「傷つく」という正義

 いじめはいけない。やめるにこしたことはない。

 別に改めて言うほどのこっちゃない。誰もがまずそう思っているはずだ。その限りでこのもの言いは圧倒的な「正義」であって、「戦争はいけない」とか「人殺しはいけない」などと同じ、誰も文句をつけにくい能書きではある。

 けれども、ただこれだけでは、わざわざ言葉にして世間にたれ流す意味のある能書きにはならない。必要なのは、ならばどうすりゃいいのかについて、個々の具体的な文脈に則して考えて対応してゆける処方箋につながる、そんな質と力を持った言葉のはずだ。特に、マスメディアが取り扱う言葉にはそういう水準が求められていると思うのだが、こと最近の「いじめ」の問題では、誰もがそう思っているというだけのそんな空虚な「正義」の能書きがどんどんひとり歩きし始めている。こりゃどう考えても異常だ。

 最近はまた「言葉によるいじめを受けた」てなことも言われる。この「言葉によるいじめ」には、閉じた逃げられない関係での罵詈雑言という本来の意味だけでなく、単なる悪口とかちょっとした陰口、売り言葉や捨てぜりふといった類までが膨大に含み込まれているはずだ。なのに、いじめられた側が「いじめ」だと思えばそれはいじめなんだ、てなとんでもないもの言いまでが平然と横行し始めている。

 冗談じゃないやい。それじゃあ何でもかんでも「いじめ」だと思い込んじまえば大人が味方してくれる、と安易に考える傾向だって助長されかねない。子供なんてのはそんなもの。なんで大人がそこまできちんと言ってやれないんだよ。でないと、いじめられっ子が根性出して一本立ちする契機まで初手から失われちまう。会社や職場でまで「いじめ」を振りかざしてグズるだけの大人がこの先わんさと出てくる、うっかりその片棒を担いでるかも知れないんだぜ。

 こういう傾向は、「傷つく」というもの言いの特権化とセットになっているように思う。少し前、あれは文部省の調査だったか、年間にどれくらいいじめがあったかという統計があって、それをもとに「いじめの件数が激増した」てな報道もあった。けれども、よく聞いてみりゃその「激増」はわけありで、何のことはない、それまでは何か客観的なものさしでいじめかどうか判断していたのを、ある年からとにかく自己申告、相手がどういう意図だったかなど具体的な状況に関係なく、とにかく本人がいじめられたと感じたら直ちにいじめとみなす、という基準でカウントするようになった、その結果というお粗末。なのに、多くのメディアは単に「いじめが激増!」てな大見出しでの報道しかしていなかった。こういうずさんさこそ大声で「メディアの犯罪」って言うべきだと思う。