忘れられた「タフ (tough)」――浪曲と日本の近代

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 浪曲は忘れられた芸能です。
 今日、日本人のほとんどは浪曲のことを知りません。若い世代はもちろん、大人でさえも浪曲のことを忘れています。浪曲のことを話して、あるなつかしさと共に応えてくれるのは、70代から上の老人たちばかりです。かつてはどこの町にも必ず浪曲を実際に上演する寄席がありました。けれども、今では東京の浅草にひとつだけで、しかも月に十日間、午後だけの興行になってしまっています。もちろん、聴衆は老人ばかりですし、プレイヤーも同じ。一番若い人でも五十代後半です。CDやレコード、テープなどももうほとんど見られませんし、テレビやラジオでも年に数回放送があるだけです。もしも、日本の歴史や文化を専門とする日本人研究者に浪曲のことについて尋ねてみたとしても、まず絶対と言っていいほど、何も知らなくなっているはずです。
 しかし、明治時代の後半、19世紀の終りから、30年ほど前、1960年代の高度経済成長期まで、およそ70~80年もの間、浪曲は日本人にとって最も知られた芸能のひとつでした。そして、浪曲は日本人の国民国家形成の過程において、人々が「日本」という自意識を作り上げる最も重要なメディアのひとつでした。
 たとえば、1930年代の日本人にとって、最もポピュラーで人気のある芸能は浪曲でした。当時はラジオ番組の娯楽プログラムの半分が浪曲でした。また、日本におけるレコード産業は、その発展の最初の段階において、浪曲のレコードの売上げによって基礎を作っています。銭湯に行けば、頭にてぬぐいを乗せて浪曲をうなる日本人の姿が見られました。映画やレコード、演劇といったポピュラーカルチュアに規制を加えた当時の政府でさえも、浪曲だけはもっと聴くようにと奨励しました。彼らは浪曲がその「武士道」イデオロギーを通じて、草の根のナショナリズムを補強すると考えたのです。
 今日は、その忘れられた芸能、浪曲と日本の近代化の過程についてアウトラインを報告します。実は昨日、メルボルン大学の図書館に行き、東アジアのコレクションを少し見ましたが、浪曲についての文献は全くありませんでした。仕方ありません。もしも興味を持つ方がいらっしゃるのなら、個人的に相談してもらえれば、必要な文献などについてさらにできるだけ紹介したいと思います。


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 浪曲は明治時代に生まれました。
 その背景には、近世以来のさまざまな芸能、語りもの、たとえば説教節とデロレン祭文とあほだら経などの影響があります。歴史的には、そのような路上の芸能が、近代化と共に都市でまとめられたものだと言えます。
 ふつう、浪曲は、実際に演じる主なプレイヤーと三味線のプレイヤーとのふたりで上演されます。寄席か、それよりも大きな劇場で上演されるのが普通でしたが、明治時代の半ばまでは野外でだけ上演されていました。落語や講談といった、近世以来の町人たちのポピュラーカルチュアよりも卑しい芸能とされていたので、寄席には入ることができませんでした。落語や講談は町人にとっては、市民の教養として聴くものでしたが、浪曲はとてもそんなものではありませんでした。乞食による大道芸だったのです。
 その頃は、うかれ節、ちょんがれ節、軍談などと呼ばれていました。明治の20年代から「なにわぶし」という呼び方が定着してゆきます。その頃から、プレイヤーの数が増えて人気を獲得し、東京では寄席で上演されることが許されるようになりました。「浪曲」という呼び方はそれよりさらに後、大正時代に入ってからのものです。今でも、人によっては「浪花節」と呼んだ方がよくわかることがあります。
 発生したのは、東京周辺と、大阪周辺、それに名古屋や福岡周辺という、当時の都市部でした。関東地方の農村地帯にあった、仏教の伝統と関わる民俗芸能である説教節が江戸の都市部に入り、19世紀前半から半ばにかけて都市化した芸能になった。それが明治以降の近代化によってさらにさまざまな要素と複合して浪曲になりました。細かく言えば、それぞれ場所によって少しずつ上演されるものに違いがあり、時には関東節、関西節、中京節などと別々に呼ばれていました。また、使う楽器である三味線も、関西節は使う三味線が義太夫のものでネックが太くて音も低い。関東節は逆に細いネックで音が高いものでした。
 現在残されている最も古い録音は明治30年代のものです。イギリスのグラモフォンが録音した片面のレコードが残っています。その後、アメリカのコロンビア、ドイツのベカなどの会社が録音しています。日本の会社による録音は明治42年に始まり、その後大きな市場を獲得してゆきました。最初に言ったように、日本のレコード産業は浪曲によって基礎を作りました。
 その頃、浪曲を国民的な芸能にするのに大きな役割を果たしたプレイヤーが、桃中軒雲右衛門です。彼は、明治初めに関東地方で生まれました。父親も祭文の芸人でした。東京で修業をした後、ある事情があって九州へと行きます。そこで、当時西日本で人気のあった軍談の美当一調に影響を受けて彼のスタイルを確立します。と同時に、日露戦争前後の時期に、九州のナショナリズムの団体「玄洋社」のサポートを受けて、台本を作ってもらいます。この台本は「義士伝」でした。赤穂浪士の物語として歌舞伎などでもずっと知られていたものですが、それを浪曲に適用したのです。これは彼の代表作になりました。また、同じく日本の右翼革命家であり、中国革命を支援していた宮崎滔天が彼の弟子になったことも、インテリたちの支持を獲得するのに役立ちました。
 彼はそれまでの汚い格好をやめて、羽織と袴という正装をしました。そして、三味線を観客から見えなくして、彼に観客の視線を集中させました。「武士道鼓吹」をスローガンにしました。明治40年、九州から東京へ向かって再び移動する途中、人気を博して東京に帰る頃には大人気になっていました。 その雲右衛門の浪曲の録音を少しだけ聴いてもらいましょう。

◆T APE 1 桃中軒雲右衛門「大高源五」の一部

 全く何を言ってるのかわからないと思います。われわれ日本人でも聴いただけではわかりません。けれども、当時の日本人にとっては語られている物語よりも、この「声」がとても魅力的だったようです。新聞などでは「七色の声」とかという言い方がされています。ナショナリスティックな表象というのは、このような「声」も含まれていたのでしょう。
 その後、大正時代半ばまで浪曲は勢力を伸ばします。レコードと共に浪曲の上演が活字になり、読み物として人々の間に流通してゆきます。それまでも落語や講談がそのまま記録され、読み物として流通していましたが、浪曲はさらに広い範囲の読者を獲得しました。たとえば、こういう形の小さな本です。
 浪曲の主な観客は、落語や講談、あるいは歌舞伎などと違い、伝統的な都市市民ではありませんでした。大正初年、浅草での調査によれば、零細職人、流れ者、漁師などが中心だとされています。教養の程度も明らかに低いもので、文字を読めない者が大部分でした。これはプレイヤーも同じです。同じ頃、権田保之助の調査によれば、プレイヤーの前身は犯罪者、漁師、職人、芸人などが記録されています。これに対して、落語や講談の観客は都市の商人たちでした。教養もある程度が要求されました。ですから、浪曲は当時の市民層やインテリからは徹底的に嫌われました。無教養で品がない芸能とされたのです。
 けれども、単なる語りものというだけでなく、「フシ」と「声」という要素を加えた上演は、音楽的な魅力もありました。中京節で知られた鼈甲斎虎丸のリズミカルな上演を聴いて下さい。

◆TAPE 2 鼈甲齊虎丸「安中草三」の一部

 これは「外題づけ」と言い、物語に入る前のオープニングフォーミュラの部分です。ラップミュージックなどに通じるものだと思います。
 さて、大正末から昭和にかけて、1920年代から30年代の時期、大衆社会の進展と共に、浪曲はレコードとさらにラジオという新しいメディアによってより一層国民の間に広まりました。同時に、政府も浪曲を奨励しました。それまでの講談などの題材だけでなく、新しいテーマも取り入れてミリタリズムに協力もしました。それらはあまり人気を獲得できませんでしたが、それら協力の結果、浪曲は敗戦後はGHQに統制され、またそれらを背景にした左翼勢力などにも「封建的」芸能として批判されました。知識人たちからは、「古臭いもの」「反民主的なもの」として、言わば「忘れるべき日本」の典型として定義されたのです。
 しかし、人々は簡単に浪曲を忘れませんでした。独立回復後、1950年代後半に最も観客を獲得した日本映画も、浪曲で知られたテーマのものをいくつも作っていますし、流行歌などにも浪曲ものはたくさん出ました。また、当時テレビ放送が始まりましたが、そこでも浪曲をベースにしたドラマなどが作られて人気を博しました。その頃から出てきた歌謡曲の市場にも浪曲出身の歌手が何人もヒーローになりました。1960年代を通した高度経済成長期に膨張したアメリカニズムの中でも、浪曲の要素はさまざまに生きていました。
 しかし、高度経済成長期が終り1970年代に入ると、産業の中心が農業や漁業などから第三次産業に移行し、「義理と人情」といったそれまでの農民な価値観が薄れてゆくと共に、人々の浪曲に対する関心は急速に失われました。特に若い世代にはそのような世界は理解できないものになりました。
 浪曲が、その最も盛んだった1920年代から30年代にかけての時期に強調したのは、「タフ」という価値でした。信頼できる人間、頼れる男らしさといったものが物語の中で繰り返し出てきます。有名なシリーズである「清水次郎長」の中の森の石松は、片目でバカで短気で力持ちという設定ですが、その彼は国民的なヒーローになりました。「馬鹿は死ななきゃなおらない」のフレーズは、映画や演劇などにも何度も繰り返し使われました。広沢虎造のその一節を紹介しましょう。

◆TAPE3 広澤虎造「清水次郎長伝」の一部

 このプレイヤー虎造は浪曲の代表的プレイヤーですが、当初、寄席や劇場では声が小さいので人気が出なかったのが、ラジオ放送によって人気が出た人です。「フシ」から「タンカ」という会話の要素が前面に出され、先の雲右衛門などとは違う印象だと思います。このように、レコードとラジオによって浪曲は対話による語りものという性格を強めたところもあります。一部のプレイヤーはラジオドラマやナレーションなどにも活躍しました。声によって性格を描写する技術として、浪曲の技術は役立ってきたのです。
 浪曲が作り上げた「日本」および「日本人」のイメージは、浪曲を支えた人々の希望に規定されていました。それは、文字を読める近世以来のインテリ層や市民層ではない、明治維新以降の近代化の過程で新たに「日本人」となっていった下層の人々であり、後の大衆社会化の過程では新たな消費者となり、選挙権を獲得して新たな選挙民となっていった人々です。彼らは彼らの文脈から引きはがされ、都市の新たな現実に巻き込まれた人々でした。その彼らの不安を浪曲が描いた「タフ」が反映していました。誰もが浪曲の有名な英雄を知っていました。英雄たちは彼らの社会的な不利を正面から受け止め、その条件の中で「義理と人情」によって「一人前」であることを示そうとしました「タフ」な人たちでした。日本的な「インディペンデント」のイメージがあり得たとしたら、おそらくこの浪曲の描いたような「タフ」な英雄たちとの関わり抜きにはあり得なかったでしょう。
 今日の日本の社会や文化を考える日本研究の文脈において、この浪曲の果たした功績をもう一度考えることは、決して無益ではないと考えます。もう一度強調します。もしも浪曲に興味を持つ方がいらっしゃるのなら、個人的に相談してもらえれば、必要な文献などについてできるだけ紹介したいと思います。以上です。




*1:Reported at JSSA meeting; at July.4 1997, Melbourne, QL Australia