カズ、がいるよ

 サッカー、強いなあ。

 いや、そりゃオリンピック予選だってことは知ってますよ。それも相手はフィリピンだのネパールだの、いくらなんでも日本にとっちゃ全くの格下だってことも十分承知してますよ。まとめて十三点とろうが、Jリーグじゃ控えのアンちゃんがハットトリック連発しようが、そんなもん本チャンの「世界」の舞台じゃ何の気休めにもならないことは、ええ、いくらなんでももう思い知ってます。

 でもね、強い、ってのはやっぱり素直にいいことでさ。ついこの間の世界ユース決勝、スペインの若い衆相手にまるでいいようにもて遊ばれたのに比べれば、ほとんど同じメンバーなのにやりたいサッカーを自由に試して楽しんでいるのを見るのは、観客としても愉快なものです。トルシェは今の登録メンバーで「ほぼ同じ実力のチームがふたつ作れる」と言っているらしい。ふむふむ、それだけ実力が均衡しているということ、そしてその分層が厚くなって競争が厳しくなっているということだな。Jリーグ以降、つまりサッカーに莫大なゼニと情報とが投下されるようになってから後の世代の若い選手たちにとって、それだけサッカーをめぐる環境は当たり前に豊かなものになっているってことだ。

 ただ、このところ例によってまた盛り上がりつつあるサッカーを語る時、ちょいとみなさん、誰か忘れちゃいませんか、と言いたくなる選手がひとりいる。

 三浦知良。そう、あのカズがあたしゃ最近、とても気になっているのだ。

 クロアチアに行っちまってからは、ちょこちょこと、まるで日本のファンに忘れられるのを防ぐためのようにたまにテレビのスポーツニュースに出るくらいしか、その姿を見かけない。所属のザグレブは今季優勝したようだけれども、カズがそれほど活躍したという話も聞かない。メディアの舞台で海外の日本人スポーツ選手といえば、野茂や吉井が相変わらず華やかだし、サッカーだともう一から十まで中田の話。正真正銘「世界」の一流、セリエAでいきなりの大暴れはそりゃすごいよ、すごいけれども、でもさ、はっきり言ってあたしゃ中田に一度ゆっくり話を聞いてみたいという気には、どうしてもならないのだ。

 ワールドカップの時も、ひとりいつもウォークマンを耳にチームの外にいるような印象ばかりがあった。君が代云々でトラブった時も、そんなに依怙地にならんでも、という可愛いげのなさが残った。いやいや、そんなものはメディアの舞台に流された情報の上だけのこと、そういう虚像の空しさに当の中田自身がいらだってて……云々というもう一方での「物語」も、まあ、わからないではない。それでも、中田にはどうも人間的興味がわかないのだ。初手から「乗り越えられなさ」を感じてしまって、よし、こいつといっちょかんでみよう、という気持ちがかき立てられない。それはこっちがもの書きとしてたかだかその程度ってことなのかも知れないが、でもね、カズはちょっと違う。いつか機会があれば話を聞いてみたい、そう思わせる何かがずっとある。ついでに言えば、ゴン中山もそうだ。うーん、なんというかなあ、あまりいい言い方じゃないけど、何か日本人としての親しみ、みたいなものを感じるのだ。

 最近、テレビで放映された彼の近況報告の中で、彼のクルマにレポーターが同乗して助手席側からハンディカムで撮ったシーンがあった。その時、カーステレオから流れていたのが沢田研二。「好きなんですか」と尋ねるレポーターに、「いや、カセットがこれしかなくてさ」。

 ああ、でも、カズにジュリーはなんだかとてもよく似合う。似合いすぎる。

 中田なら間違ってもそんな選曲はしないだろう。世代の違い、だけではない。パブリックエナミーやオフスプリングを平然と楽しめるという中田の耳と、カラオケでバラード系の曲を歌ってしまうというカズの感覚との落差は、単に年齢の違いというだけではないように思う。十五歳でひとりブラジルに渡って、その後八〇年代はずっとブラジル暮らし。そう、高度経済成長の蓄積を一気に暮らしのあらゆる局面に還流させ、最後は上を下へのバブル沙汰に向かってはじけていったあの時期の日本を、カズは知らない。彼が日本に帰ってきたのは九〇年。その後、世をあげてのJリーグシフトの中、彼は存分に使い回され、そして半ばぼろきれのように捨てられた。

 「魂と誇りはフランスに置いてきた」

 あのワールドカップ予選後の「強制送還」の悲劇の後、彼はそう言った。魂と誇り。サッカーでメシを食うのが当たり前になった世代にこの言葉が身にしみるようになるまで、カズにはやはり現役でいてもらいたい。みんなまだ忘れちゃいないはずだよ、あんたを。