ゐなか、が存在する――月ヶ瀬村 女子中学生行方不明事件

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 未解決だった奈良県月ヶ瀬村の女子中学生行方不明事件の容疑者が逮捕された。テレビに映し出される人口千人あまりの「いなか」に報道陣が殺到しての大騒ぎを眺めていて、しかしひとつ新鮮だったことがある。村の人たちの報道陣に対する対応がほぼ無防備にスッポンポンなのだ。

 テレビカメラの前でマイクを突きつけられても本当に素朴に話す。身構えない。今どきの世間というのは、たとえ素人でもすでにどこかでカメラを意識した反応を身につけているものだし、またテレビなどはそのすれっからしな具合までも織り込みながら素人をどう「絵」にしてゆくかを考える。いや、普段は月ヶ瀬村の人たちだとて今やその程度に今どきの世間のはずなのだが、しかし、今回の事件はそういうメディアに対する通りいっぺんな慣れなど蹴倒すぐらい切実な生身の“できごと”として現地では体験されている、そんな気配がその無防備な様子からうかがえて妙にリアルだった。それはあの「酒鬼薔薇」が逮捕された夜、須磨警察署の前に集まっていた野次馬たちのイベントまがいに勘違いした様子と比べても、明らかに違うものだった。

 夢野久作の『いなか、の、じけん』を思い出した。昭和初年のモダニズムの中、北九州の農村で起こったさまざまな事件を素材につむがれた怪奇譚。何かそういう“おはなし”のリアルさみたいなものが期せずしてフッと〈いま・ここ〉のテレビの表層に浮かび上がったような、そんな新鮮さがあったのだ。

 「都市」と「いなか」の違いがなくなった、と言われて久しい。確かに、交通や流通も含めた広い意味でのメディアの発達と変貌はそのような「いなか」の閉鎖性を勝手にこじ開け、独自性を失わせていった。日本全国どこも一様によく似た風景、よく似た暮らしに覆われていったのも、大きく言えばこのニッポンの「豊かさ」のある側面だった。

 しかし、それでもやはり「いなか」は存在する。今のこの高度情報化社会のもみくちゃの中でさえも、いや、そんな中だからこそ、どこも同じのっぺりとした「都市」の皮一枚めくったその下に、未だ語られぬ「いなか」がじっと身をひそめている。

 

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 少し前、NHKの深夜枠で、中国の四川省から深釧へと出稼ぎにやってくる若い女工たちを追いかけたドキュメント番組があった。眼のくらむような「都市」のきらびやかさを誇る今の深釧に「いなか」で生まれ育った彼女たちがどのようにあこがれ、どのように現実に流されてゆくのかが映像の雄弁でとらえられていた。だが、その彼女たちのカメラに対する素朴さや無防備さは、不思議なことにそんな「いなか」の手ざわりなど失ってしまったはずの今のニッポンの「豊かさ」の中に生きる月ヶ瀬村の人たちのそれと変わらないものに見えた。

 何もかもあわただしく変わってゆくようにだけ感じているわれわれをあざ笑うように、時代という代物も実はその程度には変わらないものなのかも知れないと思ったりする。

*1佐世保の事件の7年前にこんなことを書いていた。夢野久作を媒介にする発想の根っこは変わっていない。id:king-biscuit:20040622