衆院選、史上最低投票率から学ぶこと

 さて、衆院選挙は、どうやら史上最低の投票率で終わったそうであります。

 まあ、仕方ないよな、と思う。当たり前だわ、とさえ言いたくなる。そんな投票しろったってどこにどう投票すりゃいいんだよ、って感じなのだ。気取った名前やけったいなインテリアで客寄せできると勘違いしたコックや、自分だけが達人だと思い込んだボケた板前たちの勝手な思い込みで食い気の起こらない料理ばかり並べられたメニューをつきつけられて、ならばしゃあねえ、今日のところは無難に白メシの定食にしとこうぜ、ってところがある。政治もまたある意味で食生活と同じ“習慣”という側面を持っているのだ。

 例によって、国民の「政治への無関心」がさらに進んだ、てな解説があちこちに出ていたようだけれども、でも、そういう解説や説明の類って半分は当たってるけど残りの半分は絶望的に的外れだと思う。「政治への無関心」の結果として投票に行かないというのは人間もちろんあるけれども、全く同時に、関心はあるけれどもそれを投票という行動によっては表現のしようがない、という現実だってある。そのあたりの微妙なところをどこまで誠実に織り込んでゆけるかが、こういう大文字の解説や説明の貫禄ってもんじゃないの?

 およそ八九年を境にして、それまで当たり前だったさまざまな枠組みが軒並み役立たずであることがバレていった、わがニッポンがその過程のまだまっ只中にあることは間違いない。けれども、何十年も当たり前にやってきたことがいきなり変われるわけもないんで、かつての社会党に代表されたようないわゆる「革新」勢力が新しい現実の前に力を失ってゆくのにもやっぱり七、八年かかるよな、ということなのだと思う。

 と言って、じゃあ「保守」圧勝かっていうとそれも全く違ってさ。問題はとっくにそんな「保守」対「革新」なんて図式じゃなくなってる。だって、落ち着いて見りゃわかることだけど、この新しい現実に向い合えない「保守」もまた「革新」と同じようにどんどん没落してるもの。ただ、そういう「保守」対「革新」の図式でものごとを見る習慣から抜けられないままだとその現実が見えなくなる、ただそれだけのことだ。

 旭道山松浪健四郎も、そりゃもう何だってありだろう。野村のカミさんや佐藤直子がダメだったって、さすがにそりゃ当然なわけで、そういう選挙がらみのバカさ加減も、実はもうあまり大したこっちゃないのかも知れない。政治の当事者である政治家たちが、その政治をどれだけ今のこの新しい現実に見合ったものにしてゆけるか、それこそが大問題。本当に食いたい料理を注文するのはそれからだ。