さあ、もうはっきり言おう。顔をあげて、大きな声で正しくこう言い放とう。
それは社会のせい、ではない。学校のせい、でもないし、家庭のせい、でもない。教育のせい、でもなければ、地域のせい、でもない。
何か事件が起こった時に、そのように言いたがる人たちというのが必ず出てくる。出てきて、新聞や雑誌やテレビや、そういうメディアの舞台で悲痛な顔して重々しくそのようにのたまう。まるで自分だけが責任を自覚しているような態度で、ひとりで勝手に悲劇の主人公ぶって、一億二千万総ざんげの司祭となる。
だったらまずこう言えばいい。それはわたしのせいです。わたしがこのような事件が起こり得る背景をちゃんと世間にわかるように説明していなかったから、こうなるんです。全部わたしが悪いんです、と。そのわたしがどのように責任があるのかについてちゃんと説明できるならば、初めて「社会」の責任についても語れるはずだし、そうすれば誰にもみんな責任があるということが納得できるだろう。
それが言えるか? 言えないのならば、もっともらしくそんな「解説」をする身振りはもうやめよう。やめさせよう。誰ももうそんな「解説」など求めていないことを、はっきりと伝えよう。そういう評論家、そういう知識人、そういう専門家たちのそういう態度、そういうもの言いこそが、事件を正しく「われわれの問題」として身にしみるようにすることから遠ざけている。いきなり他人になりたがる、いきなり自分と関係ない現実に関わりたがる、その距離感を失った倒錯的心性は、自前の言葉で問いを組み立てて関わろうともせず、何かというと「アジアの人々」にあやまりたがる、あやまればそれですむと思い込む今どきの「自虐史観」の横着と根は同じだ。
すでに親でさえわからなくなっている子どもの現実を、学校がわかるだろうか。教師がわかってやらなければいけないのだろうか。誰かそういう他人がわかってやれというのだろうか。もちろん、それができれば素晴らしい。そのような他人との関係が保てる程度の共同性を日々の暮らしの中には期待したい。けれども、それ以前に、まず自分の手もとで事態に対処しようとする身構え方のなくなったところでいきなり他人に期待するのは、「消費者」であることの受け身に居直る態度でしかない。
先生や親は「ショックです」と肩を落とす。それはわかる。しかし、その正しく自分の手もと足もとで当事者として関わらざるを得ないショックを、次の瞬間には「教育」だの「家族」だのというどんどん大文字のもの言いに変換してゆき、あげくの果てに「子どもたちのこころのケアが足りない」などとあさっての方向のことを言い出しては、そういうひと山いくらの「こころ」の専門家の商売を増やすのが関の山。だが、その「こころ」の問題の専門家というのは、それが精神科医であれ心理学者であれ、はたまたセラピストだのカウンセラーだのといういずれカタカナのあやしげな看板掲げた手合いであれ、たとえばあの宮崎勤ひとりきちんと「病気」かどうかを判断できない、いずれその程度の代物だということがバレてしまっている。専門的な能書きがどうであれ、世間が生身の感覚で「あれってやっぱりヘンだよね」と感じる、その感覚も含み込みながら何か信頼できる説明をしてくれる、そんな立場など彼ら彼女らはほとんど考えていない。そんなわけのわからない専門家に自分の子どもの「こころ」とやらを好き勝手される前に、自分たちでまず何とかするべきじゃないか。何より、そんな「こころ」の問題にまで何かひとつの「正解」を外部に求めようとするその性癖が、僕は本当に気持ちが悪い。腹立たしい。
問題の中学校は評判の進学校だったという。そういう高偏差値予備軍たちの共同性の中で、問題の彼がどのように存在していたのか。ことと次第によって、あの中学校に通っていた中学生たちにこそ「責任」を問うことだって、もはや必要かも知れないと僕は思っている。