あの野村沙知代オバサンが新進党から衆院選に出馬するらしい、というとんでもない話が飛び出した。
ほんとかウソか、なにせネタ元がスポーツ紙で「政界に詳しい関係者によれば」という例によってのあやふやな話。新進党からはまだ正式に打診もしていないそうだし、何よりご本人が「私が政治なんてするわけないじゃない」と言っているとのことで、その限りじゃただのウワサに過ぎないのかも知れないけど、でも、まるで何もないところからこんな話が出てくるわけもない。少なくとも候補者選びの過程で、あの最近テレビによく出てる野村のカミさんなんかどうなんだろ、といった話はあったんだろうし、またこっちの方が重要だと思うのだが、選挙の候補者なんてたかだかその程度でいいやと政治の世界では思っているはずだ、というあたりのメディアの現場の認識がこの話には図らずも反映されていて、そのあたりが妙にリアルでかえって心萎えるのだ。
実際、人気さえあれば誰でもいい、という候補者選びの節操のなさは選挙のたびにエスカレートしてもうたいがいのことには驚かなくなっちまってる。今回予想される選挙にしても何も野村夫人だけでなく、話だけなら宮崎緑や桜井よしこや松山千春といった名前も飛び交っている。いやはや、ほんまかいな。
そんな候補に投票するバカがいっぱいいるからいけないのだ、という意見がある。ひとまず正論である。だから誰にも同じ一票を与えるのはいかがなものか、と説く人もいる。考え方としては一理あると思う。けれども、善し悪しはともかくそういうバカも含めた現実から敢えて何か可能性をすくい上げようとしない限り、わがニッポンによりよい民主主義などあり得ないと僕は思っている。この「豊かさ」を前提にした大衆社会の批判力というのは確かにバカな現われをとるその一方で、かつてのようなただのバカというだけでもないはずなのだ。だって、確かにそういういい加減な候補に一票投じる人は一定量いるけれども、アホらしくてこんな選挙なんてやってられっかい、という程度に正直にシラけている人の方が多数派なのが今の現実。そんな「観客の正義」だってすでに宿っていると僕は思う。
ただ、いくらなんでもこんないい加減なことばかりやってると、今の代議制民主主義に対する無力感がさらに増幅されちまう。野村のカミさんなんかにこちとらの意志を代表されちまうくらいなら、いっそのこと一票を直接行使させんかい、となる気分もごもっとも。するってえとなにかい、こりゃ直接民主主義を無責任にあおってまわる手合いの陰謀かい、てな軽口のひとつも叩きたくなる。まさか、そんなことはないよねえ。