黒柳徹子的「善意」とは?

 黒柳徹子ボスニアだかどこかで「スパイ容疑」で一時身柄拘束されたそうである。当然だ、と思う。

 ユニセフの大使だか何だか、詳しくは忘れたけれどもそういう肩書きで世界中を飛び回っている、ということになっている。ご本人がどういうお方か僕は全く存じ上げない。けれども、そういう「善意」の人であるだろうことは容易に想像がつく。

 善意結構。しかし、今回このランキングでこれが一位になるとは意外だった。生データとしてあげると、日比谷新宿後楽園の参加所で、それぞれ11、19、16人の計46人が上げている。他に地味めのニュースが多かったせいもあるとは思うが、それにしても小室哲哉のドラッグ疑惑よりも注目度が高いというのにはびっくりした。この支持の背景にどういう気分があるのか、かなり興味がある。

 ひとつ、善意がひどい目にあっている、という正義感。逆に、単なるやじ馬感覚。

 国連をタテにした「善意」というのは、もしかしたら最もタチの悪いものかも知れない。

 役に立てばいいじゃないか、という立場もある。全くそう思う。勘違いであれ何であれ、具体的に困っている人に具体的に役に立つのならば、少なくともその困っている人たちにとってはありだ。山口組だろうが朝鮮総連だろうが創価学会だろうが、被災者に物資を届けた限りでは役に立った。そのあたり、メディアは報道しなかったけれども、しかし、と同時にそういう「善意」がどういう具合に商売になっているのか、それもまた同等に気にはなる。「善意」の値段がどういう風に算定されてゆくのか。どういう位置づけのもので、これまで現地ではどのように受けとめられているのか。笹川良一サンが盛んにそういう活動をやっていたのとどこがどう違うのか。

 まるっきりスッポンポンの「善意」を求めている気配がないでもない。「純粋」とか「ピュア」とかいうもの言いがその気配を増幅してゆく。ここではないどこか、今の自分ではないもうひとりの自分、そんなあやふやなものをいきなり求めてしまう遠い眼つきした人々が、心の中にひそかに棲みつき始めているのかも知れないと思う時がある。理想としての純粋形ならばまだいい。眼が遠い。宇宙入ってる。声のボリュームコントロールができない。

 思えば、黒柳徹子サンも濃い人ではある。それもまた商売であることは斟酌するけれども、ご本人がどこまでそのことを自覚しているのか、それは本当に聞いてみたい気がするのだ。