ブランド狂いの不思議

 ナイキのエアマックスを狙った泥棒が流行っているそうであります。早い話が運動靴。何の間違いか、そんなものに一足何万円というとんでもない値段がつけられるほどの人気商品で、だから盗む奴もあちこちに出てくるという次第。

 ブランド好きというのは、かねがね理解の及ばない人種だと思っている。数年前に出た『豊かさの精神病理』(岩波新書)という本があって、その中にブランドという記号で自分の内面を埋め尽くしてしまう精神病患者の症例が出ている。日本人のブランド好きというのは、それ自体すでにひとつの文化的なビョーキとして考えなければならないようなものになっているらしい。ちょっとしたマークやロゴが入っただけで、同じ品物が一気に高い値段に化ける。イタリアでもフランスでもいいけど、そういうブランド商品を造っている側にとっちゃ、こんなに商売しやすいお人好しの国もちょっとないはずだ。

 ところがですね、こうは言ってても、いざ自分のことを振り返るとあまり笑えないんですね、これが。たとえば小学生の頃、月星だかのパンサーという運動靴がえらく流行って、思えばあれは今のブランドもののはしりみたいなもの。陸上競技用みたいな造りで確かに軽いのだけれど、あっという間に穴があくので質実剛健を旨とするおふくろ連にはえらく不人気だった。また、中学の頃には当時出回り始めたアディダスの三本線の入ったジャージがカッコいいってことになって、あれは当時確か兼松江商が扱っていた西ドイツ製の輸入品。値段も当時の国産ジャージの倍はしたはずだが、気に入った色を取り寄せるのに結構血眼だった。中には自分で三本線をこしらえてくっつけて喜んでるのもいたから、こりゃもうナイキ泥棒の高校生のことを言えた義理ではない。

 でも、敢えて弁護すれば、盗みはやらなかった。自分の手で懸命にその本物のブランドに似せてゆくいじましい健気さがあった。それは改造車に熱中する今の若い衆や、古着を組み合わせておしゃれのセンスを競う若い女の子などに近いものを感じる。ブランド信仰というのは、自前のセンスや感覚に開き直った自信が持てない分、ブランドという公認の権威に頼ろうとするビョーキなのだ。既成のブランドの組み合わせで表現されるものと、不細工だろうが何だろうが自分の手と感覚とで作り上げたものとの違い。それは、微妙な調整を手仕事で具体的にできるかつての機械と、単なる部品の取り換えで始末できる今どきの電子機器の違いのようにも思える。何も「美意識」とまで大げさなことは言わずとも、「カッコいい」の感覚にもすでにこういう歴史が横たわっている。民俗学者としては少し考えこんでしまうのでありました。