宮崎勤事件被害世代のポケモン騒動

 

 ちょっと時間が経ってしまったけれども、咋年末の「ポケモン」騒動について、多少は何か語っておかねばならない役回りなのだと思う。だから、言わせていただく。

 要するに、あるテレビアニメを見ていた子供たちが数百人単位で同時に卒倒した、事件としてはそれだけのことだ。そしてそれは、単純にフラッシュを多用したあの表現技法の問題であり、まずはそれ以上でも以下でもない。作品のストーリー自体に何か理由があったのではないか、といった詮索をしている向きもあるようだが見当違いだ。小説や映画など〃おはなし〃に接して、多くの人が同時に泣いたり笑ったりするのとはまた意味が違う。

 だが、この事件から引き出しておくべき同時代的な問いはものすごく大きい。そのことに世間はまだほとんど気づいていない。気づく気配さえない。それが実に腹立たしい。

 端折っで言ってしまえばそれは、今のニッポンの子供をめぐる情報環境がどれだけすっかり変わってしまっているかを考える絶好の糸口になるはずなのに、という苛立ちなのだ。

 単にテレビアニメというだけならどうってことはない。子供の間で大人気、と言われれば、ああ、そんなもんか、で大人は片づけてしまう。で、基本的にはそれでいい。だが、どうもこの「ポッケットモンスター」は、商品としてこれまでとは様相が違う。もともと任天堂ゲームボーイ用ソフトとして出されたものだが、テレビアニメに限ってみても小学校の低学年では視聴率は一○○パーセント近いという事態も、冗談ではなく平然とある。

 いわゆるキャラクター商品が子どもの身のまわりに増え始めたのは高度経済成長期まっ只中、六○年代半ばあたりからだった。当時、『暮しの手帖』編集長だった花森安治がそのことを嘆いたこんな文章を書いている。

 「大人でも、持ち物や、着るものや、便う道具によって、その人間が変わってくる。まして、これから育ってゆこうというこどもには、それが非常にひびいてくる。(…)おばけのQ太郎のついたノートに鉄人28号のついた鉛筆で書き、スーパージェッターのついた消しゴムで、おそ松くんのスケッチブックに鉄腕アトムのクレヨンで書く、そんな日々をつみかさねてどんな感覚がみがかれ、どんな勉強ができるというのだろう」

  「なにもかも漫画だらけ」(一九六六年)

 それから三十年あまり。このような環境で育ち、大人になり、人の親となった「世代」の子どもたちが、テレビアニメの前で泡を吹いて卒倒した。

 今回、ポケモンに反応した子供たちは十年近く前、幼女連続殺人事件で宮崎勤の餌食になった世代が含まれているのは必然である。情報環境の変貌とその中で作られてきた意識や感覚の問題。当時、僕は被害者の幼児の側から宮崎を「誘惑」した可能性を示唆して顰蹙を買ったが、さて、今となってみるとその示唆はそんなに非常識なものだったろうか。その程度に「世代」というのは具体的な「時代」に裏打ちされて存在する。

 テレビに対する無防備さを習い性にしてしまった親の世代の問題もある。「一日にこれだけ」と時間を決めて子どもにテレビを見せていたのはすでに遠い昔。一日中つけっ放しに近い状熊も珍しくない。それに、アニメに関して言えば夕方の六時三十分からという放映時間帯の問題もある。タ食のしたくで母親が一番忙しい時間帯だから、ベビーシッター代わりにテレビをつけておけば子供がひとまずおとなしい、といった使われ方をアニメはしている。ビデオに録画されたものがやりとりされるのも、そういう「実利」がからんでいる。だが、その「実利」がどのような意識と感覚を育むのか。あれやこれやと考えるべき問いはいくらでも出てくる。先の花森の懸念はそんな今だからこそずっしりと重い。

 かつて、「熱中」することは美徳だった。弊害はあったとしても、何かひとつのことに打ち込むことはとりあえず称揚されるようなものだった。だが、今やうっかりと「熱中」してしまうことのこわさ、何の準備も構えもなく「熱中」させられてしまう仕掛けというのが身の回りにいくらでもしつらえられていて、それはまた、子供をめぐる環境から先行して濃密になっているという現実に、われわれはもっと愕然としでいいはずなのだ。