世渡り下手の弁

 さて、最終回であります。 昔っから、おまえはほんとに世渡りがまずい、と、よく言われてきた。いらぬ喧嘩をしてみたり、しなくてもいい苦労をしょいこんでみたり、おだてられてその気になって馬鹿を見たり(これがいっちゃん多い)と、なるほどそんなことばかりやってきたように思う。

 だから、世渡り上手にゃ勝てねえ、という思いは本当に身にしみついている。おのれのトクになる方へ臆面もなく身をすり寄せてゆくことのできる手合いというのは、つくづく才能なんだなあ、と思う。 そう、今に始まったこっちゃない。明らかに損とわかる方わかる方へと身の置き所を選んできたようなところがある。あとになって、ああ、そうか、ああいう時はあんな方向に歩いてゆくもんじゃないんだ、とわかったところで後の祭り。そんなてめえにイラついた過去もあったけれども、今はもうただこう言うしかない。しゃあねえじゃねえか、と。

 陽の当たる場所、華やかな環境というのは、どうも落ち着かない。自信がないと言われればそれまでだが、サマにならない、という自覚の方がずっと大きいのだ。淡々とそういう役回りをこなせるようになればいいとは思うけれども、とてもとても。二十代の間はまだあまりよく自覚できなかったのだが、三十も半ばを越えたあたりからようやくそういう依怙地と偏屈はてめえのものとあきらめがつくようになってきた。そう、前向きなあきらめ、ってやつね。

 それが最近はまた一歩踏み込んで、後知恵でなく初手から意図的にそういう方向を選ぶようになってきている。たとえ、同時代の世渡り上手たちのツラや身振りを横目でにらみながらぶらりぶらりと歩いてゆくしかないのだとしても、それくらい依怙地と偏屈を徹底しておかないと、てめえの足さばきがしゃんとする気遣いがこの先、もうありようがない、そんな危機感も身の内にあるのだ。



 さて、連載が始まって九ヵ月、その前の「どれくらいニュースかな?」から数えても足かけ二年と三ヵ月あまりの限られた期間でしたが、いずれこんな身じまいの悪いがさつな野郎の悪態とおつきあいいただき、本当にありがとうございました。誌面刷新は雑誌の常、それに伴う有為転変もいつものことと、ここはひとまず笑っておさらばであります。学会なんざとうの昔に見切りをつけ、大学だの研究所だのといったもっともらしい場所からもケツめくった身、もはや何かでとっつかまっても報道されるその肩書きは「“自称”民俗学者」でしかなくなっちまってますが、それでもまあ、これまで多少は身につけてきたやくたいもない知識や見聞を頼りにちっとは世の役に立つような仕事をこの先、やってゆきたいと思っとります。ご縁があればまた、どこかでお会いしましょう。そうそう、忘れちゃいけない。実にいいノリのコテコテのイラストをずっとつけてくれた(誌面になってから爆笑したことが何度もあります)西山さとし画伯にも、ここは長い拍手を。

 てなわけで、ちと早いですが、皆様、来年こそはよいお年を!