいかわからんですよ。借銭あっても蓄えなんかないですよ。保険解約したり、払うものは払わにゃならんし。一年間もやっぱしこういう状態はえらいですよ。もたんですよ、普通なら。
一度、落馬して死にかかったことがあるんですよ。当時の重たいガチガチの鉄兜みたいなヘルメットかぶってたから助かってたかも知れんのよ。
三日間意識なくて、三日になる頃にこう、目がさめて、何しとるんやろ、ここで、と思ったですよ。そばにいる先生(調教師)がわしの顔見よらんのですよ。どうせ意識ないやろ、というんでしょう。そうしたらわしが気がついたんでたまがったらしいです。今みたいないい施設もないから病院の治療も粗っぽいし。まあ、一番ひどいケガはそれでしたね。今でも首筋が痛うなりますよ、天気悪くなる前なんかは特にね。それでも小月で一年くらいそれから乗ってました。
やっぱり儲かったですよ。カネ勘定は女房がやってたんで詳しい数字はわからんですけど、確かに儲かったですね。馬の仕事やってきてよかったというのはありますよ。
三年くらい競馬やってダメやったら廃止しますよ、とかいうんならよかったけど。準備あるやないですか。九州競馬やってようなったわけですしね。借金はあっても蓄えはないし、厩務員に給料払うのは当たり前やし、勝つあてもそうないし。九万円の預託料も払ってもらえんようになってるわけだし。月に十五、六万は赤字になってましたからね。買っても13万くらい。借金ばかりできてしもうとどうしようもないですよね。65歳が定年ですから、よその競馬場に厩務員で行ってもしょうがないし。二頭か三頭か自分でやらせてもらって、
妹婿ですからね。一緒に行って、加勢するからええわ、というけど、それも大変やし。でけんでもいいから、加勢として一緒についていきたい、というのはありましたけどねえ。七頭くらい佐賀に置いとるんですよ。馬主みたいな形ですね。馬主もおらんし、行かれんごとなったらどうしようもない。おそらく厩舎に来てたら馬見てくれ、というつきあいもあるし、今でもちょくちょく来る人もおるし。そういうつきあいの中でできた人たちですからねえ。馬買うから
馬はTに見させてから買う、と言ってくれる馬主さんもいたしね。いくらかもらえば食べていくのになんぼか助かるけど、また今日(役所に)行って話をして、こりゃもう荒尾でも行かないかんかなあ、とは思うてたんですがね。いまから先のことを考えると。
競馬場は年金なんか入ってないもんが多いですしね。この年になって仕事はないですよ。なんもかんも捨てて行かなならんですから。引っ越しするにもカネがいるしね。でも、遠いところには今から行きとうはないからねえ。せめて九州の中に、とは思うてますが、どうなるかわからんですよねえ。蓄えのある人はええか知らんけど、そんな人はまずおらんしね。よっぽど辛抱してやらんとできないですよ。
馬主さんにしても、こっちが競馬やってりゃこそ、賞金から預託料払え、と言うてもくれるけど、競馬がのうなってからそんなもん知るか、という馬主さんもいますよ。それが一番困るですね。どうにかせなメシは食えんわけですから。それでも、馬の仕事はしたいなあ、というのはありますね。荒尾は確か67歳が定年ですからもう少しやれますけどねえ。
北海道行った秋山は、うちで免許とって半年でしょ、まだ。*2うちじゃあ数は乗せてやりよったんですよ、上手になるように、って。向こう行って確か一勝してましたけど。あいつはちょっと身体が堅いし大きいですからねえ。追う姿勢もひとりひとりあるから、肘を延ばせ、とよく言うてたんですよ。ちょこちょこ追うな、と。手綱一本で操作をするわけですから。それと、このレースは何番手でいこう、枠順悪けりゃ前行くか、とか、そういうこと考えながらいつも乗らないといけないですよ。まあ、言うてきかせてもその通り乗れんですけどね。アタマがないと乗れない。それも普通のアタマやのうてレースでのアタマですね。それがないと乗ってゆけない。まあ、マジメでいい子です。口数少ないから横着なと思われてもしょうがないところあるんやけど、仕事はやりますよ。愛想言えんから。溶け込むまでちょっとタイヘンかも知れません。辛抱しちょるっていうからね。向こう言ったら向こうのニンゲンやから向こうからは電話してこんけどね。まあ、頑張ってくれりゃええけど。
わたしらはもう歳やけど、あれらはまだこれからやからね。今から何もかも教えてもらわないかんのやから、そういうて頼んだんやから辛抱しろ、と。ただ、デビュー半年であれだけ乗った子はあまりおらんと思いますよ。走らん馬ででも載せてやらにゃ練習にならんですもんね。
*1:『中津競馬物語』の取材メモより。
*2:秋山剛騎手 www.keiba.go.jp