地震予知、という嘘

 伊豆方面で地震が続いております。このあたりを震源地とする群発地震は過去にもあったとは言え、今回のはちょっと様子が不気味であります。

 ただ、東日本に住んでる人間は「いつかは来る大地震」にずっと脅され続けているもので、まあ、生きてるうちにいずれは一発来やがるんだろうなあ、というあきらめがどこかにある。で、なるべくならば生き延びたいのはもちろんだけど、と言ってこればっかりはどうしようもない。空襲なら疎開することだってできるけれども、いつどこで大地震にあうかは交通事故と同じ。誰も選べない。まあ、自分のことを考えても、本棚と天井のあいだにつっかえ棒をするとか、寝る時は頭の上に何か重たいものが落ちてくるようなところで寝ないとか、対策はせいぜいその程度。外出時だったら本当に運任せだ。地震ってやつはどんなに大きくても最初の数分間さえ生き延びればその後の生存率は高くなるという話だから、その数分間を無事やり過ごせてからその先を考えるしか、正直手の打ちようがない。

 そう考えてくると、あの地震予知連絡協議会を始めとする政府系の組織、あの存在意義が僕にはよくわからない。

 地震の「予知」が果たして本当に可能なのかというのも問題だけど、それより何より、たとえ確実に「予知」できたとしても、それを世間に知らせてしまえるだけの度胸が今のああいう組織にどれだけあるんだろう、というところがまずもって疑問なのだ。それだけ重大なことを世間に知らせてしまって、その結果について果たしてどこまで腹くくって引き受けられるのだろう。 だってさ、いかに「科学的」に確信があるとしても、実際に「予知」を報道して世間は上を下への大騒ぎ、避難だ何だとみんな走り回ったあげくにもしもそれが外れたとしたら、その社会的影響たるや想像を絶する。「○月○日に富士山が爆発する」てな“矢追系”の予言ならまだシャレですませてもらえるが、しかし、「科学的」な「予知」だとていざ発表してしまえば社会的な意味は同じこと。今どきのことだからやれ補償だ、損害賠償だとやられるのは間違いないし、逆に、やっぱり予知は外れた、と安心して気の抜けたところにドーンと地震が襲ってくることだってあり得るし、まあ、どう転んでもロクなことになりそうにない。

 もちろん、「科学的」な「予知」の可能性を専門家に研究してもらうことは必要だ。しかし、現実的な政策としては「予知」よりも、いったん起こった地震に対して効果的な初期被害対策を整える方が役に立つんじゃないだろうか。その意味で、この地震「予知」ってのはガン「告知」などと同じ、「科学」によって全てを制御し得るという「科学」万能信仰がふくれあがっていった高度成長期の神話って気がして仕方がないのだ。

 人間、未来を事前に知ることができる状態が常に幸せだとは限らない。心構えだけはちゃんと持って、あとはことが起こってから考える。それっきゃない、と僕は思う。