スジが通らないこと、と対処の仕方

 スジが通らないこと、というのは世の中いくらでもある。

 スジだけでも回ってゆかない、だからこそ世間だというのもひとまずもちろんだし、個人的にもそう思う。てめえひとりでスジだスジだと思い込み、それがそのまま世間一般にとってもスジであるべきだと勝手に信心し、それが通らないと「世の中が間違ってる」と性格がねじ曲がってゆく、その「自分」と「世間」の間の距離感のなさこそが今どきの「市民」「リベラル」系のビョーキの根幹だと言い続けている小生としては、多少スジの通らないことがあったとしても、ただそれだけでガタガタ言うことはしたくないし、しないつもりだ。

 しかし、だ。それも時と場合による。ましてや、普段は他でもないてめえらこそがスジだスジだと声高にさえずっていた手合いに対してなら、おお、そうか、だったらそのスジってやつをきっちり通してもらおうじゃねえか、とすごんだってバチは当たるまい。

 何をいきなり身構えてるかってえと、まず、例の日本人妻の問題。なんかメディアの舞台はまるで横井さんか小野田さんが帰国した時みたいな扱いで及び腰で、それも限られた人についてしか報道されないけど、今の北朝鮮平壌に住めてるってことはどういう階級の人間か、とか、受け入れたくない親族だっているぞ、とか、そもそもなんでこんな問題が今頃外交イシューになっちまったのか、とか、そのへんの事情がまるで聞こえてこないのはなぜ?

 次に、中国の李邦首相の来日の件。訪米してアメリカとナシつけてその帰りに日本ともご近所づきあいの調整を、てな外交事情はそれとして、僕が言いたいのは、昨今中国とつきあいたがってるアメリカでさえあれだけ人権弾圧の問題を言っているのに、わがニッポンの「人権」団体方面がその件で李邦首相にデモかけたとか抗議したとかって話はまるで聞かない。それってまたもや、なぜ?

 難しい話じゃない。簡単なことだ。「正義」ぶった構えの報道機関やそれら「運動」団体が掲げるスジってのは、たかだかその程度のもんなの、ってことなわけですけどね。いや、別にそれはそれでいいんだけど、だったらハナっから「正義」ぶらない方がカッコいいんじゃないかなあ、と、僕なんかは思っちまうんすけど。

 「人権」真理教、「弱者」真理教ということが言われ始めている。「人権」「弱者」など「誰も否定できない大文字の能書き」をことさらに金科玉条にし、てめえひとり棚に上がった「正義」のアリバイにしている「市民」主義のビョーキというのは、すでにある雰囲気として広がっている。もちろん、世間もそれほどバカじゃないから、それに対するまわりのはっきりした違和感や反感も共に増幅されていて、その間の葛藤というのは今、かなりのエネルギーをはらんでいると僕は思う。

 「人権」派の講演会などに行くと、株主総会さながら、総会屋めいた「運動」屋によってあらかじめ質問を制限するようなことが珍しくない。そんな手合いが説く「情報公開」だの「行政改革」だのがなんで信用できるかっての。なんでもっと自然体でやれんのかねえ、こういう人たちって。