ペットボトルの民俗学

 少し前、ペットボトルに水を入れて家の外、駐車場などに並べておくのが流行った。今でもやっている家がある。野良ネコよけにききめがある、といった説明がされていたと思うが、あれは民俗学的に実に興味深い現象だった。

 といっても、別にあやしげな話じゃない。なんか知らないけど民俗学ってのは身近なできごとに「ハレ」だの「境界」だのと得体の知れない能書きをつけて回る横着な学問と思われてるらしいけど、そりゃそういう粗悪品ばかり世に出回るようになっちまったここ十数年のことでして、正しい民俗学の眼から見れば、ペットボトル問題はわれわれ日本人の“もの”とのつきあい方にひそむ歴史を考えるのにいい素材なのでありますよ。

 ほら、瓶でも缶でも箱でも、中身がカラになったからといってそのままポイと捨てるのはどこかうしろめたい気持ちがあるでしょ。だから「何かの時に」という言いわけでそういう空き箱空き瓶の類をとっておいて、結局たまる一方でさらに始末に困るのが関の山。でも、少し前まで酒やしょう油はもちろん、豆腐でさえもこちらから何か器を持って買いに行くものだった。だから、器は家庭にストックされて使い回すものだった。その習慣が崩れてきたのは、自動販売機の缶入り飲料が大量に普及したごく最近のこと。それでもまだ、中身を飲んでしまった後の空き缶を一度クシャッとつぶしてからでないと捨てにくい心持ちもあったりして。世間が“もの”との間に長い時間をかけて結んできた約束はふだんの身ぶりや習慣にからんでいるらしい。

 実際、ペットボトルというのは扱いに困る厄介な“もの”だ。中身が入っているうちはまだしも、カラになるとやたら軽い。確かに器には違いないけど、空き箱や空き瓶などと違って「何かの時に」役立つようにも思いにくい。最近、つぶせるペットボトル入りのミネラルウォーターなどが出始めているのも、やはり空きペットボトルという“もの”の始末にみんなどこかで戸惑っていたからなのだろう。

 だが、そんなペットボトルでも水を入れて外に並べておけば、気持ちとしては捨てたことにならない。「野良ネコよけ」という説明もつく。その他、風車を作ったり、ロケットのように飛ばしたりといった「使い道」まで考案されている。涙ぐましいなあ。

 いずれにせよ、ペットボトルにからむさまざまな現象や問題には、そういう使い捨ての器が大量に日常に入り込んできて、身近な“もの”とのこれまでのようなつきあい方では対応できなくなっている状況でのわれわれの微妙な心の葛藤がにじんでいる。昨今大はやりの「リサイクル」や「ゴミ分別」なども、そういう背景から見るとまた違う意味を持ってくるんですけどね。