異なる水準の言葉の連携、そして、社会・歴史像の転換

「情報環境」という問いが今、必要な理由

 くだらないこと、ささやかなこと、とるにたらないことがただそのようなものとして充満している「日常」を、構築的にではなく記述的にとらえる態度が、果たしてどのようにこの島国に棲みついた人々の意識の歴史の上に現われ、どのような経緯をたどって〈いま・ここ〉にまでたどりついてきたのか。

 その間の事情について一気に手際よく描き出そうとすることは、残念ながら今の僕などの力ではとてもおぼつかない大仕事です。何より、個別具体の水準での言葉、身の丈のもの言いに忠誠を誓うことで切り開かれる視野の啓発力に賭ける民俗学者としては、そんな大仕事などそれこそ筋違いで身のほど知らずの所業。問いとしては同じものを共有していたとしても、その問いから発したそれぞれの分野での専門家たちの誠実で良質な構築的仕事を参照しながら、それらの成果と〈いま・ここ〉との連関をつける足場をできるだけ記述的な言葉でつむいでゆこうとすることこそが、手もと足もとからの「歴史」の回復のためのわが役回りと心得ているつもりです。

 とは言え、そんな僕にも、今、ひとつ確かに言えることがあります。

 それは、「日常」をそのように記述的にとらえる態度の歴史に注目しようとするなら、必然的にその「日常」をとらえる言葉にどのような歴史が投影されてきたのかについても考えざるを得なくなる。そして、ことの必然としてその言葉と態度との関係をまるごと視野に入れることが必要になる、このことです。言い換えれば、メディアと社会の関係を「情報環境」としてとらえようとする社会観、歴史観が、方法的自覚と共に必要になってくる。人が単なる生物学的な存在であると共に、意味を呼吸する生き物である以上、そのような人をめぐる意味の磁場がどのような道具立て、どのような仕掛けによって成り立っていたのか、その点を透視しようとする方法的自覚があってこそ、いつの時代であれ「日常」を記述的にとらえる態度が必然的に手にせざるを得ないその記述の道具である言葉のありようの「歴史」についても、生身の人間を媒介にしながらとらえることができるようになるはずなのです。

 柄にもない大風呂敷を広げたついでに言ってしまえば、昨今いたずらに氾濫するようになっている「メディア」というもの言いにしても、このような目算の上に研ぎ澄まされてゆくことによって、もっと尖鋭で有用性の高い道具としてわれわれの前に現われてくるのだと思います。「情報環境」を編みあげてゆく「メディア」があり、それらを支える技術的背景があり、さらにはそれらを包み込んである経済活動の領域もあり、いずれそのような重なりあいの総体として社会があり、同時代がある。その一方でそれらに個々の暮らしの局面で接し、相互にやりとりをし、そしてさまざまに使い回しさえする生身の上演の場がある。だが、その気の遠くなるような遠近法をカバーできる単一で均質な水準の言葉というのを、おそらくわれわれは獲得していません。だから、記述的な言葉と構築的な言葉という不細工なもの言いで僕が言おうとしているのは、その野放図な遠近法を言葉の側にとりおさえてしまうためには単一で均質な水準の言葉を夢見ているのではおそらくだめで、そのような異なる水準の言葉の重なりあいや連なりあいを期す態度がそれぞれの作業の現場で必要なのではないか、という、言わばわれわれの知的な営みと言葉の水準の関係についての認識を書き換える、そのための提案だったりするのです。

たとえば、「写生」という言葉の内実

 とは言え、今のわれわれが素直に読みを同調させてゆけるような「日常」への記述的な視線は、そんなにすんなりと準備されてきたわけでもないようです。

 たとえば、僕は「写生文」というものが以前からずっとひっかかっています。

 文学史の教科書などでの一般的な説明としては、正岡子規が洋画の影響によって「写生」を唱えて俳句の世界で運動を起こし、それが島崎藤村らにも影響を与えて散文での「写生文」が出現するようになった、というようなことになっています。

 けれども、これらの説明だけでは、そのような「写生」という発想が当時の同時代的想像力の地平にどのように宿っていったのかについての消息はまだうまくつかめない。当時を生きた生身の人たちの感覚にとって、その「写生」がどのようなものとしてとらえられていたのか。ひらたく言えば、「写生」は当時の人たちにとってどうしてそんなに魅力的なものだったのか。そのためには、その「写生」を魅力的だと感じたはずの当時の人たちが生きていた情報環境についての横断的な見取図を、たとえ概略的なものであれ自前で作っておく必要があります。その意味で、最近の文学史研究の一部に見られるそのような洋画の道具立てと近代文体との関連について考察しようとする動きなどは、その構築的な言葉の難渋さに悩まされるとは言え、それら流儀の違いを超えてなお、僕のような記述的な言葉の徒の発想にとっても親しく、また頼もしく感じられるものです。

 実際、「写生文」というのは当時の、少なくとも文章を読むような人たちの感覚にとってはかなり新鮮なものだったようです。

 たとえば、長谷川伸は、若い頃に俳句と写生文の雑誌を愛読していたことを、自伝の中に記しています。

 「兄は新コ(長谷川伸……大月註)が兵隊である間中、新コの為に『ホトトギス』と『歌舞伎』と、二ツの雑誌を毎月買って置いてくれた、新コの愛読する雑誌はこの二ツだと兄は見たのでしょう。『ホトトギス』は俳句と写生文の雑誌で、今の『ホトトギス』に引続くものです。


 新コはその後、窮迫したとき、手製のメリケン杉の箱に入れていた数十冊の『ホトトギス』を売って愛読をやめた、その為めばかりではないが、多少はその故もあったのでしょう、新コは俳句をつくることが今以って出来ない、俳句のみかは夏目漱石の『倫敦塔』を読み『吾輩は猫である』を読み、内藤鳴雪や坂本四方太や寒川鼠骨やの写生文に親しんだのに、その方の文脈にも行かずでした。」―― 長谷川伸『ある市井の徒』

 俳句と写生文とが並んで売り物となっていたのは、子規が関係していた雑誌である以上不思議はありませんが、しかし、今となっては奇妙に思えるその取り合わせ自体が僕などにとっては興味深い。そのような雑誌を読んで楽しむ、その感覚というのは果たしてどのようなものだったのだろう、と、記述的な言葉はついついその先に食指をのばしてゆきます。

 俳句という定形詩によって表現され得る感情の領域というのが確かにある伝統としてあり、おそらくそれは、文字によって表現され得る「日常」のひとつの典型でもあった。たとえば俳諧連歌の「連」がどれだけ近世の町人文化の重要なメディアとして根を張っていたか、そしてそれらから供給される知識や情報がどれだけ町人のある層にとっての一般教養となっていたかは、これも最近の研究によってかなり知られるようになってきています。

 それらを考え合わせれば、この長谷川伸が記しているような「写生文」を楽しむ感覚には、俳句を楽しむ感覚というのも重なっていたはずですし、もっと言えばそこには、俳句という表現の形式によって「日常」を言葉にし得た近世の町人文化の感覚と連なる地盤が共有されていたことも考えられます。俳句を読むような感覚を知らず知らずのうちに水先案内としながら、その新しく出現した写生文を読んでいた当時の感覚というのもあったかも知れない。もちろんその俳句そのものも子規の唱えたような「写生」俳句であるわけですから、その時点ですでに俳句を読む感覚も近世以来のものではなくなっているのでしょうが、にしても、俳句という形式に接する時の感覚という程度の意味ならばそれほどの落差もなかったでしょう。

 この時の長谷川伸は二二、三歳。前後の文脈からすれば明治三十九年から四〇年頃の話です。学校教育はろくに受けていない、ただ没落士族のやっている私塾に通ったりしながらほぼ独学で文字を覚え、本を読むことの愉しみを知っていった当時の名もない若者のひとりです。当時の兵隊は「兵営所在地では文房具店などでも、一冊十五銭定価で売っていた」兵隊小説と呼ばれる軽い読み物を読む程度だったそうですが、彼はそれらには眼もくれなかったそうです。そんな彼がわざわざ兵営の中で読むようなものとしての「写生文」。教科書的な「写生文」の解説だけからはうかがえない、「写生」の浸透力を思わざるを得ません。

紙の上に写し取られた「日常」

 読み書き能力の普及と向上によって、そして印刷技術の発達による活字文化の広がりによって、「日常」が紙の上に、書き言葉によるテキストの中に融かし込まれているような感覚が、それまでよりもずっと広い範囲の人々に共有されていった経緯がどうやらあるようです。

 それまでならば単に難かしそうな文字の羅列を記した紙の束でしかなく、そしてその限りにおいては半ば工芸品のような意味さえ持つ“もの”でもあった書物が、いざその紙面の羅列に含まれる意味を読み取れるようになってみれば、その中に自分がふだん見たり、感じたり、耳にしたりしているリアリティが確かに写し取られていることに気づく。当時の情報環境の中で読み手の側がそう気づき、感じてしまう感覚というのは、それまでの話し言葉だけで「日常」が囲われていた状況とはまた違った興奮を人々に与えるものだったはずです。

 紙の上に写し取られた「日常」。眼に見え、そして手で取り扱うことが可能なように変形された「リアリティ」。それらに接する経験は、それまでなら自分ひとりの身のうちにうごめいているものでしかなく、だからこそわざわざ声に出し話し言葉に乗せない限りは世間の視線の前に露わにされることもなかったはずの「感情」をまるではらわたを裏返しておおっぴらにさらしてしまうような、不思議な感覚をもたらしたでしょう。

 その「感情」とは、それまでならばきっと「ハラ」といった言葉で表現されたり、あるいは「了見」とかいうもの言いによって表わされてきたような領域なのでしょう。しかし、それがうっかりと形ある“もの”として自分の外側に存在するようになってしまう。もちろん、その新たな「感情」の領域に対しても、人はとりあえずそれまでと同じ「ハラ」や「了見」といった語彙で対応しようとするしかないのだとしても、しかし、そのような新たに出現した状況の中ではそれまでの「ハラ」や「了見」の意味づけもまた変わってゆかざるを得ない。

 たとえば、知識層において「心理」といった言葉が流通してゆき、そうでない人たちの間でもたとえば「気持ち」や「こころ」といったもの言いが広く共有されていったのも、そういうメディアと情報環境の関係が変貌してゆく過程においてだろうと、僕は推測しています。もちろんそれは、「内面」が発見されてきた、と構築的に言ってしまえば確かにそれだけのことなのですが、しかしその「内面」というのがそれまでの認識の仕方とどれだけずれているものなのかについても見ようとしておかないことには、ある時期突然に「内面」が出現する以前の日本人には「内面」はまるでなかった、という平板なことになってしまいかねない。確かにそれまで「内面」はなかったかも知れないけれども、でも、「ハラ」も「了見」もきちんとあったわけで、その間の連続と不連続とをつぶさに見ようとする態度は半ば必然として記述的な言葉へと向かわざるを得ないようなのです。

「虚構」と「現実」の二分法の背後に潜む「歴史」

 「写真」についての歴史も、単に技術史的な意味だけでなく、まさに「情報環境」との関わりにおいて、近年だいぶ明らかにされてきています。また同じ頃、日本語に合うように改良されて急速に普及した速記術が「声の写真術」と言われていたことなどを考え合わせると、この「真」を「写す」というもの言いの背後に、ある同時代的な想像力が共有されていたように思えます。

 「真」がある。それは何か手段を講じれば「写す」ことができるものでもある。それ自体として〈いま・ここ〉に縛られているその場その時限りの手ざわりであるはずの「真」を「写す」技術がこの世には確かにある。

 このような認識から、文学における自然主義的な発想へはそんなに遠いものではないでしょうし、先に言ったような「内面」が明らかにされねばならないという欲望の増幅とも無縁ではないと思います。また一方では、それは西欧的な文脈での「科学」が当時の情報環境において人々の意識の上にどのように受容されていったか、というもっと大きな問題にもつながってき得る。

 究明すべき対象としての「真」が立ち上がってくる。「科学」によってであれ、あるいは「文学」によってであれ、そのような「真」に向かってゆくための旗印であることに変わりはない。実際、人々がそのように意識していたかどうかはともかく、意識のありようとしてはそのような「真」の出現によって刺激され、興奮とともにそちらへ向かう欲望も増幅されていった時代が確かにあった、そのことはひとまず言っておいてもいいように思います。

 思えば、近世的な意味での「戯作」の精神などは、このような「真」を設定してそこに向かって掘り進むようなものとは違っていたはずです。形にしておくべきこと、書き表わさねばならないものがあったのだとしても、それは“おはなし”という約束ごとの中でのものであり、そのような書かれたものに対して読み手それぞれの記述的な現実がそのままに対応させられるような読み方はまだ出現していなかった。昨今よく言われる「虚構」と「現実」という二分法にも、そのような二分法を成立させる条件自体にこのような歴史が介在していることを、どうもわれわれは忘れがちのようです。

「結局、日本の近代文体に要求されたものは、現前性というものに尽きていると言えよう。伝統的な(漢文・雅文の)比喩・修辞の排除、語り手の中性化、個人的観照としての表現、言と文の一致や写実性が求められたのは、記述される言語や言語によって構成される型・形式があたかも無化されて透明になり、言語により指示される事柄が読み手の眼前・内部に、あたかも現前するように仮構されることであったからだ。そしてその言語は均質的でニュートラルなものであるが故に、従来は決して同一の文章内に対等な表現として混交することになかった漢語と大和言葉だけでなく、当時において激増していた翻訳造語や洋語をも齟齬をきたすことなく取り入れることを可能にしたのである。」――李 孝徳『表象空間の近代――明治「日本」のメディア編制』

 この「現前性」というのは、敢えてこの場の文脈に即してほぐしてしまうならば、「自分にとっての〈いま・ここ〉が確かに写し取られていると誰もが感じることのできる性質」とでもいうようなものでしょう。文字が「日常」の間尺に舞い降りてゆき、こまごまとした意味の堆積が、声としてでなく具体的な形を伴った文字として、そして文章として作られてゆく。その結果、それまで当たり前のようにあやつられていた声もまた、改めてそのような「日常」の側にあり得ることに気づかされ、文字によって作られる「日常」の自覚からの照り返しによって声もまたその意味を変えてゆく。そして、それまではほとんどぼんやりとしたものでしかなかった「日常」という現実が、くっきりとした輪郭と共に逃れ難いものとして立ち上がってくる――何かそういう類の、世界のなりたちについての根本的な変貌がある時期、われわれの社会には起こっていたようです。